十、ヴァルプルギスの夜(4)
気が付くと廊下に一人取り残されていた。まだ目眩がする。
「いしく……とう」ハンスは耳元で繰り返された音を感情を込めずに反覆した。
「そうだ、サロンに行かないと」
ハンスは歩き出した。すると、舞踏室の蓄音機から流れる曲が突然切り替わった。
「泉に添いて 茂る菩提樹
したいゆきては うまし夢見つ
みきには彫りぬ ゆかし言葉
うれし悲しに といしそのかげ」
まさしく、シューベルトの『菩提樹』だった。ダンス向きの曲ではないのに、なぜレコードに入っているのだろう。鎮静させるためだろうか。
この酩酊状態の中にあって、ハンスはヒッペと逢った時のことを思い出していた。記憶の中のプリービスラフ・ヒッペは栗毛色の髪ではなかった。赤毛だったのだ。
――今まで何でぼくはヒッペ君の髪を栗毛色だと思っていたのだろう。よく分からない。
「約束は、約束だ。サロンへと行かないと」 蹌踉めきながらも廊下を幾通りか曲がって、サロンへと足を踏み入れた。ちょうど柱時計が鳴って十二時の時を告げたところだ。
案の定そこには誰も居ない。クローディアを除いては。
「ハンス君!」待ち兼ねていた様子である。
「シャウシャットさん、お待たせしました!」
その瞬間、ハンスは前に大きくずっこけた。熱が出てきたのだろうか。危うく踏み留まったが、頬が物凄く火照る気がした。
「だ、大丈夫?」クローディアが尋ねる。
「大丈夫です。気にしないで」
「そうか。でもしんどかったら寝といていいんだよ」
「ね、寝れる訳ないじゃないですか! シャウシャットさん。ところで、取材はどうなったんですか?」
「うん? まあ上々だよ」相手はその事にはあまり関心がない様子だ。
ハンスは思いきってクローディアの手を取った。
「ぼくはあなたに呼ばれたから来たんですよ!」
「ハンス君、そんなに君は大胆な子だった? 初めて会った時は、とてもそうは見えなかったんだけど」
「えっ、そ、そうでしょうか」虚を突かれて、ハンスはいつものオドオドとした調子に戻った。
「あ、そういえばあの院長の描いたあたしの絵見た? 自分の絵を眼の前にするとおかしくって笑っちゃう。モデルになってくれと言われて何時間か坐らされたよ」露骨に話頭を転じられているのに、半ば混乱状態にあったハンスは気付くことが出来なかった。
「も、もちろん、描いてるところも見ましたよっ」早口で応じる。そうしないと舌が縺れそうになるのだ。
「あの小さい手で必死に絵筆を握っちゃってね……ところで、ハンス君」
「何ですか?」
「この山は下界とは、かなり時間の流れる速度が違うらしいね」
「そうです。ここでの一日は下界の三日、だったかな? とにかく時間の流れが全然違うんですよ。馬車がここから出発して隣のアルバネオに付くまで、数分もかからなかったんです」ハンスは思い返していた。
「なんでそう言う事になっているか、その原因は知らないのかな?」途端にクローディアの眼が細められ、鋭くなった。獲物を見る鷹の目付きに似ていた。
「そ、それは、その訳までは流石に……」
「そうか」クローディアは溜息を吐いた。 相手を残念がらせてしまったことに気付き、ハンスは慌てて記憶を探った。
「あっ、そうだ。写真があったんです。セテム……ルドウィナ・セテムブリーニさんが古い写真を持っていたんです」
「ほう、それは面白い。どんなものなの?」
「おじさんと二人の女の子が写っていて……でも、年月日が変なんです。一九二〇年、ええと、確か今日だった。『ヴァルプルギスの夜』です! 未来の日付が、なんで……」
「興味深いね。タイムリープというヤツかも知れない」
「タイムリープ?」
「ハンス君は空想科学小説とか読まない? イングランディアではそう言うジャンルの小説が書かれているんだ。多分、ハンス君の国でもそうだと思うよ。時間跳躍。現代の人間が過去へと向かう。あるいは現代から未来へと向かう」
「そ、そんなことが出来るんですか」
クローディアはからからと笑った。
「ハッハ。ハンス君、飽くまで作り事は作り事だからね? でも、意外と超自然的な存在は身近に居たりするかも」とウインクする。
ハンスは呆然と相手を見詰めていた。目眩は今は収まっているようだ。相手の仕草の一つ一つに魅せられていく。
「他には何か気付いた点はなかったの?」
「うーんと、確か女の子たちはセテムとナフタ……レオナ・ナフタさんに似ているような感じがしました」
「ほー、そうなんだ。それじゃあ、その二人が時間跳躍してるのかもね。今日は付き合わせてごめん。失礼させて貰うね」少し焦ったように早口になって、クローディアは出て行こうとした。あまり長居はしたくない様子である。
「待って下さい!」ハンスはこの突然の退場に驚いて相手の手首を掴んだ。
「ぼ、ぼくを呼んだのは、あなたじゃないのですか! なのに、一方的に要件を押し付けるだけなんて、あんまりですよ!」青年は出来る限り叫んでいた。
「ふんー、じゃあ」
と、微笑みを浮かべたままクローディアはハンスに近付いた。驚いた青年は後ずさりし、隣りにあった長椅子に身体を預けた。
その上に相手が伸し掛かってくる。顔と顔が接して、栗毛色の髪がハンスの顔へとそっくり掛かった。衣越しに乳房の感触が青年の胸の上を這った。
相手の吐く息が吹き付けられる。
「な、何をするんですかっ!」出来る限りハンスは叫んだ。
――こんなのは違う、ぼくの望んでいたことじゃない。
「でも、きっと鉛筆は返してよね」クローディアが小さく呟いた。
ハンスは混乱していた。目眩が始まって、椅子に座っているはずなのに、その椅子を軸にしてぐるぐると部屋が回り出すような錯覚を感じた。
「……違う!」更にもう一度。
「違う、あなたはプリービスラフ・ヒッペじゃない!」
ハンスはクローディアを押しのけて、部屋の外へと走り出した。
訳も分からず廊下を疾駆していた。等間隔で配置された灯の光が尻尾のように眼の左右で棚引いた。どうも発熱しているらしい。走りながらも背中から足に到るまで震えている。 幻聴も聞こえるらしい。どこかで誰かが自分の名前を呼んでいる。
「ハンス・カストルプ!」
「ハンス・カストルプ!」
「誰だ!」ハンスは叫んだ。
黒い髪の少女と赤い髪の少女が自分と並んで走っていることに、ハンス・カストルプは気付いた。
「遊びましょ、ハンス・カストルプ! ハンス・カストルプ!」
「君たちは、何なんだ!」
――そんなの、分かりきってるじゃないか。セテムとナフタだ。でも、彼らより遙かに幼い。しかも、その顔にはあどけない笑みが張り付いている。この二人は写真の少女二人だ! なぜだ、どうしてこんなことになったんだ。
「ヒッペ君!」ハンスは訳も分からず叫んでいた。
「今日は謝肉祭の夜だ」誰か、第三者の言葉が聞こえる。
赤毛のセテムブリーニと同じ髪の色をした男が現れて、ハンスのすぐ側を横切っていった。こっちも写真のヤツだ。
「ヴァルプルギスの夜」と小さいセテム。
「ヴァルプルギスの夜」と小さいナフタ。
少女たちはハンスの周りで手を叩いて踊っている。ハンスは頭を抱えた。耳鳴りが凄い勢いで耳の奥に響いている。足が縺れて、もう走れなくなっていた。
ハンスは身体の力が抜けるのを感じた。床へと倒れ込んでいく。絨毯が眼の前に迫ってきた。
そのまま、この単純な青年の意識は闇の中に沈み込んでいった。




