リオネッロ、指導する
「これ覚えればいいの?」
マリーが、僕が術式を書いた手本を覗き込んだ。
「覚えてみる?」
「魔法使えるようになる?」
「そのはずだけど、どうかな…… 試してみようか?」
「うん! 頑張ってみる!」
マリーはヘモジとオリエッタと一緒に荷台に移るとゴソゴソと手本を広げて覚え始めた。
お茶を飲み干す間もなく、あっという間に「覚えた!」と言って三人が荷台から顔を出した。
僕は「空に術式を描いてごらん」と促した。
描くタイミングに合わせて僕はエルフ語で呪文を唱える。
するとマリーの目の前に水球が現われた。
自分の描いた術式が反応したことに驚いてマリーは飛び跳ねた。
と同時に水球は床に落ちて飛び散った。
ヘモジとオリエッタが水飛沫を浴びてずぶ濡れになった。
怒るどころか爆笑しているふたりをマリーがすまなそうに見詰めた。
「完璧だな」
僕は笑った。
次は呪文の発声であるが、エルフ語はデリケートな上に複雑過ぎるので、初心者でなくても厄介な代物である。特に呪文にする場合、ブレスの位置まで気を使うので、長いセンテンスを唱えるにはマリーの肺活量では心許ない。幸い初級の水の魔法にはその手の定型はないので心配はしていないが。
マリーは何度も教えた呪文を繰り返した。
オリエッタはまだ幼いのでアイシャさんの使い魔のオクタヴィアのようにエルフ語が堪能ではないが、一言一句、一緒に繰り返しては、微妙な修正を試みていた。しゃべれるだけでは飽き足らず、魔法が使える猫又にでもなる気でいるのだろうか?
「ちゃんと術式も思い出して」
何度も繰り返しているとたまにカチリと嵌まることがある。
するとチョロっと水滴が手のひらに現われる。
砂漠の熱波がすぐに干上がらせてしまうが、マリーの頬は高揚に赤く染まっていく。
何度も当たり始め、そろそろ完成だと思われたとき、ポロポロと涙を流し始めた。
それを見て僕は慌てた!
「どうした! 気分が悪くなったのか?」
僕は万能薬を取りだした。
マリーは首を振った。
「魔法、一生使えないと思ってたから」
砂漠において水の入手が死活問題だということを幼いながらもマリーは知っていた。特に行商の旅を生業にする者にとって井戸の存在がとても重要だということも。中継所の井戸が涸れていた経験が何度かあるような口振りだった。
この小さな少女はその度に切羽詰まった現実を肌で感じてきたのだろう。
もうすぐ手に入る奇跡の一端に打ち震えていたのだ。
涙を拭うと、大きく息を吐いて肩の力を抜いた。
そしてゆっくり息を吸い込むと元気よく呪文を唱えた!
意識を集中させて。どれくらい水が欲しいかイメージして。僕は心のなかで応援した。
ずぶ濡れになった反省からヘモジがイメージし易いようにと自分のコップを床に置いていた。
その置かれたコップの底から水が湧きだした。
「気を抜かないで……」
もう少しだ。頑張れ。
水嵩が増していき、縁から溢れそうになったところでピタリと止まった。
風音が帆をはためかせた。
マリーは「きゃー」と叫んだ。
コップを持ち上げると運転席でホバーシップを操っている両親の元に駆け込んだ。
「ママー、ママー」
大騒ぎである。
ヘモジとオリエッタがハイタッチを交わした。もうオリエッタの鼻先以外すっかり乾いていた。
やはりスクロールなど使わずとも、紙に書いた術式だけで充分だったか……
「嬉しいけど…… まずい兆候だね」
「ナーナ」
オリエッタもこくりと頷いた。
誰かが金儲けのために故意に誤った情報を流しているとしたら由々しき事態であるし、差別的な所業であるとしたらなお悪い。
イザベルは戦闘で疲れた身体を癒やすために目下、荷物の隙間で爆睡中であった。
「なんとお礼を言ってよいやら」
日も暮れて野営を始めると売り物の酒と、コップを二つ持ってソルダーノさんがやって来た。
「僕は飲めませんよ」
「祝い酒です。そう言わず、付き合ってください」
僕は渋々コップを受け取った。
マリーの成功は嬉しくはあったが、実験台にしたことに多少の後ろめたさがあった。
「これから馬鹿高い井戸の使用料を払わずに済むと思うと清々しますよ」
なみなみ注がれた。
「幼いうちは無理させないでください。魔力が少ないですからね」
コップを掲げた。
「今日のところは無理でしょうな」
見上げた船の荷台の上には女性陣が陣どって、イザベルを中心に未だに魔法談義が行なわれていた。
薪がぱちぱちと小気味よい音を奏でた。
「パーパー。ママも魔法使えたよー」
夜空にマリーの明るい声が響き渡った。
「なんだって!」
ソルダーノさんが大事な酒瓶を落とした。
砂が受け止めて大事には至らなかったが、慌てた彼のコップの中身は四散した。
マリーが嬉しそうに荷台から手を振った。
「なんとまあ…… いつかは娘のためにスクロールを用意しなければと思っておりましたが」
「スクロールはイメージを構築させるには役立つかもしれませんが、それで魔法が使えるようになるかと言われると――」
「スクロールで覚えるわけではないのですか?」
「発動するイメージを覚えると言う方が正しい表現かも知れません。でもイメージだけなら井戸から汲んだ水でも充分なわけです。例えば目の前のこれ」
現在、肉を焼いている焚火の炎だ。
「この炎をイメージして、心に留めておく。そして燃えるイメージを持ったまま術式を展開、詠唱すれば」
目の前に火の玉が現われた。
「!」
父親は目を見開き、無言で燃える炎を見詰めた。
「戻ったら村の者たちに教えてやらねばなりませんね」
「でもふたりとも一日で習得できるなんて凄いですよ。普通はこうはいきません」
「そうなんですか?」
「うちの爺ちゃんは十四年掛かりました」
「そんなに!」
「今じゃ反動で凄いことになってますけど」
僕は笑った。
「魔法が使えないのは大抵、ちゃんとした教師がいないか、覚える前に諦めてしまうからですよ。力の大小はあるでしょうが、爺ちゃんの逸話を聞く限り、僕はそう思います」
オリエッタとヘモジが荷台から戻ってきた。
「ナーナ」
「ごはん、まだ?」
火炙りになっているブロック肉をふたりは見上げた。
「うん、そろそろいいだろう」
鍋に入ったスープもいい頃合いだ。
三日の旅路の果てに僕たちはメインガーデンを拝める距離まで来ていた。帆が小さくなった分、減速を余儀なくされたが、祭りにはなんとか間に合いそうだ。
「うわぁ。船がいっぱいだ」
砂漠のなかに巨大な城塞都市が現われ、周囲を大小の船が行き交っていた。
「行商の船は北側から入るんだよ」
マリーが指差しながら教えてくれた。
確かに荷を積んだ商業船が北側で列を作っていた。
一際大きな青い船が町の向こう側に入港しようとしている。
「あんな物が浮いてるのか?」
ランキング上位者の船らしい。
「ランディングシップよ。中海を渡ることができる『箱船』よ」
イザベルが望遠鏡を覗いた。
「海を越えるのか?」
「その能力はあるみたいだけど…… ほとんど水上で戦ってるわね。タロス兵は基本泳げないから。距離を取って一方的に蹂躙するのよ」
「ポイント荒稼ぎだな」
「敵も馬鹿じゃないから、そうそう水辺には近寄らないけどね。結局、追い掛けて上陸することになるんだけど…… 橋頭堡を築いても、取ったり取られたりの繰り返しみたいよ」
ランキング制度は協調性を奪い、集団行動を阻害する要因になっていると誰かに聞いたことがある…… リリアーナ姉さんだったか?
冒険者同士のカルテルはその欠点を補うためのものだと言われるが、なかなか規模の拡大は難しいらしく、現状に甘んじているのが現実のようである。
ミズガルズは二つの大陸で構成されている。そしてその中間にあるのが中海と呼ばれる荒海である。本来であれば人類の前線基地はあちら側に造られるべきなのだが、大陸の向こう側には殲滅を免れた、あるいは人類と戦った連中とは別口のタロスが屯する世界が広がっていた。ドラゴンタイプの航続距離を考えると補給拠点であるメインガーデンの位置は現状が最適なのだそうだ。
故に最も生存に適した大地がランカーと呼ばれる冒険者たちの主戦場となってしまっているのである。
リリアーナ姉さんの船も今頃、戦闘を切り上げて、こちらに向かっていることだろう。いや、もう到着しているかもしれない。
大会のルールでは最終日までに戻らなかった船はその年のランキングから除外される決まりになっている。だから一年の努力を無駄にしたくないランカーたちはアクシデントを想定して、早めの帰還を心掛けるものらしい。
姉さんはポイントさえ換金できれば、ランキングなんておまけ程度にしか思っちゃいないだろうが、そうは思わない連中が大勢なわけで、当然、なかには帰路に就いた船を妨害する卑怯な輩も現われる。大抵は船団を組んでいるから抗争にもならないが、期限のある話なので用心は必要だ。
冒険者同士の小競り合いも祭りの華だというが、当事者にはなりたくないものである。大概のランカーはこの手の争いを避けるために、一週間前には帰港しているというから、目の前のランディングシップの到着は若干遅めと言えた。
ソルダーノさん曰く、ほとんどの船はとっくに入港を済ませ、来年に向けての準備をドックのなかで戦わせているものらしい。
それでも一つでもランクを上げようとすれば帰港がギリギリになるのは致し方ない。
そして無理した結果、祟られることもある。
目の前のランカーの船が突然、煙を上げた! 高度が下がり、あっという間に進路を逸れて砂原に突っ込んだ。
「あーあ。あんな所で座礁しやがった!」
ソルダーノさんが叫んだ。
「大変なことになるわよ」
イザベルも腰を上げた。
「どうして?」
「あそこを塞がれると、大きな船が門を通れなくなるのよ」
確かにゲート正面のあの位置に陣取られては大きな船は旋回できずに、斜めに侵入することになる。