五、セテムブリーニ
「うう……」ハンスは目を開けた。
「三十七度六分……七分……そして九分。計る度毎に見る見る上がっとる」
ラダマンテュスの僅かに嗄れた声が聞こえる。その両指の間には水銀式の体温計が摘まれていた。
「熱は一日に何度も計らねばいかん。ちょっとしたことでもすぐに変動するからのぅ」 クロコフスキーはその側で静かに立っている。
青年は肘を立てて少し身体を持ち上げた。そこは寝椅子の上だった。
ハンスのワイシャツは開かれており、中に体温計が入れられていたことが分かった。
夏オーバーは脱がされてどこかに持って行かれたのか、この部屋にはなかった。
確かに額が火照るように熱い。全身が鉛のように重く感じられた。
「ぼくは……そうだ、ヨアヒムに……」ハンスは呟いた。
「ハンス君、じゃったかな。はっきり言おう。君は結核じゃよ。緊急措置じゃが、ベルクホーフに入院しなければならん」
「そんな……」
「恨まんどくれよ。結核患者が都会にいては悪くなる一方じゃからの。君がいつこの病気に罹ったのかは分からんが……しかし治すことが何よりも先決じゃ。このままではヨアよりももっと悪くなるぞい」 「そうだ、ヨアヒムは」
「隣を見い」
隣りの寝椅子ではヨアヒムが頭を横に向けて眠っていた。僅かに寝息を立てて、呼吸は深かった。そのからだは毛布でぐるぐるに包まれていた。
「一体どうしたんです?」
「すっかり泣き疲れて寝入ってしまったよ」 ヨアヒムは我慢して我慢して、最後に思いっきり泣くのである。ハンス・カストルプはいとこの姿をよく見て知っていた。
「これが、横臥療法じゃ」
「それは……なんなんですか」
「要は毛布を身体に巻き付け、アルプル抗原の寒気に晒す訳じゃ。ご存じの通り、ここでは下界とはまったく違った時間が流れておるからな。そして身体を見たら分かるように寝椅子へ横に寝そべらせて『水平状態』にする。ここが肝要じゃ。このベルクホーフの住人のほとんどは――わしら医者を除いては――『水平状態』で一日を暮らしておるのじゃよ」
「それじゃあ、ぼくは……」
「君も『水平状態』になりなさい。簡単なことじゃよ。毛布を被って寝ておればよい。他の患者と話してもいいが、余り長時間は行かんぞ。散歩もわしらに許可を取ればオーケーじゃ。食欲が出て来たらなんでも食べさせて進ぜよう。それでよいかね?」
ラダマンテュスは酷く優しい口調で丁寧に説き聞かせた。
ここまで言われてしまうと、ハンスは断れなくなる。哀れな青年は押しが強くはない。
「今日は君の他にこの部屋にもう一人患者がやってくる予定じゃ。少し気むずかし屋じゃが、決して悪い奴ではない。是非相手をしてやっておくれな」
ハンス・カストルプは静かに頷いた。
まず青年のシャツはクロコフスキーによって完全に脱がされた。女医はその見事な胸の谷間を見せながら、黙々と仕事を続ける。
脱脂綿で綺麗に青年の身体を拭いていく。完全に手慣れたやり方である。白衣の下に黒の『コルスレ・ゴルジェ』を着装した褐色の盛り上がりが肌に接すると、ハンスは非常にどぎまぎとして、顔を背けた。
青年の身体に毛布が巻き付けられていく。これもテキパキとした動きで、少しの躊躇いもない。
ハンスの頭から下はすっかり毛布で包まれた。
「ドクトル・クロコフスキーの本職は精神科医なのじゃがの。何分人手が少ないのでこうして看護師の役割も引き受けて貰っているというわけじゃ」ベーレンスは説明した。
「後は安静にして置いて下さいね」クロコフスキーは念を押した。その生真面目な態度にハンスは好感を抱いた。
二人は足早に去って行く。次の患者を診に行くのだろう。
一人になってハンスは考えを巡らせ始めた。 「ヒッペ君の夢を見た。次の日、学校に行ったらヒッペ君はもういなかった。転校したと言われたが、よく納得は出来なかった。結局鉛筆は返しそびれたのだ。今でもそれが気になって仕方がない。実際ぼくの鞄の中にはいつもあの小さな鉛筆が潜ませてあるのだ。自分でも随分偏執的だという感じはする。でもどうしてもヒッペ君にはまた逢って、あの鉛筆を返したいんだ。そして消しゴムも返して貰いたいんだ。それができたらぼくはどれだけ報われる事だろうか」
鋭い足音がしてハンスの身体はびくっと跳ね上がった。
まるで芋虫のようだ。ハンスは自分がさぞ不格好に見えることだろうと思い、赤面した。
一人の少女が――ハンスと同い年ぐらいだろうか――鍵が掛けられていなかった三十四号室の扉を押して、中に入ってきた。
その姿は風変わりだった。赤い燕尾服を着込んでマントを被り、頭にはシルクハットを乗せているが、その胸は緩やかに広がっていて、男装ではあるが、いとこがそうだったようにそれを隠していないことが分かった。髪は服と同じ、いやそれ以上に濃い緋色だった。
ガーゴイルの姿を彫り込んだステッキをついてこちらに歩いてくる。
「誰だ!――……あのう、どなたでしょうか」
更に驚いたハンスは最初は声を荒げたものの、やがて小さくして丁寧な口調で聞いた。
「これはこれは、大した歓迎だな」
少女は不敵な笑みを浮かべて、一礼した。 その後軽く咳払いして、
「わたしはルドウィナ・セテムブリーニ。ツィームセン君のいとこというのは君のことだね?」と聞いた。イタリー系の名前である。
「どうして分かるんですか!」ハンスは驚いて問い返した。
「いやなに、私が廊下を移動中に、ラダマンテュスとクロコフスキーが話すのを聞いた、と言うだけのことさ。すかさず物陰に身を潜めたので気付かれなかったがね。ドアも開けっ放しで随分と不用心なことだ。三十四号室には今日私が予約をとって置いたはずなのだけどね」
「それは……済みませんでした」取り敢えず謝る癖が、例によってハンス・カストルプにはあった。
「それで、君の名前は」
「ハッ……済みません。ぼく、ハンス・カスルプって言うんです……」
「ハンスか。謝りまくりだな。そんなに謝っていたら日が暮れてしまうよ」セテムブリーニは微笑んだ。そして、ハンスの隣の寝椅子に腰を下ろした。
忽ちハンスの心臓の鼓動は早まり始めた。自分は今両側を女性に挟まれている事に気付いたのだ。いささか風変わりな女性陣ではあるが。
「セテムブリーニさんは、こちらの患者さんなんですか?」
「身を『水平状態』に保つこと。これこそがこのベルクホーフ、ただ一つの掟なりだよ。あと長いのでセテムでいいよ。たぶん同年代だろう。十八才だ。タメ口でいい」
意外に気さくな人のようだ。ハンスはちょっと安心して、緊張もほぐれた。
「ぼく、十七才です。でもその程度なら。それじゃ……セテム、よろしくね」
青年は手だけを何とか毛布から引き抜いて差し出した。セテムは白手袋を嵌めた手で握った。
それでもその内側にある柔らかい掌の感触は伝わってきた。
セテムはシルクハットと、マントを脱ぎ、自分で毛布を被って、綺麗に水平の状態になった。
「手慣れているんだね」
「うん、もう毎度のことだから、最初はハンスみたいにぐるぐる巻きにされてたけどね」凜々しいセテムの顔に初めて少女らしい表情が浮かんだ。
改めてハンスは毛布に包まれて横たわっている自分の胴体を見た。これが『水平状態』か。アルプルの寒気は身体に吹き付けてくるのに、発熱と毛布の暖かみとで、寧ろ暑苦しいほどに感じる。下界では今は夏なのだから、当然の事なのだが。
――『下界』では、か。ハンスは思わず自分がそう考えてしまったことに驚いた。先程まで他から遣ってきた客人気分だったのに、今ではベルクホーフ側の人間だと思ってしまっている。既に自分がこの山の上の世界に取り込まれたかのようだった。
「ベルクホーフって、変わった人ばっかりなんだな」
「それは私が、変わっているってことかい。ウブなようで随分と直球なんだな」皮肉な調子でセテムは応じる。
「あっ、そんなことが言いたかったんじゃないんだ。ごめん」
「ほらほら、また謝った。十分も経たないのに三回目だ。その癖は止めといた方が良いよ」
「そうだね。でも、ぼくは卑屈に育ったからなかなか止められない。大叔母にもクラスメイトにもなにかあれば謝っていたから」
「大叔母、という事は両親はいないの?」セテムは顎に軽く指を当てた。
「うん、物心ついた前後に亡くなってしまって。ぼくは自分を『お姉様』と呼ばせる大叔母に育てられたんだ。それはとんでもない女だった……悪人ではないのだけど」
「でも、それだけでそうなったの?」
「えっ?」
「それは本当に生まれのせいなの? 自分のせいじゃなくて。少なくとも今回、謝ったのはハンスだろう」セテムは赤毛とは対照的な薄氷色の瞳で、ハンス・カストルプを見詰めた。
「えーと、うーんと」青年ははしどろもどろになった。
「ふふふふふっ」明るい声でセテムブリーニは笑った。
「誰しも、そこからスタートするんだよ。他人のせいにすることからね。そこから一歩進めるかどうか、それはその人次第だ。一生ループから抜け出せない人も当然いる。ハンスがそこから抜け出せなくても、別に構わない。自分に責任を引き受けて得、という事もないからね。損することだって多くあるかもしれない。でも、わたしはそうだな」
顔を天井へ向けたままにして、
「抜け出して貰いたいかな」と言った。
そう言われた時、ハンスの心臓はギュッと掴まれたように鼓動した。だが、この単純にして鈍感な青年は、その感情が何かよく分からなかった。わたしたちとしては、非常にむず痒いところだが、これがこの青年の現時点での限界でもあるので致し方ないものもある。
「ふふふふふっ、ところで、今度一緒に散歩しない? 熱もいつかは下がるものだからね。この近郊にはなかなか良いところがあるんだ」
二の句が継げなかったハンスは、それで一気に呪縛から解き放たれたようになり、答えた。
「もちろん、喜んで」
気付いたら熱が下がっている気がした。計ってはいないが、随分身体が軽くなったように感じる。今すぐにでもこの人と散歩に行ってみたいと思った。
「それでは、そろそろ、行かせて貰うとするよ」
「もう?」ハンスは残念に思った。幾らでも、何時間でも話していたいのに。これだけの時間で離れがたく思わせてしまうとはなんたる話術の持ち主だろう。
「そこなツィームセン君、魘されてるよ、起こしてあげた方が良い」
「う……うっ……ハンス……」
ヨアヒムは目を閉じたまま、前額に髪を垂らして、その薄い唇から呻き声を漏らしていた。
「ヨアヒムっ!」ハンスは叫んだ。
「話を聞き囓る限り、随分と嫉妬深い娘のようだな。目覚めるより前にわたしは退散させて頂くとしよう」
「し、嫉妬深いって……」ハンスはびっくりした。
「それじゃあ」そう言ってセテムブリーニは、マントと羽織り、シルクハットを被って、部屋を出て行こうとした。
「ま、待って!」ハンスは呼び止めた。
身体に巻き付いた毛布を剥がそうと四苦八苦したが、二重に強く巻き付けてあるので、なかなか外せない。その間にもセテムはドアの方に向かっていく。
「実はハンスと話したくて、今日だけ同じ部屋にして貰っていたんだ。ごめんね」
そう言ってセテムは後ろ姿のまま、脱兎のように廊下を走って行った。
ぽかんと口を開けたままで、ハンスは取り残された。
しかし、冷静に考えて頂きたい。これは不思議な言い草である。いとこと同じ三十四号室でハンスが横臥療法を受けることはつい先程決まったことである。なのに、セテムブリーニはなぜそのことを知っていたのであろうか。そして、予約を取り付けることが出来たのか。
だが、茫然自失したハンスはその矛盾に気付くことは出来なかった。