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魔の山へようこそ!  作者: 浦出卓郎


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十、ヴァルプルギスの夜(3)

 謝肉祭の日がとうとう訪れた。ちょっと外に出てみるともう仮面を被った人々で溢れている。揚げパン(クラップフェン)の匂いが鼻腔を擽った。昼のうちからみんな大騒ぎだ。ハンスは食べ歩きたかったけれど、療養中の身であるので遠出は叶わなかった。

 ラダマンテュス描くところのクローディアの肖像画は舞踏室の暖炉の上にでかでかと飾られていた。

 裸ではあるが幸いバストまでしか描かれていなかったので、ハンスは胸を撫で下ろした。これが全裸だったら、自分などはたちまち倒れてしまったことだろう。他のお客人も驚くに違いない。

 そう、ベルクホーフには近隣から来客が訪れていたのだ。患者たちの親戚が主だったが、結核にそれほど偏見を持たない人々も沢山いることを知って、ハンスは温かい気持ちになった。下界では謝肉祭の日ではないはずなのだが、皆合わせてくれているらしい。

「ハンスー、外出たいよー」ヨアヒムが子供っぽく言う。

「ぼくも出たいのは山々なんだけど、クロコフスキーさんに止められたんだ」ハンスは残念そうに言った。山を下りる訳ではなく、近隣の村で買い物をするのだといってもダメの一点張りであった。

「あの人は厳しいからね」ヨアヒムは笑った。

「もうちょっと愛嬌があればなあ」

 セテムブリーニが早速やってきて、ハンスを誘う。

「ハンス、わたしと踊らないか?」と、こう単刀直入に切り出してくる訳だ。

「ええっ!」ハンスはびっくりした。

「さあ」セテムはハンスの手を取った。

「おい、ちょっと待った!」セテムが取った手とは反対側のハンスの手をヨアヒムは取った。「前からずっと思っていたけど、お前はハンスの一体何だって言うんだ?」えらい剣幕である。

「わたしはハンスの先生だ。そう言うツィームセン君こそ何なんだね?」当然知っているにも拘わらず、セテムは挑発的に応じる。これはまずいなとハンスは思った。

 数ヶ月経っても未だにヨアヒムとセテム、ナフタの溝は埋まらない。一人が一時間ハンスを引き留めておけば、二人目は二時間、三人目は三時間と言ったような具合で、お互いが長くハンスを引き留めておこうとする始末だった。

「ぼくはハンスのいとこだよっ、ハンスのことを生まれた時から知っている者だ。ぼくほどハンスに詳しい人間はいないぞ」

「ふん、だから君は報われないんだね」

「な、なんだと!」ヨアヒムは思わず、セテムの胸倉を掴んだ。片手でハンスの手を強く握りながらである。

「なんでも知っている気でいるから、人はいつも身近なものから失っていくのだ。そこから油断が生まれ、知り直そうとすることを怠るのだからな。尤も、君にそこまでの知的営為は出来ないだろうけど」

 ヨアヒムは馬鹿力でそのまま相手を持ち上げた。十センチばかりセテムの足が宙に浮く。流石に周囲がざわつき始めた。

「これこれ、何しとるんじゃ! ここは武闘室じゃなく舞踏室じゃよ」駄洒落は余計ではあるが、ラダマンテュスが心配そうに声を掛けてくる。部屋の反対側で客と話していたので、今まで気付かなかったようだ。

 その隣で立っていたクロコフスキーが無言で二人の間に割って入り、両手で引き離した。ヨアヒムをこうも容易く止めさせるとは相当の力があるなとハンス・カストルプは思った。

 途端に二人とも床に崩折れて、激しく咳き込み始めた。どちらも顔面蒼白である。ハンスは心が痛んだ。 

「ほ~ら、言わんこっちゃない。君らは休んでいきなさい」ベーレンスはゆっくり歩きながら近付いて来た。

「災難じゃったな、ハンス君。でもまあ、舞踏会を楽しんでいきたまえ。二人はクロコフスキーが連れて行くでの」

 苦しむ二人を両脇に抱え、クロコフスキーは下がっていく。

 本当にこの人は何者なんだ。ハンスは戦々兢々とその後ろ姿を見送った。

「ハンス君ー」遠くから声が聞こえる。その瞬間、ハンスの苦悩は拭い去られた。

 クローディアが人混みの向こうから手を振っている。その隣にはシュテールとエンゲルハルトがいた。二人はすっかりクローディアに馴染んでおり、親しげに振る舞っていた。

「ハンスきゅんだー、わあい! じゅうじょうじゅうじょう」

「それは重畳ちょうじょう」エンゲルハルトはすぐに訂正する。

 ハンスは駈け足で人混みを掻き分けて進んだ。

「今晩は!」気分はとても浮き立っていた。

「今晩は。この二人とても楽しくてね、話してると話題が尽きないよ」

 クローディアはスカートの裾を掴み、ちょっと淑女めかして一揖する。

「こんな夜だしね」

 ハンスは思いきって相手の手を取り、口付けをした。紳士として当然の礼ではあるが、ハンスが今までの生涯で始めてした行動であった。先程までの不安が消えたため、思いきってしてしまったのだ。

「あっ、血が」

 見るとクローディアの人差し指の横が僅かににささくれ立って、そこから血が流れていることに気付いた。フラフラとハンスはそれを口へと運び、血を舐めていた。

「す、済みません」すぐにハッとなったハンスは止め、急いで口から離した。

「いま、凄く失礼な事をしてしまいましたっ!」

 それと共にまるで酒を飲んだかのような酩酊感が襲ってきた。周りの景色がグルグルと回って見える。発熱したのかと思ったがどうもそうではないらしい。 

 クローディアはもっと驚いているみたいだった。ハンスを暫く見ていたが、やがて気を取り直したのか、 

「べ、別にいいってば。そ、それじゃ、また後でね」と空かさず目配せをした。後でサロンに来いと言うことだろう。動揺していたハンスはそれに応えることは出来なかった。

「うあああああ、ハンスきゅん強胆!」 

「それを言うなら大胆よ」エンゲルハルトは余り面白くないらしい。それよりも男性同士で歩いている客の方へと眼が吸い寄せられて上の空になっている。

 ハンスは舞踏室を彷徨った。他の客の話し声が雑音のように耳の奥で鳴っている。景色はまだ回転を続けていた。

 その内に蓄音機から軽快な音楽が流れた。舞踏の曲だ。皆踊り始めたのだ。元気な患者たちも踊れる人は皆踊っていた。それでも彼らは『水平状態』に付いては絶えず意識してるのだろうなあとハンスはぼやけた頭で思考した。

 頭の中の回転に実際の皆の回転。その二つが重なって、ハンスは何が何だか分からなくなった。

「ハンス、踊ろう!」突然手が掴まれる。セテムブリーニの声だ。顔色はまだ蒼白いが元気を取り戻したらしい。

 途端に相手の腕が肩から腰に巻き付けられた。顔が迫ってくる。

「ひっ、ひっぺくん!」ハンスは叫び声を上げた。

「な、何を言ってるんだ! そ、その名は」セテムは動揺していた。

ぐるぐる。ぐるぐる。世界が回る。

 ハンスは際限なく回っていた。ぐるぐる。ぐるぐる。

「こっ、こんなあところであえるなんてええ、おもいつっきもしなかったらああ!」まるで酔っ払いのようにろれつの回らない声でハンスは言った。

「ハンス!」セテムブリーニは強制的にハンスと踊りながら、何とか正気を取り戻させようと必死だった。

「おやおや、これはセテムブリーニさん、カストルプ君に相変わらずご執心なようで」 黒い服の女性が舞踏室に入ってきた。ナフタだ。

「ナフタ!」セテムブリーニが鋭く言った。「実は今日お集まりの皆々様方にお教え差上げねばならぬ事があるのですよお!」とナフタは大きく両手を広げて叫んだ。

「今日はカーニヴァルですっ! 特大の情報をお伝えしましょう。ここにお出のシニョリーナ・セテムブリーニは何と、あのテロ組織・石工党の会員でいらっしゃるのですよ!」「石工党!」

「恐ろしい!」

「な、なんでそんな人が、こんな場所にいるのよっ!」

 途端に場の雰囲気が一変した。囁き声は瞬く間に舞踏室全体を充たす。泣く子も黙る破壊集団の名を恐れない者はこの場にいなかった。

 ――ただ一人、ハンス・カストルプを除いては。

 ハンスの世界はまだぐらぐらと回り続けていた。踏む足毎に身体が床に沈み込んでいくように思われた。

「ちっ、違う、石工党はそんな悪い組織じゃない!」おろおろしながらセテムはハンスから腕を離し、皆に向かって抗弁した。

「やっぱりそうだったんだ! 皆殺されるぞ!」

「怖い! 逃げましょう」

「あそこが出口だ!」

阿鼻叫喚とはこのことだろうか。人々は踊りをすっかり止めて、一斉に出口を目指して詰め寄せていった。途中で倒れる人がいても、構わず踏ん付けて走って行く。

 ハンスは人波に呑まれて、外へ外へと押し流されていった。

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