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六、ベルクホーフの面々(2)

 さて、ここでわたしたちは、彼らを暫くうっちゃって置かなければならない。重要な事態が起こりつつあったからである。

 同時同刻。

 ベルクホーフの反対側の山の中腹にある小屋で、二人の女が夜食を取っていた。

「あのサナトリウムで間違いないの? あれが本当に欧州から兵乱を妨げる障碍なのかしら、随分と貧相極まりない建物ね」

 舌平目のムニエルを平らげながら、金巻き毛の少女が言った。一見、年のころは十二、三歳に見えるのだが、実年齢は十六歳だった。

 身に纏う金の象嵌が施された甲冑は数百年は時代遅れのものだと思われた。今にも合戦に馳せ参じようとするかのように物々しい雰囲気を漂わせている。

「そう。遠眼鏡でだけど、あのカストルプ青年が入っていくのが見えたからね」

 食卓を挟んで向かい合う栗毛色の女は、食事は軽く突きつつ、ワインを飲んでいた。

 傍らには葉巻専用の灰皿が置かれ、マリア・マンティーニが紫煙を上げていた。

 クローディア・シャウシャットである。先程とは打って変わって、シャツとデニムというラフな服装になっている。

「こちらもまた随分と、貧相な青年だわ」と、とんとんとテーブルの端に置いてあった、ハンス・カストルプの写真を指で叩いた。あんぐりと間抜けそうに口を開けた青年の姿が写っている。汽車の中でこっそり撮られたもののようだった。クローディアがやったのだ。

「でも、そう言う子ほど操りやすい」クローディアは笑った。

「兎も角、あのサナトリウムに入らないと、何も分からなそう。一体、中にどんな仕掛けが施されていることやら」と少女は言った。

「はいはい、潜入捜査はあたしの仕事だって言うんでしょ」

「カストルプ青年には、暗示はちゃんと掛けておいたんでしょうね?」

「それはもう、ばっちりと。汽車の中でね」

 皿は空になった。料理人はディナーを作った後はすぐ帰ってしまったので、おかわりは出来ない。

 食べる物がなくなった少女は欠伸をする。「本当に退屈。百年続いた欧州の平和も今夜でおしまい、と言うことにならないかしら」

「まったく平和と言うこともなかったでしょう、ペトラ。普仏戦争もあったし、オロシャと外地クリミアで争ったこともあった。まあ、あたしが実見した例では、と言う話だけどさ。更に遡ればもっと事例は見つかるし」

「その名前で呼ばないでよ。メジュフローと言う立派な通り名があるんだから」と少女は拗ねた。「いいや、欧羅巴は已然鼓腹撃壌の世を謳歌しているわ。一心不乱の大戦争が起こったことは、未だかつてないじゃない」

少女の名前はメジュフロー・ペトラ・ペーペルコルンである。メジュフローとはすなわちこの少女の出生地ホランドに於けるフロイラインを指す言葉ではあるが、それを通称として用いていたのだ。

彼女たちは何者なのか。

 わたしたちは簡単にそれを明らかにしたい。彼女たちは過激派組織『エンス・ボート』の構成員だった。ペーペルコルンは『エンス・ボート』の騎士であり、最高幹部の一人だった。クラウディア・シャウシャットはその直属の部下である。

 この組織が掲げる目標というのは、つまり、

 

 全欧州の撲滅。

 

 だった。わたしたちの二十世紀文明は爛熟を極め、今やその文化を全世界に見せつけている。

 その栄華がどうしても気に食わない連中が組織したのが『エンス・ボート』である。欧羅巴の各都市を破壊し尽くし、灰燼に帰さしめることが彼女たちの目的だ。しかしその名は世間一般では全くと言っていいほど知られていない。

 なぜか。

 それは彼女たちが『石工党』を名乗って犯行を繰り返していたからだった。石工党はその内実は不明ではあるが、何百年もの歴史を持つ組織である。国家解体を謳うことによって、多くの人に知られ、また悪名も高い。

 その名前を犠牲の仔羊スケープ・ゴートにして、彼女たちは暴虐の限りを繰り返しているのである。

 ところが、小規模の爆破事件の頻発により国民に石工党は憎まれこそすれ、とてもではないが、欧羅巴全土が灰燼に帰すなどという事態は起こりそうになかった。

 そこで目的となったのが大戦争を引き起こすことである。

 およそ、この地上で今まで行われたことのない最大級の規模の戦争を勃発させることによって、欧州の焦土化を計る方向へとシフトチェンジしたのだ。

 各国を憎み合わせ、お互いに争わせることによって、潰乱の巷を現前させようと言う作戦である。

 しかし。

「今まで何をやっても、うまく行かなかった」

 ペーペルコルンは舌打ちした。

 どのような工作を仕掛けようとも、欧州の政治情勢が戦争へ向けて歩き出すことはなかった。

 そんな中、『エンス・ボート』の本部が、その原因を突きとめたというのである。

 『エンス・ボート』の連絡は専ら暗号文を使って行われる。大幹部のペーペルコルンとてその全体の構成員を把握している訳ではない。

 一通の封書に込められて投函された手紙を解読したクローディアもペーペルコルンも、しばらく目を疑った。

それはこのシュヴァイツの山奥にあるサナトリウムが原因だというのだ。

 俄には信じがたい答えだった。だが、二人とも現地に足を踏み入れてみて、初めて理解出来るような気がした。

 ここには何か不思議な力が漂っている。

 この山中では時間の流れ方が明らかに下界とは異なっていた。それはこちらが遅すぎるのか、下界が早すぎるのか判別が付かない。

 ペーペルコルンは山から降りて、すぐ隣の県の町に食事に出かけたとき、それを強く感じた。

 辺りを通る人々の動きをまるで目で追うことが出来なかったのだ。

 皆――とても歩きが遅いはずの老夫婦ですら、眼にも止まらぬ速度で、道路を走り去っていくような気がした。

 暫くその動きを見つめていると目眩がしてきて、ストレスに弱い癇癪持ちのペーペルコルンには精神的な負担をもたらした。

 近くの店に入り、時計を確認して見ると、山を降りたのは二時間前であるはずなのに、十時間も進んでいたのだった。

 その日以来、彼女は山小屋に籠もるようになり、外へ出ることが大嫌いになったのだった。

 料理人は近くの村の者を雇うことにした。これがまあ腕っききで、美食家のペーペルコルンを飽きさせることはなかったのだが。

 最近では「ベルクホーフを完全に爆破しよう」と言うのが口癖になりつつあるほどであった。

 反対に山を降りてどこへでも行けるのがクローディアだった。彼女は特別時間の動きを気にすることはないらしく、寧ろ刺激的に感じるという。何度も他所との往復をこなしていた。

 当然、イングランディアの記者に扮して、汽車の中でベルクホーフへと向かう単純な若者を懐柔することもお安い御用だった。

「これであの青年を表敬訪問することが出来るかも知れない」

「でも、そう簡単にいくかしら? いくら何でも院長が簡単に頷くとは思えないでしょう。水入らずの人を受け容れるほどサナトリウムは甘くないし、第一、病気伝染うつされたくないし……」ペーペルコルンは顔を顰めた。

「あたしは大丈夫、ほら、不死者アンデッドだし」

「そういえばクローディアは、吸血鬼だしね」眠そうな声でペーペルコルンは言った。

 今は科学の世紀である。不合理な存在である不死者アンデッドは、表向きは完全に存在を抹消された状態にあった。

 だが、オロシャでは一部の地方に生き残りがいて、その一人がイングランディアに渡った。その血の流れを汲むのがクローディアだった。所謂、「血の祖父」という訳だ。

「永遠を生きるだけあって時間の感覚が我々とズレてるから大丈夫という訳なのかしら?」

「それは別に素晴らしいことじゃないよ。ただ頭はハッキリしてるのに情報の量が年々増えていくし、時間の経つのも随分と早く感じられる」と苦笑しながら答えた。

「でも、私とは違っておばあちゃんには絶対ならないわけでしょ? それって狡くない?」とペーペルコルンは唇を尖らせた。

「今の実年齢だってさ……」

「でも、今回重要になるのはもう一つの能力の方だ」クローディアは話を逸らした。

 魅了――不死者の持つ能力がハンス・カストルプに施されたことは明確だった。

「まあ細工は隆々、仕上げを御覧じろってことさね」

 クローディア・シャウシャットはスラリとした両足を大胆に交差させると、吸いさしの葉巻を口へと当てた。

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