十一、新入り(4)
その日から一週間もせずに少女は全快した。そしてベルクホーフの仲間になることに決まった。本人の決定だ。
「山の小屋には帰らないのか?」少し邪険にセテムブリーニが問いただした。
「もう、戻りたくなくて」ペーペルコルンは顔を背けた。
「無理に、戻れなんて誰も言いませんよ、ねー」珍しくナフタが温情的なセリフを口にする。しかし、これはセテムやヨアヒムを牽制するためにしか過ぎないことをハンスはもう分かるようになっていた。
少女が完治すると、ハンス・カストルプはクローディア・シャウシャットとの関わりを聞いてみた。その行き先も。
「ただの……ルームメイトみたいなものよ。どこに行ったのかは知らないの、そこまで親しい訳でもないから」
ベルクホーフに於いて少女は特異な存在となっていた。ナフタやセテムが議論に熱中している時、少女は全く意に介さない。絡んでこられても、涼しい顔でそれを交わすことが出来た。
「興味ないから。難しい議論は、私分かんない」こうまで言われると流石の二人も引き下がらざるを得ない。ハンスはほとほと感心した。
しかし、それを真似て二人を駆逐することは出来ず、相変わらず一日中議論に巻き込まれてしまうのだったが。
少女はたまに癇癪玉を破裂させた。朝食の時、皆の同席している前で、それは披露されたのだ。
「何、この食事は!」少女は皿を引っ繰り返し、大声で怒鳴った。中のスープが白いテーブルクロスに染み込んで色を変えていった。
その場にいた患者全員が驚いて振り返った。「うおおいっ、大暴露だ!」シュテールははしゃいだ。
「それを言うなら大爆発でしょう」とエンゲルハルトは訂正する。
「もう少しまともなものを用意出来ない訳っ、どんなコックを雇ってるのよ!」
「ペ、ペトラちゃん」とハンス・カストルプは驚いて押し止めた。
少女はキッとなってハンスを睨んだ。忽ちにこの単純な青年は縮み上がった。
「その名前で呼ばないでっ!」頬を膨らまし、腕組みをしてそっぽを向いてしまった。
結局ペーペルコルンは自費で新しい料理人を雇い、一人だけ三食を別にとることになった。
少女は一人でいるのが好きなようだった。しかし、常にハンス・カストルプの近くに控えていることが多かった。
「ちょっと、何見てるんだ」ヨアヒムはそれに気付いたらしく、声を掛けた。
「別に、何も見てないけど」頬杖を突きながら、相手を睨む。
「ぼくは反対だったんだ。お前みたいなやつが、ここで暮らす事は! 皆が言うもんだから仕方なく……そもそも、シャウシャットにしてからが、そうだよ! 忌々しい、何でどいつもこいつもハンス、ハンスなんだ。ハンスは、ぼくだけのものだったのに!」
「ちょっと、別に私は……」
「いいや、君はいつもハンスを目で追ってる。ぼくが気付いてないと思ったか。ここに来てからずっとだ!」
ペーペルコルンは絶句していた。ハンスは話している内容についてはよく分からないものの、それを見て酷く不安を覚えた。
確かに少女はハンス・カストルプなしではいられなくなっていた。もうベルクホーフに居を定めることに決め、荷物などは全て以前の住まいから運んできていた。もちろん、その前にしっかり床の掃除をした。例の甲冑や武器を入れた櫃も、自室に据え置いた。
あれだけ結核を恐れていた自分が、どうしたことだろうと思い、幾らか合理的な答えを導き出そうとしたが、そうするだけの語彙も根気もこの少女にはなかった。
――ただ一つ確かなのは自分はハンスに裸を見られたということと、助けて貰ったということだ。あの時、心から礼を述べていた。今までの自分は人に対してそんなことはしてこなかったのに。感謝が、自然と口を突いて出て来るとは。
あの時、ハンスが助平な視線で自分を眺め回してきたなら、自分は今もあの小屋で暮らしていただろう。そのような輩には侮蔑を以て報いてやればいいし、うざくなるようだったなら、仕留めればいい。しかし、ハンスは自分を意識しなかったどころか、最初こそ怯えていたものの、次第に自分の裸を見ても何にも気にならなくなったようだった。それどころか、今も子供扱いをしてくる。全く気にしてくる様子のない相手を、少女はとても気にした。
少女はそれ以来ハンス・カストルプをずっと目で追っていた。特に美男と思った訳でもなかった。最初に自分が下した評言を翻したくはなかったのだ。それでも今は、一時でもこの青年の心を独り占めに出来た、クローディア・シャウシャットを張り倒してやりたかった。
あの怪しげな二人が絡んでいない時、何かと理由を付けてペーペルコルンはハンスを外へと誘い出した。しかし、特に話をするでもなく、並んで歩く。
「カストルプ」相手が喋らないので自分から切り出すしかない。
「なんだい、ペ、ペーペルコルン?」青年は自分のファーストネームを言おうとしていたのだとすぐに分かった。
実年齢より幼く見えるため、子供扱いされるのがいつも苦痛でならなかった。しかも、ハンス・カストルプにまでされるなんて。ペーペルコルンはこっそり拳を固めた。
「あんな変なインテリ連の発言を真に受けてんじゃないわよね?」
「インテリ連?」
「えーと、セテムブリーニだったかナフタだったか」
「ああ、別に全部正しいと思って聞いている訳じゃないけどさ」とのんきな調子で返してくる。
「口先だけよ、あんなやつら。いざとなったら何もやりはしない。ちょっと脅してやっただけで、怯えて逃げ出すのがオチなの。今の世の中、物を言うのは実力」
「そ、そうなのかなあ」相手はぼんやりとした顔になった。
「ねえ、カストルプ、人が死ぬところを見たことある? 人を殺したことある?」
ハンスの顔が固まった。そのままペーペルコルンを見詰めている。
「仮に、の話よ。そんな殺すか殺されるかと言うような場で、知識が役に立つと思う? 立たないでしょ? あいつらはただ尻尾を巻いて逃げるだけなのよ」
ハンスは安心したようだった。この弱さにペーペルコルンは内心腹を立てたが、怒れば怒るほど、相手を意識していることが分かった。ハンスは何も考えていないのだ。そんなやつに、何でこの私が。
「でも、二人も、そこまでひ弱には見えないけどな」
――言葉に騙されているのだ。言葉なんて、何が信じられるって言うの? 何て愚かな、無邪気な青年なんだろう。ペーペルコルンは突然、優しい気持ちになっていた。今まで感じた事のない暖かな感情だった。ハンスと話していると、こういう怒りから優しさへの心理の落差をよく経験した。それが少女を更に病み付きにさせていった。
ある日のこと。
横臥療法を止めたハンスがテラスから外を見下ろすと、馬車から降り立った一人の女性がベルクホーフに向かって大股で歩いてきていた。
頭の両側で団子にされた褐色の髪。間違いない。ジャクリーン・ティーナッペルだ。その顔は余り機嫌がよくなさそうである。
とんでもない人がやってきた。
ハンスは戦々兢々とした。




