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六章・2

 見かねた沙耶がわたしをなだめて落ち着かせ、近くの喫茶店に連れていきました。


 わたしの隣に沙耶、真向かいに吉野くんが座ります。


 「まあまあお姉ちゃん。ほら、これ飲んで」


 「……ありがとう、沙耶」


 わたしは温かいココアを飲んで心を落ち着けました。甘ったるくって、それにいい香りです。


 「最初に二人を見てからなんとなく、付き合っているんだろうなっていうのはわかったんだけど、お姉ちゃんがそこまで吉野くんを好きだとは」


 「う、うるさいよ」


 「私は嬉しいよ。吉野さんがお姉ちゃんの彼氏になってくれて。だって吉野さん、すっごくお姉ちゃんのこと大事にしてくれそう。ね、吉野さん」


 「あ、う、うん。……と、ともかくありがとう、沙耶さん。さっきは助かったよ」


 「いえいえ」


 吉野くんのその不用意な一言で、わたしのこめかみがぴくっと動きました。……まったくこの男は。


 「沙耶、さん……? 沙耶さんって言ったよねえ、今」


 「ま、また? 今度は何なの? 幡宮さん?」


 「幡宮さん、幡宮さん……幡宮さんねえ」


 「なんで自分の名前繰り返してるの?」


 吉野くんはまるで気づいていないように首を傾げています。……この、ばか。


 「……あっ! そうかそうか、なるほどー」


 沙耶は何かに勘付いたのか、わたしの顔を見てニヤニヤしています。わたしと同じ顔でニヤニヤされると、いくら妹とはいえ何かむかつきます。


 そして、女の子の心に鈍感すぎるこの男の子にも、むかつきます。


 だから、わたしは心の中のもやもやを吐き出すことにしました。


 「……沙耶のことは沙耶さんで、わたしのことは幡宮さんなんだ」


 「あっ!」


 ここまで言わないと、この男の子はわからなかったようです。……世の中の彼女さんたちは、大変な思いをしているのだろうと思います。


 「いや、違うんだ。あ、いや、あの、違わないけど」


 吉野くんは本当に、おもしろいように慌てふためきます。その様子は見ていてとてもおもしろくって笑っちゃいそうになるのですが、ここで笑ってしまってはわたしが不機嫌であることが嘘みたいになるので、わたしはうんと堪えます。


 わたしは不機嫌そうな顔を、わたしの持つ演技力を総動員して作り続けます。


 「いや、でも、君だって僕のこと名字で呼ぶじゃないか」


 「沙耶だって君のこと名字で呼ぶじゃん」


 巻き込まれた沙耶を見ると、沙耶はニコニコと、無邪気な笑顔を浮かべています。嬉しそうな、楽しそうな顔をしています。


 「ねえ、吉野くん」


 「は、はい?」


 「……わたしのことも、名前で呼んでよ。…………し、し、翔太郎、くん」


 「うっ、あの、えっと…………千紗、さん」


 「…………」


 「…………」


 わたしたちの間に痛い沈黙が降ります。


 はっずかしいいいいいいっ!! なんだこれ、なんだこれは!? 予想以上に恥ずかしいです。名前を呼び合っているだけなのに、どうしてでしょう。


 体が、今までにないほど熱くなっています。血液が沸騰したみたいです。

 そして、顔はきっとリンゴ飴みたいに赤くなっていることでしょう。わたしの前に座っている、よ……翔太郎くんも顔を真っ赤っかにしています。完熟トマトみたいです。


 わたしたちの間の沈黙を破ったのは、沙耶の小さな「ひゅーひゅー」というひやかしでした。そんな冷やかし方、今時誰がやるのかというくらいくそ寒いものですが。


 「……やっぱり、わたしは名字でいいよ」


 「僕も、それがいいと思う」


 もしもこれを繰り返していけば、そのうち慣れるのかもしれませんが、慣れる前にわたしが死にます。全身の体液が沸騰して体が爆発四散して死にます。彼女のそんな死に様を吉野くんに見せるのは気が引けます。


 呼ぶのも呼ばれるのも、もう少し吉野くんと、恋人関係を深めてからの方がいい気がします。


 「私は沙耶のままで大丈夫ですよ」


 「あ、はい、沙耶さん」


 わたしは沙耶を心の中でひそかに尊敬しました。男性に下の名前でも平然としていられるとは。もしかしたら、沙耶にもお付き合いしている人がいるのかもしれません。顔はわたしに似てとても可愛いので、そうだとしても不思議ではありません。聞かないですけどね。


 そう言うのは本人に直接聞くよりも、探ったほうが楽しいとわたしは思います。


 それにわたしには、沙耶に聞くことが他にありました。


 「……ねえ、沙耶」


 「何?」


 「今日のこと、父さんは知ってるの?」


 「ううん、知らない。言ってないから」


 「そうなんだ」


 まあ、沙耶が正直に言ったら、素直に行かせてくれるとは思いません。

 だって、そういうものでしょう。わたしの家庭は、まあまあ複雑ですから。


 わたしたちの親の気持ちはわかりませんが、積極的にわたしと沙耶二人を会わせようとしていないのは、今までのことからわかります。


 「父さん、元気?」


 「うん、今日もお仕事」


 「そっかあ」


 「……ねえ、お姉ちゃん」


 「何?」


 「こっちの、南の家に、来た方がいいと思う」


 「急に何言いだすの? そんなの無理だよ」


 「でも、そっちは今……」


 「そっか、吉野くんから聞いてたんだね」


 たしか、吉野くんと沙耶が初めて会った時、吉野くんはわたしのことを全部沙耶に話していたのでした。


 だから、沙耶はこんなことを言ってきたのでしょう。


 「わたしは大丈夫。もうすぐ高校も卒業だし。大学に行ったら、一人暮らしをするつもりだから。だから、沙耶が心配することなんて、何もないよ」


 「お姉ちゃん……」


 「それよりもさあ、沙耶。もうすぐ受験でしょ? どこ行くの、大学」


 「君はごまかし方が本当に下手だね」


 すると、正面で静かにコーヒーを飲んでいた吉野くんが口を開きました。

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