十、ヴァルプルギスの夜(5)
さて、わたしたちの主人公がこう言う状態にあっては、場を移す以外に手立てはなかろう。
二時間後。
ベルクホーフの向かい側にある山小屋で、クローディア・シャウシャットと、メジュフロー・ペーペルコルンは対面して坐っていた。
ペーペルコルンは生牡蠣をナイフで剥がしながら、丁寧に一枚一枚食べていっている。クローディアはと言えば、マリア・マンティーニから紫煙を吹かしたままにしているのみで、何も食べていない。
「いい加減煙草は止めてよ。ご飯が不味くなる」ペーペルコルンは根っからの嫌煙家である。
「いや、反対にとても美味しくなるのに。この魅力が分からないなんてペトラはお子様だ。あっ、いや、年齢的にお子様だったね」
「ふん、それよりあなたの失態はどうしてくれるのよ。結局吸血鬼の魅了も、たいしたことないのね」ペーペルコルンは鼻で笑い返した。その小さな唇は牡蠣の汁が付いて光っていた。
「敗因はあるよ、ハンス君があたしの血を吸ったからだ」
「あら、大変。カストルプ青年も吸血鬼になるのね」
「流石に民間伝承見たくな事にはならないけどね。吸血鬼の血を吸うと、一時的に同じ能力を得られるんだ。それで術が破れてしまったから」
「あ、カストルプ青年の記憶を書き換えていたんだっけ。それが魅了の効果とはね」ペーペルコルンは牡蠣の肉を殻より引き離した。
深く魅了するためには、相手の記憶の中に入り込み、自分を運命の人だと思い込ませる必要がある。そのために記憶を改竄することで、より強く相手を引き付けて離れなくさせるのだ。主に異性に対象が限られる能力であり、しかも熟練した吸血鬼のみがこなせる技だったが、クローディアは見事ものにしていた。
クローディアによれば、ハンスを一目見た時、この青年がプリービスラフ・ヒッペなる人物の記憶に取り憑かれていることを察したのだという。
そして、それを少し改変して自分をその少年とそっくり同じだと思い込ませることによって、ハンスを虜にしたのだという。
「それが、鉛筆のセリフまでは何とか分かったんだけど、他の記憶は靄が掛かったようで、プリービスラフ・ヒッペなる少年がどういう容姿をしていたのか、まるで分からない。この能力は元々記憶を完全に操作できるものじゃないからね。一部分だけを改変できれば御の字と言ったところ。あたしので上書きはできたけど、それも今回の件でおじゃん。まさか、あのハンス君が、そんな大胆な、と思ったよ」
「だから、舐めて掛かっちゃダメだって言ったじゃない。食わせ者よね、そのカストルプ青年は。まあ私だったら、すぐに脅して情報は吐かせるけど」
「まあ、ペトラは恋を知らないからね」クローディアが笑った。
突然牡蠣の殻を相手に向かって投げつけ、ペーペルコルンは立ち上がった。殺人的な勢いだったにも関わらず、クローディアは殻を指の間で受け止めていた。
「知らないんじゃないの、必要ないの! 私の辞書に恋だの愛だのはないのよっ!」心の底から腹が立った。自分が一切興味ないことにこの吸血鬼のハーフは触れてくるのだ。それが堪らなくイヤだった。
そもそも誰かを愛して囚われてしまえば、相手を利用することも破壊することも出来なくなってしまうではないか。対象には一切の感情を抱かないことが、ペーペルコルンの哲学だった。
「じゃあ、対象以外は?」クローディアが眼を細めた。
「また、心を読んだな!」ペーペルコルンは拳でテーブルを殴りつけた。口調も一変させている。
「何でも読める訳じゃないよ。相手が激したり感情が乱れている時だけだ。どうも、怒らせちゃったようだね、ペトラ」クローディアは吸血鬼の能力を使って、今まで幾度もペーペルコルンをからかってきていた。
少女はクローディアを睨み付けると、また坐った。
「あーあ、なんでこんな奴を部下にしたのかしら。早く目の前から消えて貰いたいわ」
「それは良かった。今日から当分消えようかと思っていたとこだから」
「えっ、ちょっと、それどういう意味よ?」驚いて問い返す。
「ハンス君に警戒されちゃったしね。それに彼から聞き出せるだけの情報は全部聞き出せたし、冷却期間を置こうと思うよ。そうすればまた何か話してくれるようになるかもしれないしね」
「それは、任務放棄よ」
「あれあれ、消えて貰いたいんじゃなかったの?」
「そっ、それとこれとは話が……違うじゃない」ペーペルコルンは下を向いた。
「なに、もしかしてペトラちゃん? 一人が怖いの?」
「そっ、そんなことない! 今までだってクローディアが向こうに行ってる間一人でずっといたじゃない」こう言いながらも、自分はなんで焦っているのかよく分からなくなっていった。
「冗談冗談、ちょっと思い付いたことが幾らかあるんだ。それを調べに国境を越えさせて貰うよ」
「なるほど調査、と言う名目ね。まあいいわ、許可しましょう」ペーペルコルンは態度を取り繕って言った。
「それじゃあ」とクローディアは葉巻の火を消した。
「ええっ! もう出るの?」
「そう。早いに越したことはないでしょ」
「ふーん、じゃあ、行ってらっしゃい」ペーペルコルンは牡蠣にレモンを掛け、口へと運んだ。
「さよなら」とクローディア。後ろ姿を見せ、扉まで歩いて行く。
――それを言うなら行ってくるよ、でしょう?
妙に噛み合わない返事ね、と思いながら、少女は口の中の牡蠣をとても酸っぱいと感じた。




