抜け落ちたページⅠ
一九一六年二月――
父エリア・ナフタが兵士たちに引かれていった後も、レオナはずっと物陰に隠れていた。
ちょうど夕暮れ時のことで、本棚の間に薄暗い影が出来て、傍目からは視認し辛くなっていたのが助かった。
父はレオナにとって唯一尊敬できる聖人だった。父は学士であり、レオナに全ての知識を与えてくれた人間だった。
しかし、政府はそんな父を否定する。
存在が許せないのだそうだ。レオナは幼いながらにその訳を知っていた。
兵士たちの話を聞いたのだ。父が『プロトコール』再版に関わっていた、と言うのが表向きの理由である。
『プロトコール』など、『契約の一族』であるナフタ家が聞いたこともない言葉だった。曰く、そこには世界を転覆させる計画が記されている云々と。『契約の一族』がそのような文書の作成に関与したと言う証拠もないのに、いつの間にか囁かれていたのだ。
――ああ、つまりこいつらはわたしたちを殺しに掛かってきているんだ。存在そのものを否定されているんだ。
レオナはすぐ理解した。しかし、まだ六歳の頭ではそれ以上のことは分からなかった。
父に掛けられた容疑は他にもあった。近所の子供が二人殺されたのだ。当局は当然エリア・ナフタの仕業として、この事件を処理した。
今までならば、証拠もなしにこのような強引なことが許されることはなかった。
しかし、あの二年前に起こり、今も続いている大戦争が全てを変えたのだ。
戦争は欧羅巴の全土を荒廃させ、各地の町を瞬く間に灰燼に帰さしめた。自分から口火を切った『我らの帝国』は劣勢になるやいなや、各国から侵略されるままになった。
しかし、それで戦争は終わらなかった。今度は一度勝利したはずの同盟国側が内部で争い始めたのだ。欧羅巴は自滅を望むかのようにお互いに殺戮を始めた。
流言飛語がそれと共にばらまかれた。
――『契約の一族』が後ろ側で暗躍し、我が国を滅ぼそうとしている。
まだ侵略されていない町に住んでいたナフタ家は直接の被害を受けなかったが、劣勢となった帝国政府の対応は以前より一層厳しくなり、少しでも犯罪を犯す者には厳罰の処分を与えたし、『契約の一族』は理由を見付けて根絶やしにしようと画策した。
ナフタ家もその標的になったという訳だ。
このまま家にいても仕方がない。
父は広場に引かれていった。そこで処刑されるのだ。
レオナは小さな黒い布を被った。黒い髪を見られては自分も捕まるかも知れない。それは避けたかった。
でも、父の最後を見届けなければ。
出来るなら、自分が助けなければ。しかし、自分は限りなく弱い。力があったら。レオナは唇を噛んだ。
夕陽を浴びて、長い影が出来た。道の遙か彼方まで伸びるほど大きいのに、何もできない己をレオナは嘲笑った。
小さな娘はこの時、初めて世界を呪っていた。それは冷ややかな感情でありながら、同時にとても激しいものだった。それは自分の無力感に対する呪いに容易く転化した。
血の臭いがした。強く噛み過ぎたらしい。しかしその痛みさえ自分には生ぬるい気がした。
広場の前に人々は集まっていた。皆エリア・ナフタを指さして笑っている。今から処刑される人を見て。その隣には、レオナも名前を知らない同胞たちが並んでいた。
「やはり『契約の一族』か。悪いことは全部あいつらが呼び込んできたんだ」
「我が国が衰退したのは、全部、やつらのせいよ。やつらのような移民に寛容の精神を示したばっかりに欧州を根っ子から蚕食したのよ! 奴らの『プロトコール』を読んだ?」
――こいつら、自分たちで嬉々として出版したものを相手に擦り付けやがる。
「まったく疫病神のような連中さね」
「いい気味だよ!」
レオナは黒衣の中で拳を固めた、こいつら全員殴り殺してやりたい。頭の中で何度も何度も何度も罵倒を叫んでいた。
ところがどうだろう。それを口に出すとなると。怖かった。
怖くて怖くて仕方なかった。唇が硬直して動かなかった。血が両側から顎を滴ると言うのに。涙で眼は曇りつつあるのに。
一列縦隊になった兵士たちがエリア・ナフタの前に並んだ。
速やかにそれは行われた。煙が濛々と広場を充たした。機関銃が発射された。
打たれた人々は一斉に崩折れた。まるで焼けぼっくいのように無機質に。こうなると誰一人見分けが付かない。見知った父の顔を判別できない。聖人のようであった人でさえも。顔を奪われてしまったからだ。
その時、少女は笑っていた。
なるほど、そうか。わかった。わたしはこいつらの同類だ。怖くて、脅えて何もできないじゃないか。
こいつらと同じ事を言うしかないじゃないか。絶えず自分を自分で虐げ続けるしかないじゃないか。
少女は冷たく笑っていた。
周りの人々――少女にとっては人ではなくなった者たちが――が気付いたらしい。気味が悪そうにこちらを見ていた。
少女は笑い続けた。
周りの群衆が怯えて離れていくのにも構わずに。
既にレオナも人ではなかった。
気付くと、脱兎のように走り出していた。何をするでもなしに。走れるだけ走った。
「大丈夫、もう大丈夫だ」
――誰?
声が聞こえた。次第に自分が抱き締められているのが分かった。
「大丈夫だ、もう逃げなくてもいいんだよ」 とても優しい声だった。
「もう泣かなくてもいいんだ」
けれど、少女は泣くことを止めていた。それからもずっと。




