六、ベルクホーフの面々(1)
暫くして、ハンスの後ろで物音がし、ヨアヒムが目を覚ましたのが分かった。
「ハンス」小声で呼ぶ声がする。
振り返るとヨアヒムは頭まですっぽりと毛布で覆っていた。両手を上に突き出してギュッと端を掴んでいる。目を合わせたくないとでも言った様子である。
「ずっと、騙していてごめん」
「ヨアヒム……」
ぶつぶつと呟く声が毛布の向こう側から聞こえた。
「ぼくが軍人の家に生まれた事は知ってるだろう。でも、ぼくの他に子供は生まれなかった。性別が女だったぼくは、子供を軍人にしたい親によって男と偽って育てられた。洗礼名のヨハンナをヨアヒムと変えさせられて、女である事は絶対に知られてはいけないと念を押された。でもハンス、ぼくは君と逢って君が好きになった。これがぼくの思いの全部だ。君にだけは秘密を打ち明けたいとずっと思っていた。でも、機会が得られなかったんだ……ああああああ、三十四号室に君が来なかったら、誤魔化せていたのにっ。慣習だったので、すっかり警戒心が鈍っていた。横になる前だったら、なんとしても君の侵入を防げたのに。物事には、順番があるんだっ! それがいきなり、ああ、こうもすっ飛ばされてしまうと、なんと言っていいか、分からなくなるじゃないかっ!」
ゴロゴロと毛布の塊が寝椅子の上で転がった。床に落ちそうな勢いだったので、ハンス・カストルプは急いで駆け寄ってそれを押さえた。
「そんな早口で捲し立てられても……」
いとこの頭が現れた。涙に濡れた真っ赤な頬を見せ、黒い瞳を潤ませている。
「ハンス、きみ(ドゥ)はどう思ってるんだ。ぼくのこと。ずっと隠していたぼくをさぞ、卑怯者だと思ってるんだろうなっ!」つんつんした調子で突っかかってきた。
事実、今までハンスはいとこを女性として見たことはなかった。ずっと同性の友達だと思っていたし、綺麗だなと思うときは幾らでもあったけれど、それ以上の感情ではなかった。でも、自分の行くところへはどこへでもいとこは付いてきたし、軍隊に入ってからここ数ヶ月疎遠だったのは、寧ろ異常な事態だった。
「そんなこと、思ってないよ」
「じゃあ、なんなんだよっ!」
「ぼくはヨアヒムが好きだよ。それは男とか女とか関係ないさ。ぼくはずっとヨアヒムが大好きだよ。それが間違っているって言うのか?」ハンスは強い口調になっていることに気付き、自分でも驚いていた。
「えっ!」ヨアヒムは目を見張っていた。
「ぼくに一番親切にしてくれたのはヨアヒムじゃないか。大事にしてくれたのはヨアヒムじゃないか。きみ(ドゥ)がいなかったら、今のぼくはないよ。きみが何者だろうと、ぼくは大好きだよ」ハンスは相手の目を見詰めて言った。
今までいとこと、いや誰とでも一線を引いてきたはずの青年が、何たる心の変化だろうか。
だが、よく考えるとさっきのセテムの薫陶が良かったのだ。あの少女は今まで一歩も踏み出せなかったハンスを僅かに前進させたのである。
「ハンス……」いとこの顔が輝いた。やがて泣きじゃくりはじめた。
「ううううっ……ぼくもハンスが好きだよ。本当に大好きだよっ!」
ヨアヒムは毛布を横へ投げて、ハンスを強く抱き締めた。
だが、わたしたちは述べなければならない。もちろん、賢明な方はお分かりだろうが、ハンスの「好き」は飽くまでいとことして、数少ない同年代の友だちとしてという意味であった。決してヨアヒムがそう望んでいるであろう女性として、と言う意味ではなかったのである。
この平行線は後々問題を生みそうだった。
「でも、じゃあなんで、軍隊に入ったんだよ。なんで、遠くに行こうとしたんだよ。病気になったのはそのせいもあるんだろ?」
「それは……きみ(ドゥ)が好きすぎるからだよ! 好きで堪らないから、側から離れようとしたんだよっ。でも、耐えきれなかった。ハンスなしじゃ耐えられなかったんだよお……うっ、ううううううう」
そう言って、ひたすら泣きじゃくった。ハンスはそれをずっと抱き止めていた。困惑の色がその顔には浮かんだが、しかし、相手が泣き止むまでずっとそのままにしておいてやった。
一時間経って、二人は三十四号室を出て、サロンの方へ向かった。ヨアヒムは先程までとは打って変わってすっかり明るくなり、頻りとハンスに話し掛けた。
「ここには妙な人達がいるんだ、ぼくが紹介するよ」
そして、ハンスの耳元に手を当てて言った。
「性別に関しては秘密になってるんだ。だから、ここでは絶対言わないでね」
早速入ったサロンの隅の方には長椅子が置いてあり、二人の少女がそこに腰掛けていた。裁縫をしていたらしく、前の机には待ち針と糸と布が置かれていた。
ハンスと同年代ぐらいだろう。一人は緑のボブカット、もう一人は褐色のロングヘアだった。お揃いのイブニングドレスを来ていた。仲がいいのだろうか。
「おみみえ! おみみえ!」と緑の方が突然叫びだしたので、ハンスは驚いた。年齢はハンスと同じぐらいなのだろうが、非常にあどけない笑みを浮かべ、瞬きを繰り返している。
「それを言うなら御目見得でしょ」と片側の娘が微笑んだ。こちらは隣の娘に足りない分の大人っぽさを余計に継ぎ足したように物静かな、洗練された佇まいである。
「ハンス、緑の人がカロリーネ・シュテール嬢。この山では古株らしい。もう一人がエンゲルハルト嬢、裁縫が大の得意なんだ」
「初めまして」とエンゲルハルトが起ち上がって一揖する。
「ハンスきゅんっていうんだあ、はじめまして」とシュテールは手を差し出した。
ハンスが手を出すと、バチンとその手は叩かれた。当然、青年は面食らった顔になる。
「変わってる子、なんです。どうか憎まないでないであげてね」とエンゲルハルトはにっこりと笑った。
「ハンスきゅんとヨアきゅんははらかるなの?」
「同胞でしょう? 兄弟なのかって聞いてるんです。この子は小さい時からベルクホーフにいるんで、感覚がすっかり下界の人とは変わってしまって。しかも生まれつき負けず嫌いだから、難しそうな言葉をたくさん覚えるんですけど、全部間違ってるから、自然とわたしが訂正に回っている内に仲良くなって」とエンゲルハルトは控えめに言った。
ハンスは普通な感じの女性と初めてベルクホーフで出会ったので、動揺していた。
いとこはもちろんラダマンテュスもクロコフスキーもセテムブリーニもこのシュテールもどこか浮き世離れしているけれども、エンゲルハルトは下界にもいそうな女性である。 そういう普通の女性を前にすると、ハンス・カストルプは怖じ気づいてしまうのだった。
「ぼくとハンスはいとこだよ」ヨアヒムが言った。
「ふううん。そうなんだ。じゃあ、抜け足ならぬ関係なの?」
「抜き差しならぬ」とエンゲルハルト。
「それってどういうことだい?」ヨアヒムが不思議そうに聞いた。
「こう言う本みたいなことでしょう」とエンゲルハルトはどこからか薄い本を取り出し、それをヨアヒムに渡した。
いとこはそれを手にとってパラパラと捲ってみた。とたんにまた顔が真っ赤に染まった。
「なっ、な……」
一日にこう何度顔色を変えていたら身体に悪いとハンスは思った。
しかし、その内容には興味を引かれたので、
「ねえ、見せてよ」と聞いてみた。
途端にヨアヒムが振り返った。本を後ろ手に隠している。
「だめだ! 絶対ダメだよ! ハンス、きみ(ドゥ)が見ちゃいけないものだ!」
「なんだよ、そんなに隠されると見たくなるよ。いいじゃないか」
ハンスはいとこに近付いた。この青年は熱中しすぎると周りが見えなくなる性分である。
その本の中身を絶対に見たいと思った。
あたふたとヨアヒムは身体を動かして、ハンスを避けた。ところがその拍子に、本が床に落ちて、ページが開かれたままになった。
ハンスは思わずそれを覗いた。
『あゝ、アッシェンバッハさん、ぼく、ぼく、もうっ』
なる文言と共に、そこに描かれていたのは、絡み合う裸の美少年と中年男の姿だった。
ハンスは驚いて暫くあんぐりと口を開けていた。
そして、そのままエンゲルハルトの方を見た。
だがハンスの気持ちはヨアヒムがちゃんと代弁してくれていた。
「エンゲルハルトさん、破廉恥なっ、なぜこんなものを見せてくるんですっ!」
エンゲルハルトは微笑みを崩さなかった。
「だって、こうも下界と距たっていたら、楽しい事なんて少しもなくなるのですもの。いいじゃありませんか。この本を見せた時、殿方の動揺されるのが、すこし、面白くて」
やはり、普通じゃなかった。
このベルクホーフの人々は、みんなどこかがおかしいんだ。ハンス・カストルプははっきりと悟った。
それが所謂『水平状態』によるものなのか、それとも高原の空気に晒され続けた事によるのかは定かではないが、下界の人とは大きく感覚がズレていることは間違いない。
時間の感覚も。
一体今は何時なんだろう。夜である事は間違いないが、時計もないので分からなかった。腕時計は鞄の中にしまったままである。わざわざ取りに行くのもしんどかった。
ハンスはまた自分の身体が熱っぽくなったことに気付いた。足先にいたるまで鉛の様に重く感じる。
「ヨアヒム……」
いとこに声を掛けた。
「ハンス」ヨアヒムがすかさず駆け寄ってきて、ハンスの身体を抱えた。
「無理してたんだね……、寝室まで連れて行こう。そこで休みなよ。夜は昼と違ってなおさら冷える、こんなところにいたらダメだよ」
すでにハンス・カストルプの意識はもうろうとしていた。
エンゲルハルトは心配そうな顔でこちらを見守っている。
「やっぱり抜き足差し足だ!」シュテールは叫んだ。「ラダマンテュスおばあちゃんの皺がまた増毛しそうだね!」
「それを言うなら……」とエンゲルハルトの訂正がまた入ったが、そこでハンス・カストルプの意識は途切れた。