十、ヴァルプルギスの夜(1)
ハンス・カストルプがベルクホーフの住人となって、早八ヶ月が過ぎ去ろうとしていた。
一冬越したと言うのに、ハンス・カストルプの微熱はまるで下がらず、かといって高熱になる事はないままに継続していた。
毎日セテムブリーニ、ナフタ、ヨアヒムが交代でハンスの話し相手になり、終わることのない会話が続けられていた。ハンスも、ナフタとセテムブリーニをかち合わせないように上手く配慮出来るようにはなっていた。それでも二人の議論に巻き込まれることは多々あったが。
『大洋汽船』は本棚の隅で埃まみれになっていた。設計図の書き方すらハンスは忘れてしまっていた。勉強を途中で放り出したことも次第に気にならなくなっていった。
小さな、しかしハンスにとって大きな変化はクローディア・シャウシャットがベルクホーフに住み始めたということだ。
ベーレンスは特に怪しまずにすぐ許可を出した。彼女が出してしまえば、他のものはそれを受け容れざるを得ない。
と言っても、明確に反対なのはヨアヒムとセテムブリーニの二人だけだった。多くの人が新しい住人を快く迎えた。ナフタなどは寧ろ面白がっている様子だった。
「ここだけの話、シャウシャットさんはアワーズ社の記者だと言うことなんですけど……」院長室にて、ハンス・カストルプは怖ず怖ずと言った。
ラダマンテュスは籐椅子に腰掛けていた。その前には大きな画架が立てられており、彼女は今まさに絵筆を取って、鼻歌を歌いながら誰かの肖像画を描こうとしているのだった。手先は案外器用なようで、筆の動きに乱れは一切見えなかった。
「うむ、そのことなら聞いておるよ。取材して記事にしたいんじゃと。えらく長期に渡るようで、あまり実態のよくわからん話じゃが、隠し立てするような事は何もないので滞在を許可したのじゃ。身分証明書も貰ったしの」
もちろん、その証明書は(年齢が)改竄されている訳だが。
「そうなんですか……」ハンスは「ここだけの」話ではなかったことをちょっと残念に思った。
「関係ない話なんですけど、ラダマンテュスさんって、一体何者なんですか。年齢とか、一切謎で……」
「れでぃに年を聞くのかね?」ベーレンスは声を低めて言った。
「いっ、いえいえ、そんなわけじゃなくて。初めて会ったときに聞きそびれていたものですから……」
「ふむ。まあ隠しとる訳ではない。わしはセテムやナフたんよりも年寄りじゃよ。遙かにもっともっとな。ここ、魔の山で生まれ育ったがために下界の人間より年を取るのが遅いんじゃ」顔は画架に隠れて見えなかったが、恐らくラダマンテュスは悪戯っぽく笑っていることだろう。
「そ、そんなことがあるんですか?」
「うむ、それこそ何十年と言った単位の話じゃからな……自分でも何歳だったか忘れることすら多々あるのぅ」
「ここでは時間の流れが下と違うので、そう言う事もあるのかも知れないですね……」
「わしも原因はよく分からんがの。こう言うものじゃ、と諦めておる」
この事に関してはセテムとナフタの方がよく知っているらしい。
沈黙が続いた。ベーレンスは絵画に熱中している。ハンスが怖ず怖ずとカンバスを覗くと、女性の姿がそこには浮かび上がってきた。
「こ、これはどなたなんですか?」ハンスは疑問に思った。
「フロイライン・シャウシャットじゃよ。あの美女めをひん剥いたら、こんな裸婦になるじゃろうなあと思いながら描いておる」
「ええっ!」ハンスは面食らった。
「驚いたじゃろ。これは他言無用じゃぞ。実は今月末の謝肉祭、つまり『ヴァルプルギスの夜』で本人の目の前で公開しようと考えておる。あの性格じゃ、文句は言わんじゃろう。あの女にはどこか創作意欲を掻き立たせるもんがあるな」
お互いに実年齢不詳の誼みでということだろうか、とわたしたちならば言うことができる。
「で、でも……」
「まあ期待しておれ。誰も文句が付けられん出来に仕上げてやるからの」
ハンスはオドオドとした足どりでサロンへと引き下がった。
「でさ、『片肺クラブ』の面々ったらねえ……おっ、ハンス君じゃん。こっちこっち」とベルクホーフの他の患者たちと長椅子に腰掛け、談笑していたクローディアが気さくな感じで声を掛けて来た。
クローディアはその美貌と話し上手で瞬く間にベルクホーフ一の人気者になっていた。セテムブリーニは二の次になり、そのことで苛立つ様子を見せていた。結核患者に対する偏見など毛ほども持ち合わせず、重症で寝たきりの患者には配慮を見せ、軽い患者には笑顔を振りまいていた。
まさに天使。再び会った時にハンスが感じた通りだった。
しかし、ハンス・カストルプはと言えば、その天使となかなか二人きりになれないのだった。セテムとナフタ、ヨアヒムの三人の相手をしなければならなかったし、クローディアの周りにはいつも人が詰め寄せていて、話し掛ける隙を与えない。自分から話し掛けるのさえ得意ではないハンスにとっては、荒行と言えた。
その天使が自分から話し掛けてくれたのだ。「は、はい」
ハンスの足先はとても軽やかにクローディアの許へ向かっていった。場所がそこしかなかったので、すぐ隣りに腰を掛ける。
足と足が触れあった。心臓がばくばくと鼓動を打っているのが分かる。熱っぽくもなってきている。何度まで上昇しているのだろうか。
「ハンス君、さあさあ、お茶でも飲んで」と、机の上に置いてあったサモワールなる面妖な容器で沸かした湯を、ティーポットへと注いだ。
「爺さんから引き継いだものでね。家宝と言えば通りがよいけど、特に謂われはない」
その隣には美味しそうなクラムベリーケーキが切られて置いてある。
「い、頂きます」ハンスは震える手で、フォークを握ってそれを食べ始めた。
「急いで食べちゃいけないよ、噎せるからね。それで咳込むと身体に響くだろう?」クローディアは心配そうに言う。ついぞベルクホーフの住人たちからは聞かれない気遣いに、ハンス・カストルプは感激した。ヨアヒムも親身になって対応してくれるけれど、病人同士と言うこともあるし、異性と一緒に居るという緊張感はまるでなかった。
その時、僅かにクラウディアが前に屈み込んだ。白く細い手が、ハンスの手を強く握っていた。
単純な青年はびくりと身体を震わせた。その後は、暫しぼうっとして我を忘れていたが、何か紙切れを手渡されたことにやがて気付いた。
これは、密会の場所を知らせるためではないだろうか? 暇な時間を消費するために今まで洟も引っ掛けなかった小説を読み耽るようになった青年は、そういう類いの妄想を抱き易い状態になっていた。
そう考えるともう気が気ではなかった。早くこの場所を離れて、日時を確認しないと。
クローディアは他の患者たちと雑談を続ける。ハンスはケーキを食べ終え、紅茶を何度か啜った後はただひたすら黙っているしかなかった。
「ぼ、ぼく、横にならないと。横臥療法の時間なんです」
確かにそれは嘘ではなかった。柱時計がちょうどその時間を差し、ボーンボーンと時を告げたのである。ハンスは早く紙切れの内容を確認したかった。
「そうか、残念だね。じゃあ、行ってきな。ちゃんと立てる? 大丈夫。それならよかった」心よくクローディアはハンスを送り出した。
うきうきした足どりでハンスは廊下を歩き出した。拳は指先が白くなるほど握り締めたままだ。
ここでは人に見られる可能性がある。どこにいくべきか?
そうだ。三十六号室があるじゃないか。今も寝所として使っているその部屋にハンスは入り込んで鍵を閉めた。
紙を開くと、そこには願った通りのことが記されていた。
「謝肉祭の夜。誰もいないサロンで」とある。話を聞くに、謝肉祭では舞踏室が解放されるので、サロンに人は寄りつかなくなるとのことだった。
これは、あいびきに格好の場所ではないか。ハンスは正体がなくなるぐらい頬が火照るのを感じた。まるで酒を飲んだようだ。
ハンスは未成年なのでまだ嗜むことが出来なかったが、クローディアが優雅にワインを飲んだり葉巻を吸ったりする姿を見て、心がときめいていた。
あの人は自分が足を踏み入れられない大人の世界の住人なのだ。謝肉祭の夜、とうとう自分はその世界に足を踏み入れることが出来るのだ。まさかサナトリウムでこんな機会が訪れるとは思ってもみなかった。
ハンスはテラスに滑り出て毛布をひっかぶり横になった。既に立っていながらにして『水平』の感覚を維持することが出来るようになってはいたが、やはり横臥療法である。横になることが一番良いに決まっている。
山の上の四月の風は下界のそれよりも遙かに冷たく、厳しい。既に冬の極寒を堪え忍んだハンスからすればさほどのものには感じられなかったし、火照った身体を鎮静させる効果は充分に果たした。
とは言え、下界ではもう既に四月を通り越しているはずだ。ベルクホーフの時間は遙かにゆっくりと過ぎていくのだから、市販のカレンダーは全く役に立たなくなるのだった。ベルクホーフの暦を作る者もいるようだったが、ハンスはそこまで勤勉にはなれなかった。
毛布に包まれた姿はやはり不格好な芋虫のようだ。しかしハンスはその形態に独力でなれるようになっていた。解除だって自由自在である。毎日自然と繰り返しているうちに得意になったのだ。




