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二、ヨアヒムの出迎え

「タヴォス・ドルフ!」

 窓の外から、叫び声が聞こえる。

 その駅員の声こそが到着の先触れである。

 目的地だ。

 汽車は何度も揺れながら、駅のプラットフォームへ滑り込んだ。

 車両の扉が音を立てて開かれる。途端に今まで静かだった周りが騒がしくなり、車室の廊下側の磨りガラスからガヤガヤと話しながら通り過ぎていく一団の人影が見えた。

 今までどこに隠れていたのやら。

 目指すサナトリウムまでここから馬車で二キロもない。 

「ハーンスー!」

 どこからか高い声がする。

「ヨーアーヒーム」

 バタバタと足音が聞こえた。一人の青年が微笑んで、車室の中にまで踏み込んでくる。

 青年と言うには余りにも優しげな物腰で、短く切った蒼い髪と整えられた睫毛、頬は僅かに赤く染まっている。褐色のアルスターコートを着込んで、帽子も被っていない。声は男にしては高かった。

 これまでになく健康に見える。寧ろ、前逢った時以上に。

 ヨアヒムはいきなりハンスに抱きついた。「ハンスー、逢いたかったよ」

 顔を近付けて頬をすりすりさせてくる。

 いきなり愛情を示されてハンスは当惑していた。

「なんだよ、男同士で」僅かに赤面しながらハンスは言った。

 そう言われた途端、ヨアヒムはびくんと背筋を正して、直立した。その頬は真っ赤に染まっていた。

「い、いやあ、久々に逢えたのが、嬉しくてさ」と頭を掻きながら言った。

「で、どうなんだ病状は。心配したんだぞ」「ありがとう。もう大丈夫だよ」

「きみ(ドゥ)の大丈夫は信用ならないからなあ。大変な時でもいつも強がるから」

 こうは見えても、引っ込み思案のハンス・カストルプが心置きなく話せる数少ない一人なのだった。しかし、それでもなお一定の距離は置いているつもりだった。

「そ、そうかな」

 ヨアヒムは顔を俯けたが、すぐに気を取り直したのか前を向いて、

「そ、それじゃー、ベルクホーフへ行こっかー」と慌てた調子で言った。

 暴力的な勢いでハンスのオーバーの襟が掴まれる。

 そのまま車室から引き摺り出され、プラットフォームへ降ろされた。この強引さは健在なようだった。

 汽車から流れる濛々とした白煙が辺り一帯を包んでいた。

「うっ、息が……」ハンスは呻いた。

「ご、ごめん」ハッとしたヨアヒムは済まなさそうに謝った。反省しているようである。

「別に、ゴホッゴホッ、構わないよ」咳込みながらハンスは答えた。

 その時、咳が長引いて胸の内側が微かに重苦しくなったように感じた。

 ハンスは手荷物を全ていとこに渡した。ヨアヒムはテキパキとそれを馬車の中に積んでいく。

「あれっ、これもいいの? 大事な本だろ」

 『大洋汽船』を指さして聞いた。ハンスは肩を竦めて、首を振った。

「いいさ、暫く読まないだろう」

 ヨアヒムに手を引かれるままに、ハンス・カストルプは馬車に搭乗した。天蓋の付いていないやつだ。

 ちょっと寒そうだなと考えていると、踏み段の上でまた身体が蹌踉めいた。

「おいハンスー、きみ(ドゥ)の方が大丈夫かい?」ヨアヒムは快活に笑った。

 革手袋を嵌めた御者が馬に鞭を入れると、周りの風景が動き始めた。

 汽車の中では一つ一つ確かめることが出来なかった並び立つ山岳が、ここでは各々の存在感を誇示して迫ってきた。しかもその頂は夏だというのにまだ白く、麓のすぐ前に至ってやっと緑に戻っていた。

 これが雪渓というものか、とハンス・カストルプは思った。 

 風が冷たく、二人の顔を吹き付けてくる。ハンスは顔を顰めたが、いとこはとても気持ちよさげに首を傾けていた。

 馬車はだく足で高原を駆ける。夏草はところどころ背伸びするように顔を出して太陽の光を反射させている。

 確かに季節は錯誤していない。ハンスは心の中で思った。

「それにしても、何か嬉しそうな顔してるね。何か良いことあったの、ハンス」

 ヨアヒムは興味津々な顔で聞いてくる。

「別に、何も」あっさりと返した。

「そんなー、ねえ、教えてよ、教えてってさ」

 また首根っこを引っ掴まれて、グリグリと前後左右に揺すり動かされた。

「面白い記事があってね、ちょっと読みふけったぐらいだ」

 事実を微妙に変えたが、嘘は吐いていないはずだ。 

 小川の上に掛けられた橋を馬車が通ったとき、ハンスは思いきって聞いた。

「それでどうなんだ、その――なんだっけ、ベルクーホーフは」

「良いとこだよ」ぽつりと答える。ハンスの前でだけは饒舌さを見せるヨアヒムにしては妙に素っ気ない返事だ。

「何だよそれ」

「ハンス」突然、いとこの顔が、きりっと引き締まったのが分かった。こうしてみると女に紛う美青年である。ハンスは心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

「ここでは、時間の流れ方が下界とは違うんだ」

「下界って、んな、大袈裟な。ここはオリュンポス山だって言うのかい」

 しかし、いとこは真剣な顔を少しも変えないで言う。

「ここは魔の山なんだ。一日は下界の三日に相当する」 

「それは、体感時間、的な物じゃなくて?」 この時、車輪を通して、道が段々勾配に入っていくのが感じ取れた。身体が斜めに浮き上がる感覚と言ったらいいのだろうか。

 確かに今自分は山を登っているのだ。ハンスは無意識のうちにそう思っていた。

「ほんとにそうなんだって。下界のカレンダーと照らし合わせたらすぐに分かるよ。でも、詳しいことは何も知らないんだ。でも稀に下界に降りれば、実感するからね。ほんとに大変なので、あまり、降りないけど」

「うーん、変なところなんだな」

「変なところさ」

 ここで突然ヨアヒムは破顔した。

「でも、とっても楽しいところだよ」

「きみ(ドゥ)が言うなら、そうなんだろう」ハンス・カストルプは腕を組んだ。

 そのまま一時間ばかりが過ぎた。

 不安に感じられるほど車体は斜めになっていった。

「おお、そろそろだ」

 里程標を一瞥したヨアヒムが言う。

 山腹に差し掛かったところにあたるのだろうか。牧場地のように平らにならされた台地があって、そこには丸い屋根の塔を備えた、横長の建物が建っていた。正面は南西に向けられている。一つ一つの部屋にバルコニーがあるものだから、まるで穴だらけの海綿のように見えた。夕方のことなのでそれほど多くはなかったが、人影もまばらに見えている。

「何か思ってたよりは、大したことないところだな。そんなに高い場所とも思えないし」ちょっと強がってみせる。 

「いや、これが案外に高いんだよ。ちょっと行けば氷河だってあるんだ。ねえ、ハンス一人でいっちゃいけないよ」

 わざわざ顔の横に指を立てて教え諭すように言う。

「分かってるって、そんなところ一人で行きやしないよ。三週間しか居ないんだしさ。きみ(ドゥ)の言うここでの換算式なら、下界の九週間かな」とハンスは冗談めかして言う。「それにしても、きみ(ドゥ)は昔っから本当に過保護だな。ぼくだって一人でやっていけるよ」

 ヨアヒムの頬に色が昇った。

「だって、ジャクリーンおば……お姉様が本当に頼りなかったから、ぼ、ぼくが、ぼくが……」

 ハンスはそっとヨアヒムの肩に手を置く。

「それは感謝してるよ、ずっとありがとう、ヨアヒム」

 ヨアヒムは完熟トマトのように真っ赤になり、恥ずかしそうに、鼻下を擦った。

「ずっとって、これからがないみたいじゃないかっ!」語尾のところでちょっと怒ったような声になった。

「これからもずっと宜しく」ハンス・カストルプは訂正する。「これでいいだろ! ほんとに堅物なんだからな」

 馬車が止まった。二人は両側の踏み段から揃って降りた。

「改めて言わせて貰うよ」ヨアヒムは息を思いっきり吸い込んで言った。

「ベルクホーフへようこそ!」

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