七章・3
「お、おじゃまします」
人の家の匂いがします。吉野くんの匂いがします。
「とりあえず、どうしよう? あ、まず服着替えないと。いや、先にお風呂か。でも今服濡れてるし、せめて乾かさないといけないのか」
吉野くんは何から手を付けようかとわたわたとしています。そんなに慌てるようなことでもないのですが。
そこまでわたしの体も冷えてないですし。
「ぶへっくしっ!!」
特大のくしゃみがわたしの鼻から飛び出しました。残念、どうやらわたしの体は冷えていたようです。心なしか体も小刻みに震えています。芯から冷えきってんじゃねえか。
「なあに、大丈夫? すごく大きなくしゃみが聞こえたんだけれど?」
そんな穏やかな雰囲気の声とともに、家の奥の扉からきれいで優しそうな女の方が出てきました。
「あ、お母さん……」
「へえ、吉野くんのお母さん」
なんだか上品そうな方です。目のあたりが吉野くんにそっくりな気がします。
っていうか今お家の人いるんだ。普通こういうときって「今、家に誰もいないんだ」みたいなのがお約束だと思っていたのですが。まあ、そう言えば吉野くんはいるともいないとも言っていなかったのですけど。
お家の人がいらっしゃるのなら、そういう展開にはなりませんね。
「あら、翔太郎、その子は?」
「あ、ええっと」
吉野くんはなぜか視線を泳がせて言い淀んでいます。ちゃちゃっと言いなさいな。わたしは君の何かっていうのをさ。
しっかし吉野くんは口を噤んでいます。声帯がいかれたのでしょうか。もうこうなったら自分で言うしかありません。
「初めましてお母様。わたし、吉野くんとお付き合いをさせていただいております、幡宮 千紗というものです」
「な、ちょっと幡宮さん!」
なぜか吉野くんは慌てた様子でした。
「あらあらあらそうなのー? まあまあまあ!」
お母様はとても嬉しそうにそう言いました。顔には満面の笑みがはりついています。
「翔太郎ったら全然そんなこと言わないんだから」
ああ、だから吉野くんはさっき慌てていたのですね。あーあ、ばれちった。嘘のつけない正直な彼女でごめんね。
「とってもかわいい子ねぇ」
「あ、そんな、それほどでもお」
褒められても、わたし、否定はしません。
「あら、挨拶が遅れちゃったわ。初めまして、翔太郎の母です。いつも翔太郎がお世話に」
「いや、もう、そんなあいさつ今はいいから! お母さん、幡宮さん体濡れちゃって冷えてるから、着替えとお風呂用意してくれない?」
「あらそうなの? たいへん、ちょっと待っててね」
お母様はそう言うと、お風呂とかの用意をしてくれるのでしょう、家の奥の方に行ってしまいました。
「とりあえず、お風呂湧くまで温かいところにいた方がいいね」
吉野くんはわたしをリビングの方に通してくれました。暖房が効いていて暖かいリビングは、普段の吉野くんの生活なんかが想像できて、優しい家庭が想像できて、わたしは、嬉しい気持ちになりました。
吉野くんがたまご色の柔らかいタオルを持って来てくれたので、わたしはそれで服についていた水を拭きました。
「君、まさか言っちゃうとは思わなかったよ」
吉野くんは恨みがましくそう言いました。
「なんのことお?」
「わかってるくせに。君が僕の、その、彼女だってことをお母さんに言ったことだよ」
「いやあ、ついつい。それにしてもさあ、それなら君はどうするつもりだったのお? わたしが家に来たら、彼女って言う以外になんて説明するつもりだったのお?」
「それはちょっと、考えていなかったけど」
「まじかあ。じゃあなんでわたしが家に来るの良いって言ってくれたの? ごまかすプランがないのに」
「……だって、君は自分の家にいるわけにはいかなかっただろ? それに、こんなに雪も積もってるからどこか行くわけにもいかないし。さっきみたいに転んだら大変だし。そう思ったら、とにかくこっちに来た方がいいんじゃないかと思って」
「……うふっ、んふふ」
わたしの口から、こらえきれなかった笑いが漏れました。
「何?」
「いやあ、その、ありがと」
親に彼女がばれるなんて、思春期なら嫌がることだろうに、吉野くんはそれを我慢してわたしに今日の居場所を与えてくれた。
やっぱりわたしは、この人が大好き。
吉野くんのことを、好きになってよかった。
そう思います。本当に。
「お風呂、用意できたわよ」
しばらくしてお母様がリビングにやってきました。
「あ、うん、ありがとう。じゃあ、幡宮さん、行ってきて」
「うん、行ってきます。……覗かないでね」
「覗くか!」
「あっはっは!」
わたしはお母様に連れられてお風呂場の方に行きました。
「ここに着替え置いておくからどうぞ。タオルはこれ使って」
「ありがとうございます」
「ねえ、幡宮ちゃん」
「はい、なんですか?」
わたしはもしかしたら、腕のことを聞かれるのかと思いました。
でも、そうではありませんでした。
「あの子のこと、大事にしてあげてね」
「あ、はい! もちろんです」
「ありがとう。じゃあ、ごゆっくり。あ、そうだ。脱いだ服は洗っておくからそこに置いといてね」
「いえ、そんな、そこまでお世話になるわけには」
「何言ってるの。別にいいのよ、そのくらい。じゃあね」
お母様は最後に優しく微笑んで脱衣所を出て行きました。
吉野くんは、いいお母さんに恵まれたなあ。




