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閑話 かき氷。

 生まれたときから戦場にいた。そこは戦場になる価値もない、何もない場所だった。タロスと呼称される異形の巨人。原始人とさして変わらぬ武器を持って、この荒涼たる世界を闊歩していた。

 人の胴回りよりも太い木の幹という物を生まれて初めて見たのはそのときだった。彼らが石斧として担いでいたその柄の部分である。世にはああも太い大樹があるのかと感心したのだった。そしてそれは同時に自分の生まれ故郷がなくなるときであった。

 幼かったわたしは、今も幼いのだけれど、今よりもう少し道理の分からぬ子供だったとき、助かった奇跡に感謝することなく、失った些末な家のことを嘆いた。

 そして生き残りと共に一番近くにある村に向かった。自分の足で歩いたわけではないので、それがどれ程離れた場所なのか知れないが、何日もただ星空を眺めながら移動したことを覚えている。

 子供たちは自由に寝たいときに眠ったが、大人たちは熱い日中と真夜中にだけ眠った。同年代の幼子たちは家財と一緒に、ラクダという涎ばかり垂らす、臭い生き物が引く荷台の上に押しやられていた。


 日が経ち、大人たちのなかに倒れる者が出だした。子供たちは尋常ならざる事態にようやく気付いて不安を覚えた。

 歩けなくなった大人たちが自分たちの側に寝かされるようになった。

 夜ならいいが、日中はそれを板っぱちで仰ぐのが、その場にいた子供たちの役目になった。

 しかし、わたしはそれが嫌でよく顔をしかめた。

 そしてとうとう自分の母親が寝込む番になった。

「ニコレッタ。ママは大丈夫よ。すぐ元気になるからね」

 こんなにも干からびているのにどこに溜っていたのかと思われる程大粒の涙が、母の頬の上に落ちた。


 母が人生でわたしについた、たった一つの嘘になった。


 真逆であった。

 死ぬ前にあれ程大泣きしたわたしが、母が死んだその日から涙がぴたりと出なくなった。いよいよわたしのなかの水分も枯れたかと思われた。薪のように細った腕…… 

 大人たちが次々、代わる代わる荷台の上に転がった。

 そしてみんな笑顔で嘘をついた。



 目指していた村に着いたとき、わたしたちは半分になっていた。心も半分になっていた。

 でも村はわたしたちと同じように壊れていて明かりもなかった。誰もいなかった。わたしたちと同じように村を逃げ出したのだ。

「もう駄目だ」

 誰かが言った。

 反論する者がいるだろうと耳を傾けたが、誰一人言葉を返さなかった。中には黙って頷く者もいた。わたしを握り締める父の手だけが強く「生きよ」とわたしを諭した。

 一日の暑さが去った。ひもじい身体に鞭打って、わたしは夜の寒さから逃れるべく、重くてしょうがないツルツルの毛布を出してきて父と一緒にくるまった。

 今夜が峠かも知れないとわたしは内心感じていた。身体がどうにも凍えるのだ。父のぬくもりを奪っているかと思うと我が身の弱さが恨めしかった。

 早く夜が明ければよいと思った。そうすれば太陽の熱がわたしをもう少しの間生かしてくれる。

 でもわたしのあるべき感覚は失われ、思考さえも段々と闇のなかに引き摺り込まれていくのを感じた。泣くまいと、父を起こすまいと頑なに口を閉じた。

 でも、このまま眠ってしまったら…… おとうさん……


 突然、砂を蹴る大きな足音がわたしの静寂を掻き消した。

「汝に癒やしの光あれ!」

 優しい声と共に見たこともない慈愛に満ちた光に包まれた。

 光のなかで母さんが笑った気がした。

「水だ! まず水を飲ませろ!」

 勇ましい女の声と大勢の足音が夜の闇を蹴散らした。

 煌々と照らされる人工的な明かりが、捨てられて久しい荷袋よりもボロボロになっていたわたしたちを映し出した。

「助かった……」

 枯れた声で父が呟いた。そしてわたしを抱く手の力がフッと抜けると、そのまま起き上がることなく地に伏した。父は大きないびきを掻き出した。

「リリアーナ・ヴィオネッティーである! 皆を救助する! 動ける者は船に!」

 それは初めて見る天使の姿だった。世界には斯くも凜々しく美しい女神がいるのかと一瞬でわたしは虜になった。

 もしかしてわたしはもう死んでしまっているのかもしれないと、一刻、錯覚を覚える程に。

 それはまだリリアーナ様がこちらの世界に来て最初の年のできごとであった。



 それから三年後、父はあのときの長旅が祟って寝たきりとなり、肺を患った後、息をそっと引き取った。

 わたしはリリアーナ様のギルド『銀花の紋章団』が経営する養護院に移された。生前の父がわたしの気持ちを汲んで、すべてを手配してくれていたのである。

 わたしはリリアーナ様のギルドに入ることを公言するようになっていた。

「いつか必ず『銀花の紋章団』に入るのだ」と。

 勿論、友だちも教師たちも誰も真に受けなかった。何せ、今やリリアーナ様はトップギルドの長にして、飛ぶ鳥を落とす勢いの世界一のランカーなのだ。

 皆、不幸故の狂言だとわたしを哀れんだ。そんななか、ただ一人「きっと叶うわ」と言ってくれた人がいた。一つ年上のフィオリーナである。

 養護院の子供たちにとって彼女は姉的存在だった。頭がよく、いつも笑顔で、器量よし。手足も長く、美しかった。ただ、着ている物のせいで何もかもが台なしになっていた。新しい服はすべて下の者に与えて、自分はいつも最悪のお古を手に取っていたからだ。わたしは彼女の癖を馬鹿馬鹿しいと感じていた。

 そしてあの事件は起きてしまった。



 それ見たことか! とわたしは声高に馬鹿にしてやりたかった。が、彼女が被った被害は笑い話にするには絶望的であった。母さんを思い出した。父さんを思い出した。最期のあの悲しそうなみんなの笑顔を。包帯で顔を覆われた彼女の、唯一露出した唇が、母の唇と重なった。

「ごめんね。ニコレッタ、驚かせちゃって」

「こんな時に何、人の心配してんのよッ!」

 わたしは生まれて初めて声を荒げて叫んだ。


 教師たちも、訪れた医師もどこかで匙を投げているような気がした。無力な者の顔はよく覚えている。「もう駄目だ」と呟いた男の顔。反論できなかった大人たちの顔を。それが浮かんでは消えた。

 でもトーニオの目だけは何かに猛烈に抗議していた。

 そのトーニオが事件から数日後、手伝い仕事から帰ってきて言った。

「おいしい氷菓子を食べさせてくれる船が港に来てるんだ。駄目元で頼んでみないか?」

 あまりのショックで気が触れたのではないかと思った。

 でも、聞く限りにおいて彼は正常で、真剣だった。誰よりも包帯に包まれたフィオリーナを思っていた。


 最後の思い出に……


 彼の真意を聞いて、皆、目に涙を浮かべながら頷いた。

 心のどこかで死ぬのは自分の一部なのだと、皆揃って感じていたのだ。また一つ心のなかの何かが逝ってしまうのだと予感していたのである。これはわたしたち全員が失ってしまうものへの手向けなのだと皆、心のどこかで理解していた。



 二人目の天使に出会ったのはそのときだった。

 氷菓子を売って貰おうと向かった先で、奇跡が起きた。

 もう絶対助からないと信じて疑わなかったフィオリーナに見ず知らずの人たちが手を差し伸べてくれたのだ。

 それは見事に、完璧に!

 完治した彼女を抱きしめたとき、干上がっていたはずのわたしの目に涙が戻ってきた。

 それがとても嬉しかった。

 わたしの心も癒やされたのだ。

 わたしたちの心の奥底にこびり付いて離れない陰鬱な何かが、甘い氷菓子を口にする度に一緒に溶け出していくのである。

 頭が痛くなるのはきっとこびり付いたそれを剥がすための痛みなのだと思った……


「リリアーナ様の弟ッ?」

 開いた口がしばらく塞がらなかった。

「あの人が?」

「リオネッロ様って言うのよ」

「エルフには見えないけど?」

「リリアーナ様が半分人族なのよ」

「ほんとに! 知らなかった」

「ねえ、ニコレッタ。わたしね。やりたいことができたの」

「お嫁さんになる以外に?」

 我が親友は大きく頷いた。

「リオネッロ様のお役に立ちたいの!」

 五年前のわたしが目の前にいた。

「一緒に行かない?」

 わたしは躊躇することなく頷いた。



 大海原を背景にリリアーナ様とリオネッロ様が展望ラウンジでくつろいでいる。

 美しい絵画を見るようで、溜め息が出てしまいそう。

「こっちもおやつにしましょう。お皿並べてくれる?」

 ラーラ様。

「ちょうどお腹が空いてたのよね」

 イザベル様。

「あんた何もしてないでしょ?」

 モナ様。

「さあ、さあ、テーブルを開けて」

 マリーのお母様。

「今日はこれよ」

 お母様が大きな瓶をドンとテーブルに置いた。コルク栓をポンと抜くと中から甘い香りが……

「かき氷だ!」

 甲板の隅で遊んでいた男の子たちが、肉球印のかき氷器に気が付いて駆けて来る。

「やった! かき氷だ!」

「イチゴ練乳味だよ。イチゴはリリアーナ様の畑で、今朝、摘んできたの」

 マリーが自慢げに言った。

 フィオリーナが浮かない顔をする。

 嫌なことを思い出したのかしら?

「どうかした?」

「この船って何気に美人が多いと思わない?」

 親友の魂胆見たり。

「あんたもその内の一人でしょ。ね、マリー」

「ニコレッタもね」

 え? わたしも?

 いつも汚れていたわたしも姉様たちのスキンケアに付き合わされて、少しは見られるようになったのかしら?

 無性に鏡が見たくなったが、シャキシャキと氷が削られる音がして、わたしの興味は霧散した。

 そして練乳の甘い香りが、はしたないわたしの好奇心を釘付けにした。


「イタタタタッ」

 頭が痛くなるのは新しい執着のせい?

 氷を口に掻き込んでは皆、頭を抱えた。

「これどうにかならないの?」と、フィオリーナが愚痴をこぼした。

 そのあまりに情けない声にみんなが声を上げて笑った。


 わたしの新しい執着…… 氷と一緒に溶けてしまいませんように。ずっとこんな日が続きますようにと、抜けるような青空にわたしは願った。



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