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魔の山へようこそ!  作者: 浦出卓郎


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十、ヴァルプルギスの夜(2)

 その後はもうただひたすら日を送るだけだった。来たるべきは四月三十日の夜である。それ以外はどうでもよかった。

 ヨアヒムと二人並んで毎日横臥していたが、ハンスは上の空である。ヨアヒムは心配して何度も声を掛けてくれるが、ハンスは軽く返事するだけだった。

 そんな中、たった一つだけ気になったことがあった。

 それはセテムブリーニの自室、と言うよりも実質書斎に行った時のことである。セテムは饒舌にあれこれとジェスチャーをしながら話してくれるのだが、ハンスは気もそぞろに本棚にびっしりと詰め込まれた本をぼんやり眺めていた。

 三十日、三十日。心の中でそれを繰り返してばかりいた。そんな時、ふとハンスの濁った意識は、本の間に挟み込まれていた一葉の写真を捉えたのだ。本の背には黒地に金の文字で『魔のデア・ツァウバーバーク』とタイトルが記されていた。引き出して手に取ってみる。

 とても古びた写真である。少女が二人、並んでいる。草が写っているので、場所は外で撮られたものだろうか。当然白黒なので、髪の色は分からないが、一人の面影はセテムブリーニに、もう一人はナフタに似ていた。セテムに似た少女とは髪の色が違って見える。濃い髪の少女は頬を膨らまして不機嫌なようだ。黒い髪の少女は反対に無表情のままである。帽子を被り、口髭を生やした男が二人の後ろに立っていた。

 しかし、写真を裏返してみたハンスがビックリしたのは、その日付である。

「一九二○年四月三十日 ヴァルプルギスの夜に タヴォス ベルクホーフにて」

 ――今は一九○八年(下界では知らないけど)だ。十二年後の写真と言うのは考えられなかった。誰かがふざけて、未来の日付を書いたのだろうか。

「ハンス!」気付いたセテムブリーニがハンスに駆け寄り、本と写真を素早く奪い取った。 

「こ、これは見ちゃいけない!」セテムはえらく取り乱していた。激しく息をして胸を動かしている。心臓が動悸し、ハンスは一瞬クローディアのことを忘れた。ナフタとの議論の時でもここまではと言うぐらいの慌てぶりである。「あってはならないものなんだ。これは、絶対に君が知ってはダメなことなんだ!」セテムは叫んだ。

「な、何かぐらい教えてくれてもいいじゃないか」もうハンスはセテムにはある程度親しげに話し掛けられるようになっていた。

「こ、こればかりは、し、知らない方がいい。ハンス、すまない。わたしが教えられないことがあって良いはずがないんだ。でも、これを知れば君は不幸になる。絶望するかも知れない。それはぜっ、絶対に避けたいんだ!」セテムはハンスを見詰めていた。まばたきを繰り返して、綺麗な睫毛を動かしている。

 狭い部屋に二人だけ。ハンス・カストルプは今女性が目の前にいるのだと言うことを再確認した。いつもセテムの話し方は先生のようで、従順な生徒であるハンスはそれに慣れっこになっていたけれど、今は先生とは違った顔をセテムが覗かせている。そのどろっとした感情を見詰めた気になって、ハンスは身震いした。

「今は、部屋を出てくれ。いいか、このことは忘れるんだ。記憶から消してしまうんだ。分かったか?」

「う、うん。分かったよ」ハンスは一応頷いた。

 部屋を出されたハンスはセテムの顔が眼に焼き付いて忘れられなくなっていることに気付いた。その日一日、寝るまでそれはずっと焼き付いたままだった。


 

「で、わたしに聞く訳ですか」ナフタが顎先を人差し指と親指で押さえている。ローブは肘まで摺り下がっていた。近くの森を二人で散歩していた時、思いきって写真について質問したのだ。

「うん、そうなんだ、セテムなら答えてくれなくても、君なら答えてくれるかと思って、ナフタ」

「ん……ところでカストルプ君?」

「な、なんだい?」

「いつの間にか、タメ口になってますよー?」

「す、すみません、つい、慣れきっちゃって。これだけ話してると、ついつい」ハンスは平謝りした。

「いえ」と言ってナフタは片手を上げて制した。「そのままでいいんで」

「ええっ、いいの?」

「そんなに年齢、変わらんでしょう。わたしは口調、変えないですけどね。それに、そうしてくれた方が……嬉しいですし」ぼそっと付け加えた。途端にそっぽを向く。

「え、何て言ったの?」

「な、何にも言ってないですよっ! ところで、答えを聞きたくないんですか?」

「聞きたい。何だったんだあれは」

「そうですねー、あの写真は未来ではあるが過去でもあるもの、そんな感じです」

「わ、分からな過ぎる」ハンスは困惑した。

「分からないのが当たり前ですよ。第一、話を聞いたところで信じれる訳もないでしょうし」

 未来ではあるが過去でもあるもの。よく分からない。未来と考えるにはあまりにもあの写真は古すぎる。過去なのかと考えても断定はし辛い。結局幾ら考えてもハンスは答えを導き出せなかった。

「ところでカストルプ君?」ナフタの顔に暗い笑みが浮かんだ。また何かよからぬ事を思い付いたのだろうとハンスは思った。

「な、なんだよ!」こんどはちょっと怒り気味になって言い返した。ちゃんと答えてくれるものと思って期待していたのに、その期待が完全に裏切られたからだ。

「こ~んな森の中で、女性と二人きりになって宜しいんですか?」妙に高飛車な調子で問われてハンスはハッとなった。

 もう大分森の奥深くまで入り込んでいた。上空は葉の繁った枝で覆い尽くされて昼だというのに暗くなっていたし、どこからかよく知らない鳥の鳴き声まで聞こえる。

 これは良からぬ雰囲気だ。ハンスは読んでいた小説にそんなシーンがあったことを思い出した。もちろん、行為までは暈かされていたが。

 瞬く間に、ハンス・カストルプは赤面していた。

「か、帰ろう!」ハンスはナフタの手を掴んで走り出した。

「おやあ、手まで掴んじゃうんですか。大胆ですねえ」後ろから、声が聞こえてくる。しまったとハンスは思ったがもう遅い。

「ご、ごめんなさい! でも、今はっ!」青年はそのまま一気に今まで来た道を疾駆した。

 枝が途切れて周りはぱあっと明るくなった。ベルクホーフへ通じる道にハンスは立っていた。

 相手の手を離し、ハアハアと息を吐く。病んだ身体にあの走り込みは確実に毒だろうなと思った。

「髪が、乱れてますよ」いつの間に移動したのか、前の方から声が聞こえる。

 ナフタの手がハンスの前額に当たった。ゆっくり撫でるような手付きで髪が梳かれる。その顔にはとても優しい、慈しむような笑みが浮かんでいた。

「あ、ありがとう!」ハンスは言った。

「名残惜しくなってしまいましたね、ハンス」

 『名残惜しく』、妙な言葉だ。しかし、もっと妙だったのはそれを口にしたナフタの反応だった。両手で口を押さえて、紫の瞳を大きく見開いてこちらを見ていたからだ。

「よ、呼んでしまった」

 黒いローブが翻って後ろを向いた。

 今度は走り出すのはナフタの番だった。

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