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魔の山へようこそ!  作者: 浦出卓郎


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九、湯治(4)

 八人はすぐ浴槽に飛び込んだ。大天井の元、貸し切りでの入浴はやはり心を落ち着かせる。

 気になるのは湯の中で身体を動かした時、波の起きる速度が、普通より早く感じられることぐらいだろうか。

 よく見れば、石像の獅子の口から次々と送り込まれる湯も凄まじい轟音を立てて雪崩れ込んでいくように見えていた。

 ずっと眺めていると不安になってくるので、そう言う時は『水平状態』を心に念じて、落ち着きを取り戻そうと努めた。

 精神年齢の低いシュテールはハンスの顔に向かって湯を飛ばした。

「うわあ」驚いて身を引いた。

「ハンスきゅん、あたちと遊興しよう!」

 しかし、ハンスには、威勢の良い青年のように「やったなー」などと言って応じられる勇気はなかった。あたふたと、後退していく。

 すると、それを見計らっていたかのようにセテムブリーニが目の前に立ちはだかったのが分かった。

「ハンス、ここでも哲学の時間だ」ハンスの肩に優しく手を置く。「この水の動き方、君は見たかい」

「うん、見たよ」

「時間の質の変化はこんな些細なところでも起こっている。異質な時間の流れの中にいる者が、下界の忙しない時間の流れに身を置くとそうなる。本来、わたしたちはこのような場所にいてはいけないんだ」

「でも、セテムによると、魔の山の停滞した時間が下界にも影響を与えているとかいう話だったよね」

「その通り」セテムは指を鳴らして、ハンスの顔をじっと見詰めた。薄氷色の瞳がキラキラと輝いている。「ここの時間の流れは、例えばイタリーと比べれば遙かに遅いだろう。限度というものがある。時差によっても影響を受けるか受けないかは変わってくるところだろう」

「すると、余り遠くの国になると、魔の山とベルクホーフの時間の影響を受けないと言うことなの?」ハンスが質問する。

「そうだね。せいぜい欧羅巴の圏内だろうな。強い影響を受けているのは。でも、今後、大きな戦争が起こるとしたら、それは先ず欧羅巴からだろうから、その時間の流れを押し留める事には意味がある」

「そんな、戦争って……いくら何でも二十世紀になって人類が殺し合う理由なんてないじゃないか。そこまで馬鹿だとは思いたくないよ」ハンスは焦って言った。意見は前と変わっていない。「それに、時間を遅延させることで戦争が押し留められるものなんだろうか、幾ら時間が遅かろうと、戦争するのを食い止められるのか」

「それは……」セテムは躊躇った。

「人間は前進し続けると、必ずお互いを滅ぼし合う方に向かうからですよ」と、突然二人の間にナフタの頭が割って入り、ハンスとセテムブリーニは驚いて両側へと飛び退った。

「明日へ向かっての一歩が、滅びへの道程に過ぎないと知れば、人は限りなく我が身を呪うことでしょう。程良く遅延させておく方が、この欧州から戦争を防ぐことが出来るだろう。そう言う意志の力が存在した、と言うことですよ。果たしてそれは正しいのか……って、そんな訳ないじゃないですかー。わたしは欧州に戦争が寧ろ起こって欲しいほどなんです。かといってベルクホーフに消えろ、などと言うつもりもありませんけどね。その有無に拘わらず、結局大戦争は起こってしまうのですよ」

「なんだと!」セテムはまた怒鳴った。

「これこれ、また喧嘩かい。そう言うことはいつでもできるじゃろに」ベーレンスは浮き輪を持参して、その穴の間から顔を突き出してこちらを見ている。足が床についてすらいないようだ。

「お二人とも、さすがにこちらでは止めて下さい」いつもクールなクロコフスキーも、今回ばかりは僅かに困惑顔である。患者である手前、セテムブリーニには強気に出れないようだった。

「わ、わかった」セテムブリーニはムッとしながら言った。

「戦争がなんだとか、わしにはとても分からんはなしじゃよ。ぬ、抜けん、た、助けて……」ラダマンテュスは浮き輪に首が挟まったらしく、水面をくるくる回転しながら、あちらこちらへと流されていく。

 クロコフスキーは泳いでラダマンテュスを追っていった。

 いとこはぷくぷくと顔の半分を浴槽に付けて泡を吐いていた。

 突然「ぷはー」と顔を出す。

「そういえば、ここ他の人も使うんだよね、やっちゃいけないことだったかな、伝染るかも知れないんだよね……」塩らしくなっている。普段のヨアヒムらしくなく、ハンスは心配になった。

「どーせ、出ていった後、湯の総取り換え&消毒が行われることでしょうね。そうでもしないと、ここの客は利用するのを止めてしまいます」ナフタが静かにいった。

「それでも、使わせてくれるんですね」ハンスは聞いた。

「ラダマンテュスとここの経営者は仲がいいですから。縁者をベルクホーフで看取った事もあったらしいですよ」意外に詳しい。

「そう言えば、ナフタさんは、結核を恐れないんですか。ぼくらと接していると……」

「わたしは既に半分死んだ身ですよ。何を恐れることがありましょう」と暗く微笑んだが、ちょっと照れたのか、横を向いた。

 怖いことも言うけど、案外いい人なのかも知れない。ハンス・カストルプのナフタを見る目は少しだけ変わった。

 と、ハンスはナフタが時折浴槽の中で足を擦っているのに気付いた。

「あれ、ナフタさん、もしかしてその足」

「なっ、これは何でもないですよ」

「もしかして、先日、木から飛び降りた時に捻ったんじゃないですか?」ハンスはナフタが小さく声を出していたことを思い出していた。

「そ、そんなんじゃ、ないですってば」ナフタは両手を前でひらひらさせて平気な風を装っていたが、またすぐに足へと手をやっている。

「変な捻り方すると、長引きますよね。ぼく、子供の時から怪我が多かったので、薬や湿布類は常に携帯してるんです。宜しかったら湯上がりにでも、一枚いかがでしょう」

「そ、それならありがたく」ナフタは日頃のこの人らしくもなく動揺していた。

 

 

 充分身体を温めたので、上がろうかと思い始めた頃、エンゲルハルトがまたこちらを喜々とした様子で見詰めていることに気付いた。

 ハンスとヨアヒムは何も話さず二人で並んで浸かっていた。やはり、幼なじみといる方が一番心が安らぐ。

「エンゲルハルトさん、何か用ですか」ヨアヒムが堪らず聞いた。

「ええ、いい材料が得られたと思いましたの」

「材料って何ですか」

「薄い本のですわ」あっけらかんと言い放つ。

「な、何を、例のあ、あのその、男性が、か、絡み合っている本を、ですか?」ヨアヒムはびっくりしていた。  

「そうです。女装と言うネタは今日お二人を見て初めて閃きましたの。それに、ヨアヒムさんとハンスさんってお似合いで、こうして見てるとまるで夫婦見たいですわ……ま、いやあ、男同士ですのに」と、両頬に手を当てて、身を捩り始めた。妄想の世界に入り始めたらしい。

「ふ、ふうふ……」

 ヨアヒムはまた完熟トマトになり、浴槽の中に轟沈していった。ハンスが慌てて、助け起こさなければならなかった。



湯上がりにナフタへ湿布を渡すと、誰に見られないようにこっそり懐に忍ばせていた。体からむわっと熱気が発散されて、ハンスは少しだけゾクゾクとした。

 帰りは特に問題なく過ぎていった。自分たちを見る住人たちの脅えた視線は数を増していったが、もう気にしない事にした。

 御者たちは終わるまで待っていてくれたし、移動もスムーズに終わった。目を閉じて『水平状態』を保っていれば、身体的負担は出来るだけ減らせるのだ。一度学んでしまえば、ハンスは要領よくこなすことが出来る。学校で授業の成績がいいのもそういう長所を持っているからこそだった。

 無事、ベルクホーフに帰還出来た。

 セテムブリーニは真っ先に中に入り、サロンに移動して、そこの柱時計の前に立つと、懐中時計を取りだして弄りはじめた。

「何をしているの?」ハンスは不思議に思って質問する。

「ここでの時間と下界の時間は違うからね。下界に降りた途端、時計はそちらの時間を刻み出すから、大きくズレが生じてしまうことになる。だから戻ってきた時にはちゃんと調節しないといけないんだよ」

「ああ、なるほど」今日は腕時計をし忘れたので、その心配はなかったが、ハンスは今度下界に降りるときはそうしようと心に決めた。

 ゴーン。ゴーン。

 どこからか鐘の音が聞こえる。そんなに遠く離れていない距離であった。恐らく近くの教会だろう。何かが起こったのだろうか。

「あれは……」

「ああ、あれはね……」セテムは説明しようとしたが、後から入ってきたラダマンテュスに遮られた。

「弔鐘じゃよ。今日もまた患者が死んだんじゃ」

「え……」

「ここはサナトリウムじゃ。もちろん全員助けたいが、それでも人は死んでいく。息を引き取ったのは今朝、看取ったのはわしじゃ。幸い安らかな死に顔じゃったよ。後のことは他の職員に任せたがの。本来なら、わしが最後までいるべきなんじゃが……」途中で出かけたことに対する自責が、その口調から感じ取られた。

 思わずハンスは走り出していた。

「これっ!」後ろから呼び止める声が聞こえるが、構わずに進んだ。

 建物のすぐ横にある舗道を少人数の黒い喪服の行列が歩んでいた。教会へ向かっているようだった。五人ほどに抱えられた棺桶が運ばれていく。

 亡くなったのは身寄りのない人だったのだろうか。参列者は皆、ベルクホーフ周辺の住人や職員たちで、ここ数日の内にハンスが見知った顔ばかりだったが、親族と思しい人は誰も参列していないようだった。

 ここ、ベルクホーフは生と死の境目にある場所なのだ。決して、楽しい寄宿舎ではないし、ここに住む人々は栄えある人生へ向かって漕ぎ出していくのではなく、社会からは隔離されて、ひたすら暗い死へと傾き続けていくだけなのだ。

 ハンスはそのことを強く理解した。

 ――ラダマンテュスはそれを意識させないために、患者ぼくらを外出させたのかも知れない。

 そう思うと心遣いが身に染みた。

「でも、その事実を受け容れられないほど、ぼくは弱くない」とハンスは独りごちた。

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