一、青年の憂鬱
一九〇七年八月――
ハンス・カストルプは車窓に嵌められた硝子から、次々と右から左に流れゆく風景を眺めていた。
この地方は山また山がひたすらに続いている。緑の大きな木々が目の前を圧するかのようにせり出してくる。もちろん冷静な観察者であれば、それぞれ山の高低差を確かめることは出来るのだが、途切れ目も曖昧に続くので、全く見も知らない場所に放り出された十七歳の青年には徐々に判別がつかなくなっていった。
ハンスの膝は旅行毛布で包まれている。車室の壁は灰色単色の布張りで退屈この上ない。
隣の座席には『大洋汽船』と題した仮綴じ本が置かれてあった。
わたしたちも主人公をこのような状態にしておくことはとても辛いのだが、しばらくはお付き合い願いたい。
汽車は青年の生まれ故郷のハーンブルクから隣国シュヴァイツ、クラウビュンデン県のタヴォスへと向かおうとしていた。
「はーあ」
青年は重々しく、憂鬱そうに欠伸をした。
ここまで長距離の移動を、青年は行ったことがなかった。生まれて初めての長旅である。
普通であればもっと満喫できているはずだ。にも関わらず、なぜにここまで落ち着かないのか。
青年は故郷の上級専門学校で造船技術を学び、エンジニアになるための勉強を続けていた。成績はまあそこそこ優秀で、クラスメイトとの仲もさほど悪くはない。
男ばかりの学校ではあったが、ハンスはどちらかと言えば女子が苦手だったので好都合だった。
夏休みを利用した大旅行を計画したのは、二歳半年上のいとこヨアヒム・ツィームセンが結核療養のためタヴォスのサナトリウムに入院したという急報を受け取ったからである。
ヨアヒムとハンスは幼なじみだった。ハンスは幼くして両親と死に別れた関係で、同世代の唯一の親戚がヨアヒムだった。なので、自然と親しくなった。
子供の時は活発なヨアヒムにハンスはいつも泣かされていた。外に引き摺り出されては遊びに付き合わされた。川魚釣り、虫捕り。何れもハードな体力が要求される。ヒイヒイ言いながらあちこち駈けずり回らされた。
当時ハンスはとてもひ弱であり、少し物に当たっただけで大怪我をしていたほどなので、生傷は絶えなかった。まあ今はそれもいい思い出となっている。
ヨアヒムはハンスとは正反対にとてもやんちゃだった。
それ故か陸軍学校に学んで軍隊に入り、ここ数ヶ月は外地に駐在することも増えて疎遠になった。
しかし、そんな健康なヨアヒムが病に倒れるとは。
ハンスは信じられなかった。自分にとって、ヨアヒムは友達以上の唯一無二な存在だ。
――放っておけない。
そう思って見知らぬ南方の地へ向かうことにしたのだった。
青年は絹地の夏オーバーの襟を立てた。
アルプル地方の気温は、緯度は北に位置していながら意外と蒸し暑いハーンブルクより遙かに低く、見る間に青年の身体は底冷えしてしまった。放っておくと手足が僅かに震え出すほどである。
三週間の滞在予定は短い。しかし、近付くにつれて寒さは次第に増していくようにも感じられた。果たしてハンスは耐えられるのだろうか。
憂鬱を感じ取る事は出来ても、その原因を説明することはとても出来なかった。身体からくるものなのだろうか、こころの問題なのだろうか。どちらかだと断定することも出来なかった。
話し相手は誰もいない。夏なのに、ここまで人のいない車両に乗り合わせることになるとは思ってもみなかった。しかも、人見知りするたちのハンスがいきなり他の客に話し掛けられるはずもない。
全くの停滞した時間。
青春の盛りに、こんな何もない時間があっていいのだろうか、とわたしたちは問いたい。
だが、ああ! ハンス・カストルプは単純な青年であった。誰か他者の導きなくして、それを有意義に使うことは出来なかったし、楽しむことはなおさらだった。
窓からの風景を眺め続けるだけで陰鬱な気持ちになるので、取り敢えず昼食を摂ろう。しかし、午後三時にもなるのにハンスの食欲は湧いてこなかった。
毛布を解いて脇に置く。
ヨロヨロと起ち上がり、彼はゆっくりと食堂車に向かって歩き始めた。
扉を開いて、廊下へと出た途端、がたんと音がして車両が大きく揺れた。ハンスは大きく前のめりに蹌踉めく。
「あっ、ごめん」
澄んだ音がして、誰かが身を窓側へ寄せるのが分かった。女の声だ。
「す、すみませんでしたっ!」
ハンスは弱々しく言った。姿勢を立て直しながら。ほんとうに哀れな青年よ!
白く縁の広い帽子を被った、同じく白のワンピースを来た女性がそこに立っていた。
ハンスはその顔を眺めた途端、暫し眩暈を覚えた。何か今まで経験したことのない、新しい感覚を覚えたのである。
「ひ、ヒッペ君!」
青年はまばたきをした。昔の知り合いの面影を、ゆくりなくもその女の顔に見てしまったからであった。
「誰? お知り合い?」
娘は不思議そうに小首を傾げる。見事なばかりの栗毛色の髪が肩の上で波打っていた。
少し、年上なのかな。ハンス・カストルプは考えた。
「い、いえ、何でもないんです」
「でも、それにしても――とても顔色が悪いね、もしかして、タヴォスに療養に行くとか?」
「い、いえいえ、見舞いです。親戚がサナトリウムに入院したらしくて……」
「今にも倒れそうに見えたよ、大丈夫?」
「も、もう何でもないです」
「これも何かの縁、あたしもタヴォスに行くんだ。取材だけど」と名刺を差し出した。
ハンスは鈍い動きでそれを受けとる。
「ええと、クラウ……」
「クローディア・シャウシャット。リンドンのアワーズ社の記者」
そう言えば首からコーダックのカメラが長い革紐でぶら下げられている。それは紛れもなくこの娘の職業を表すものだった。
「変わった名前なんですね、ぼく、ハンス・カストルプって言うんです」ハンスはオドオドと続ける。「リンドン、イングランディアの方でしょうか?」
ハンスは北の島国を思い浮かべた。地図の上で見ただけの、まだ行ったこともない土地ではあったが、単純な彼は近年の報道を信じ込んで、余り良い感情を抱いてはいなかった。
しかし、今目の前で綺麗な歯を見せて笑うこの娘のことを悪く思おうとしても思えなかった。
誰とでもすぐに打ち解けられる性質の娘であるらしい。もちろんそれはわたしたちだからこそ言えることで、ハンスは全く分かっていなかったのだが。
「そう。爺さんがオロシャから来たそうで……あたしは生まれていないので、なんともだけど。セカンド・ネームもその時に読みを変えたらしく」
「取材と仰っていましたね」
「そうなんだけどね。実は、ここだけの話」とハンスの耳元に顔を寄せてきて、小さく囁いた。「あのサナトリウムには、なにかがあるってね」
ハンスは弱々しく微笑んだ。それは不安の色を含んだものだった。落ち着かない気持ちになったが、口に出すほどの気力を今の彼は搾り出せなかったのである。同時に女に身体を近付けられたことによる緊張も感じ始めていた。
「ま、それを確かめるのが、あたしの仕事だけど」
ハンスは相手を見詰めていた。すると女は舌を見せてテヘッと声を出した。
「って、あたしにしたら随分お洒落な格好をしてきちゃった」
「そうなんですか」
「家ではもっとだらしない格好してるからねー、でも……」
とクローディアは頭を傾げた。
「初めて話すはずなのに、ほんとあんた、他人のような気がしないわ。なんでも話せそうな気がするから、凄くキケン。前世とか信じる?」
「ええと、格別……」ハンスはえらく戸惑った。
「前世で姉と弟じゃなかったのかって言うぐらい」
ハンスの顔が一瞬固まったのを見て取ったのか、
「いやいや、冗談だってば。気にしないで」と笑った。
「それじゃ、また会うことになると思うけど」
軽やかに身を翻すと、蝶のようにクローディアはハンスの脇を抜けていった。
汽車は狭い山間に入り込もうとしていた。窓から覗くと、今ハンスが向かおうとしている食堂車の横腹が見え、そのまた遠くを走る機関車からは煙が褐色や緑や黒になって吐き出されていた。
青年はゆっくりと歩を進める。
ハンス・カストルプが食堂車に足を踏み入れたと同時に、列車はトンネルに入ったようで、窓の外が真っ暗になった。沈んだ闇に車室は充たされる。一瞬視界が閉ざされたようになり、青年は眩きを覚えた。
――まるで現世と冥府の境を往き来したようだな。
他の乗客がこちらを見ていることに気付き、慌てて居住まいを正す。と言っても、僅かに五人ばかりが集まっていただけだったが。
光が還ってきた。
ハンスは席に坐り、すかさずやってきたウェイターへおどおどしながらも口早に昼食を注文すると、横に置かれていた新聞へ目を通した。
ハーンブルクの近郷ラインバークで、石工党が陸橋を爆破したらしい。馬車が幾つか転落し、死者も何人か出たと言うことで、大きな取り上げられようだった。ハンスは思わず読み耽ってしまった。
石工党。
至福千年を謳い、理想国家の建設を求め、国境の解体を主張して欧州各地で暴れ回るテロリスト集団。
ハンスはそう認識していた。
少なくとも近年頻発しているテロ事件は新聞各紙では安易に石工党の仕業とされることが多かった。
その石工党の背後に某国が潜んでいるなどという陰謀論も、よくよくありふれたものだった。移民へと排斥の鉾先が向けられることも多々あった。
しかし、ここまで過激なテロを起こすとは、度を越し過ぎている。
ちょっと新聞記事を読んだだけで、国事に参加したような振りが出来るのも単純な青年の特権である。
運ばれてきたオムレツをたっぷり一時間も掛けて食べ終わると、ハンスは軽く伸びをした。
「軽く」。そう、青年はなぜかさっきまでの憂鬱をすっかり吹き飛ばしていたのだ。
特に苦労もせず、元の車室に戻った。
『大洋汽船』を読み返そうと手にとっては見たものの、妙に浮き立った気分になって行を追うことが出来ない。造船のエンジニアになるための重要な項目が、そこには書かれているはずなのに。
鈍感なハンス・カストルプは自分の感情を上手く説明することが出来なかった。
しかし、わたしたちはそれを指し示すことが出来る。ズバリこの青年の憂鬱が晴れた原因はと言えば、先程邂逅した美人にあるのだった。
遅効性のものではあったが、ゆっくりとハンスの精神に作用を与え、その憂鬱を一気に好転させたのである。
しかしながら、それは愛だの恋だのと言う言葉で容易に現す事ができるものではなかった。ウブな青年がそこまで自分の感情を劃然と分けられるものではないのは当然として、それは一瞬カストルプの脳内に去来したプリービスラフ・ヒッペの面影と関わりのあることであったが、今ここで繰り返すのは止めておくべきだろう。
――まあ、何はともあれ、ハンス・カストルプの憂鬱に晴れ間が差した、ということだ。