三、ラダマンテュス
「こちらが、ベーレンス顧問官、このベルクホーフの院長先生だよ」と、ヨアヒムは手を差し伸べて紹介した。
書物机の前の背凭れが高い椅子に坐っていたのは、どう見ても十を二つか三つ出たぐらいの少女であった。深海青の長髪がボサボサとセットもなしで後ろまで流れている。その上半身はローブで覆われていた。
「ラダマンテュスと呼んでくれい。皆、わしをそう言う風に言っとる」高い声だが僅かに嗄れていた。
ラダマンテュス――冥府の裁判官か。随分と大仰な名前だな。ハンス・カストルプは思った。しかも場所が場所だけあって余り好ましい渾名じゃない。患者たちは病状が好転する事を望んでいるだろうし……。
少女は小さな手を突き出した。握手しろと言うことだろうか。
「ハンス・カストルプです。よろしくお願いします」
ハンスはその手を握り返した。
「わしのことを子供だと思ったりせんかね」
悪戯っぽくベーレンスは微笑んだ。
ぎくりとしたハンスは思わず身を引いた。少女は余裕の面持ちですっと腕を伸ばす。すると、小さな上半身が前のめりになって、ベーレンスは俯せのまま書物机を滑った。
暫し沈黙。
「……く、ぐるちい、おこして」
少女が頭を起こした。便箋が顔に貼り付いておそらく口にあたる部分が凹んでいる。手を握る力が緩んだが、そのまま離したら床に激突するかもしれない。なのでハンスは急いで助けようと思っても、少女の手を握ったまま身動きできなかった。
その体勢でベーレンスに近付いたが、ヨアヒムの方が走り出すのは速かった。
便箋をラダマンテュスの顔から剥ぎ取った。暫く荒く呼吸をしてから少女は言う。
「鈍感な青年じゃなあ。こういう時はぼさっとしとらんで、すぐ助けに来んかい。ほんとにヨアは男を見る目がないのぅ。こんなショボチンを想い人に選ぶなんて、絶対まちがっとるよ」
ヨアとは変な略称だ。しかも想い人? ハンス・カストルプはやや驚いた。
しかし、もっと驚いていたのはヨアヒムだった。
「うわーっ、うわーっ!」
と突然奇声を上げ、顔をまた完熟トマトみたいにすると、両手をぶんぶん振り回して、机の上の掴めるだけの便箋を引っ掴んだかと思うと、ラダマンテュスの口の中に突っ込んだ。
「ひ、ひぬー、ひゅーひゅー」少女のほっぺたはくちゃくちゃになった紙で膨れ上がり、苦しそうに喉を鳴らし始めた。前髪が額に掛かり、目の玉は裏返っていた。冥府の番人が冥府へ旅立ってしまいそうな具合である。
ヨアヒムはといえばまだ真っ赤で頭から湯気を出したままでいる。
その時、助っ人が来た。背の高い――ハンス・カストルプの身の丈より頭一つ分ほど高い女性――がどこからともなく現れ、ラダマンテュスの口から丸められた紙を素早く残らず引き出したのである。
「またですか、院長。困ります。患者に精神的負担を掛けさせては」
白衣の間に見えるちょっとビックリするほど豊満な胸の谷間と、見事な曲線を描いた脚。白銀の髪と真っ黒な肌のコントラストが目を打った。通った鼻筋と、やや尖った耳。
ハンス・カストルプは今までこう言う類いの女性を見たことがなかった。名前から推し量って、移民だろうか。
暫く嘔吐きを押さえていたベーレンス顧問官はようやく澄ました調子を取り戻して、
「ドクトル・クロコフスキー、いつもありがたい。このままでは昇天していたところじゃ」と言った。
「今回も好転してきているから迎えにいかせたのであって、普通であれば無理は禁物なのです。それをあなたは、院長。ストレスを掛けるような事ばかりを話す」クロコフスキーはややきつめの声で咎めた。
「さあてと、わしもちょいと言い過ぎたようだの。ヨア、すまん」と坐ったままぺこりと頭を下げる。
「ぼくこそ、取り乱してしまって済みませんでした。その事は自分で時間を選んで伝えたいんです。だから、今は……」
落ち着きを取り戻したヨアヒムは、恥じ入った様子で懇願した。
「ま、落ち着きなさい。病人は心身の安静が必要なのじゃよ。それでは『横臥療法』の時間じゃ。三十四号室へ向かおうか」
クロコフスキーとラダマンテュス、ヨアヒムは三人で連れ立って部屋を出て行った。
ハンス・カストルプは置き去りにされたかたちである。
ハンスは格別騒ぎ立てるでもなしに、静かに三人の後を追った。
三十四号室と部屋番号が書かれた木製のドアに鍵は掛かっていなかったので、中に入ることができた。
部屋と繋がったバルコニーには寝椅子が三脚ばかり置かれていたが、ヨアヒムの他には誰も横臥していなかった。その両側にクロコフスキーとベーレンスが立っている。
いとこのワイシャツははだけられて胸が見えていた。爪先立ちしたベーレンスの聴診器が当てられている。
ハンス・カストルプの視線は思わずそちらに寄せられていった。白い肌と小さな胸の膨らみが分かった。先には綺麗な色の乳首が見えた。
ああ! 幾らウブなハンスにも理解すること出来た。
まさしく女性の乳房をいとこのヨアヒム・ツィームセンは持っていたのである。
驚愕の中にありながら、ハンスは記憶を探り、ごく稚いときは時は別にして、このいとこが決して自分の前では服を脱がなかったことを思い出した。
幼なじみ同士ならば裸の付き合いというものもあるだろう。しかし大人しいハンス・カストルプが自分からヨアヒムをサウナに誘うと言うようなことはなかったし、二人で旅をしようなどと言い出したこともなかった。いとこの方もハンスに自分から声を掛けるということはなかった。それもそのはずだ。ヨアヒムは女性だったのである。
軍隊に入ってからもそれは変わらず、ヨアヒムは隊内で一番の堅物として評判だった。女も買いにいかないと、いとこが居ない隙に軍人仲間がカストルプの前で冷やかしたこともあった。
ただ本人の前で決して言われることはなかった。その腕力の強さは並の男を凌いでいたのだ。
ヨアヒムは首を擡げていた。ハンス・カストルプの方を見詰めている。絶望の色がその目にはっきりと現れた。光がすっかり消えたように見えた。
「こう言う場所で隠しきれるもんじゃないということはおいおい分かっていたはずじゃろにねえ」ベーレンスは少し可笑しそうに言った。
「患者に必要以上の精神負担は……」クロコフスキーが心配そうに言った。
「おぬしは男性患者に必要以上の精神的負担を与えてるぞ。そんな肉体しおっ……いてててててっ!」
クロコフスキーの手刀がラダマンテュスの額に直撃した。
「ヨアヒム!」ハンスは叫んだ。なぜか急激に悪寒がしてきた。
「ハンス……」力なくヨアヒムは言った。
「きみ(ドゥ)、女だったのか?」
「うん」蚊の鳴くような声で答える。
「なんで、今までずっと……」
「ハンス」そう言うといとこはいきなり寝椅子から起き上がった。
ベーレンスやクロコフスキーが止める間もない。ハンスへとにじり寄ってきた。とても思い詰めた顔だった。
「今は、眠ってくれ」
渾身の力を込めて拳が前に繰り出される。
ハンス・カストルプは昏倒した。