四、ハンス・カストルプ――その素描
さて、この物語の主人公、ハンス・カストルプが気を失っている間に、わたしたちは皆さんにあらかじめそのパーソナル・データーを提供して置きたい。
ハンスの母はハンスが五歳の時、父は七歳の時に死んだ。母はハンスの次の子供を妊娠していた時に心臓麻痺を起こしたのだ。父はそのショックで心身の調子を崩し、やがて二年後に死んだ。その後は祖父に引き取られたが、この祖父も一年半後には死んだ。
全く天涯孤独の身になったのである。だが、母親の大叔母にあたるジャクリーン・ティーナッペル嬢がいて、その家に引き取られる事になった。
ティーナッペル嬢は当時芳紀十八歳にして既に、ティーナッペル家の遺産を全額相続する身分だった。
兄弟は多く死に、姉妹の殆どは他家に縁づいていたため、末娘のジャクリーンが継ぐことになったのである。家を飛び出してまでカストルプ父と結婚した続き柄上の姪とは親しく往来していた関係で、その息子を引き取らない訳にはいかなかった。
いとこは母の腹違いの姉の子供だった。当然ジャクリーンとは親戚なので、自然とティーナッペル邸に足を伸ばすことが多かった。仲良くなったのは理の当然と言える。
しかし当時七歳のカストルプにとって、この叔母との生活は精神に深刻な事態をもたらした。
女装をさせられたのである。ジャクリーンは兼ねてより衣裳の蒐集に凝っており、幼いハンスはクローゼット前で半裸にされて何度も着せ替え人形にされた。冬場などは震えるハンスはシャツも着せて貰えずに素肌を晒された。家政婦などもニヤニヤ笑いながらその姿を眺めて通り過ぎた。
二十歳を越えたジャクリーンがぶどう酒製造業に着手し、そちらの仕事が多忙になってからは、反対に一切構われなくなったが。
「ハンスったらー、文句一つ言わずに付き合ってくれるんだから」
だがその実、この大叔母に怯えていたと言うだけの話である。ヨアヒムすらも「お姉さん」ではなく「叔母さん」とでも言おうものなら打擲されていたものだ。
もちろん、心底から根性がねじ曲がっている訳ではなく、単に気分屋なのだ。上機嫌ならハンスもヨアヒムも猫可愛がりに可愛がったが、ちょっとでも機嫌を損ねようものなら、もうめちゃくちゃである。
ハンス・カストルプが鬱屈した青年に育ったのはこのようなエキセントリックな大叔母に育てられたからによるところ大であった。
しかし、わたしたちに対し、皆さんは問われるだろう。
プリービスラフ・ヒッペとは何者なのかと。何故ハンスはクローディア・シャウシャットの面影に彼を重ね合わせたのかと。
そこでわたしたちはここで一挿話を提供したい。彼がまだ十才にも満たない時のことだ。ハンスはまだ小学校の高等科に在籍していた。 秋の庭には溢れんばかりの落ち葉が散り敷いていた。学校から帰ってきたばかりのハンス・カストルプは早速ピナフォアに着せ替えられて庭を歩かされていた。踏む足毎に枯葉の鳴る音がした。
「さあ、もっと歩いて、そうそこ、スカートを振りつつ、クルッと回転して!」ティーナッペル嬢は手を叩いて叫んでいた。
この褐色の髪を頭の両側で団子にした女性はこの時から現在に到るまで、その容貌にほとんど変化が感じられない。今では年増とも陰口を叩かれるような齢ではあるが、十代と呼んでもなお通じそうな容貌だ。
この日もなかなか終わることのない個人ファッションショーを、ハンス・カストルプに強いていたのだった。
「今日はお友達が来ているの、さあっ、入って、ヒッペ君」いつもながらの強引な口調でうなじの後れ毛を掻き上げつつ、大叔母は声を上げた。
すると屋敷の開いた窓から、ハンスとお揃いのピナフォアを来た少年がよたよたと入って来たのである。
「ヒッペ君!」ハンスは驚愕した。ヒッペは小学校の一学年上の生徒だった。
ハンスはこのクラスメイトに好意を寄せていた。彼の存在を他の生徒の中でも特別なものだと認め、とても親愛の情を抱いていた。変わった名前であることもあり、クラスでからかわれることも多かったが、ハンスにとってはそれすらもチャームポイントに思われた。
ハンスの記憶に拠れば――彼は栗毛色の髪の毛を持ち、とても目の細い美少年だった。その横顔を眺めているだけでハンスはドキドキした。
だが小学校という人の多い空間という事もあり、親密になる機会はさほどなかった。ただ眺めているだけで親しくなれないことにやきもきしていたのだ。
それがいきなりこんな場所で、しかも女装したプリービスラフ・ヒッペに逢おうとは、とても想像できない事態だった。
幼いハンス・カストルプは狂喜したが、大叔母にこの事実を悟られまいと、澄ました顔を続けた。
「ヒッペ君はね、ハンス、キミと違って、女装が大好きらしいわよっ! 仲良くなりたいなら、もっと進んで自分から着換えるようにしなさい」
ティーナッペル嬢は何もかもお見通しのようである。
「さっ、二人で肩を組んで、右、左、ゆっくり脚を出して!」
二人で一緒になって叔母に言われるままに踊りをしながら、ハンスは思いきってヒッペに声を掛けた。
「ヒッペ君……!」
「なんだい?」とても高い声で相手は応じた。
「きみとお近づきになりたいんだ。何かその……物を交換したくて」
なんで、そんなことを言ったのだろう。
「これしかないよ」と懐から取り出されたのは小さくなった鉛筆だった。
「じゃあ、これで」
震える手で、カストルプが出したのは消しゴムだった。授業の時、入れたままで忘れていたのだ。
ティーナッペル嬢に言われるとおりに肩を組んで踊りながら、その合わされた掌の間で、鉛筆と消しゴムは往き来した。
突然彼女は席を立って、開いた窓の中に消えて行った。
蓄音機を持ち出してくるのだろう。いつものことだ。
「ひ、ヒッペ君、こ、これから仲良くしよう」とハンスはどもりながら言った。
「でも、きっと鉛筆は返してよね」ヒッペは静かにいった。
「も、もちろん、約束するよっ!」
大叔母がレコードを載せた蓄音機を両手に抱えて運んできた。枯れ葉の上に置いて、針を落とす。
音が瞬く間に秋の庭を浸した。
「泉に添いて 茂る菩提樹
したいゆきては うまし夢見つ
みきには彫りぬ ゆかし言葉
うれし悲しに といしそのかげ」
シューベルトの『菩提樹』だった。とても踊りが出来そうな曲ではない。
だが、音楽に対して造詣のほとんどない大叔母は、そんなことには一切構わずに、二人に踊りを強いた。
二人が言われるままに踊りを再開しようとした、その時である。
「ティーナッペルお姉様、今日はもう良いだろ!」
一人の美しい蒼髪の少年――少女がサッカーボールを腕に抱えて、こちらを見ていた。
ヨアヒムだった。
救世主のようにハンス・カストルプはいとこを見た。
ヨアヒムは強情で決心したことは絶対に変えない。ティーナッペル嬢が幾ら着換えさせようとしても頑強に拒み続けたほどだ。
大叔母も流石にヨアヒムに睨まれるとこれが潮時だなと感じたらしく、三番目に入った『菩提樹』を途中で止め、蓄音機を部屋の中に戻しに帰った。
「ハンス、大丈夫だった? 怪我はない?」ヨアヒムはいつもの通り甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。手足を注意深く観察してハンスが怪我をしていないかどうか確かめる。
その隣りにいるヒッペの存在にじきに気付いたヨアヒムは、
「きみ、ハンスのクラスの子だろ。なんでこんなところに来てるんだ」
と、ちょっと棘のあるいい方で詰問した。ハンスとヨアヒムは違う学校に通っていたが、ハンスの事が心配なヨアヒムはこっそり小学校に忍び込む事が自然と多かったので、ヒッペを知っていた。ハンスがヒッペになぜか関心を持っていることも。わたしたちはこれを嫉妬から来たものだと容易に説明することが出来る。
「別に」と短く返す。
「じゃあ、帰ってよ」冷たい流し目でヨアヒムはヒッペを見た。
「ヨアヒム!」ハンスは叫んだ。
「ハンス、そんなことより、ぼくとサッカーしようよ。こんな、どこの馬の骨とも分からない奴、どうでもいいじゃないか。それよりさ、こんど我が国でもサッカー連盟が作られることになって……」
ハンスは内心では怒りを感じていたが、それをいとこに向けることはできなかった。彼は当時から大人しく、内気な子供だったからだ。
ふつう、籠もった気持ちはいずれ爆発せずにはいられないものだが、ハンスの場合はそれを長年巧みに手懐けて、すっかり飼い慣らしてしまっていた。
つまり彼は半ば生ける死人になりつつあったのだ。
「それじゃあ」とヒッペは一人で歩き出した。その後ろ姿は少女そのものであるかのように見えた。
「ヒッペ……」
強い力で、後ろから襟が掴まれた。そのまま踵で枯葉を潰しながら、ハンスは庭を引き摺られた。季節外れのひまわりのようにヨアヒムが笑っている。
少年の後ろ姿は遠く遠く、小さくなっていく。
「ヒッペ君……」
と、ここでハンス・カストルプは目を覚ました。