爺ちゃんと再会す
「と言うのは嘘だ」
「ええええええ?」
僕は起き上がり、周囲を見渡した。
「こ、これは……」
この溺れそうな感覚…… これは魔素の海?
ということは、ここは爺ちゃんの秘密部屋……・
壁一面の書棚。クッションに埋まったソファ。暖かそうな暖炉と調度品……
「これを渡そうと思ってな」
一冊の本を書棚から引き抜いた。
「あの変な本じゃなくて、最初からこっちをアレッシオに預ければよかったんじゃ」
「他人に預けられる物ではないし。こうでもしないとな」
「こんなことができるなら、いろいろこっちに送ってよ」
「できればやってる。あの本は世界を繋ぐ触媒だ。こうして会えたのも触媒あってのこと。彼が運んでくれたればこそだ」
「よくわかんないけど」
本を覗き込む。
「立体術式の教本だ。新刊だぞ」
「アイシャさんの著作?」
「手書きの原本だ。複製は済んでるが、なくすなよ」
「複製の方を頂戴よ。ここは爺ちゃんち程厳重じゃないんだからさ」
「だったら自分で強化すればいいだろう。姉さんだっているだろ」
「そりゃそうだけどさ」
「姉さんからそっちの様子は聞いてる。高速艇を造りたいんだって?」
「うん、まあね」
「その本はちょうどいい資料になるはずだ」
立体術式がなんの役に立つんだか。
「姉さんにも言ったが、こっちの様子は例の彼が伝えた通りだ。問題はほぼ解決した。整備が済み次第稼働させる予定だ。開通したらミスリルを最優先でそちらに回そう。まさか物理的な修繕の方が後手に回るとはな。思ってなかった」
爺ちゃんはお茶を注いで薦めてくれたが、眠気が覚めるからと断った。
「ミルクだ」
お茶は一瞬でミルクに変わった。
「ちゃんと修行してるか?」
「今は迷宮での実戦だけで手一杯かな」
「お前がここに自由に出入りできるようになってくれると、爺ちゃんはいろいろ助かるんだがな」
「そんなの無理だよ! ここは爺ちゃんの世界だろ?」
爺ちゃんは不敵に笑った。
「じゃあ、今なんでお前は動けているんだ?」
「それは…… 爺ちゃんが」
「おっと、そろそろ時間切れだ」
「時間って?」
「触媒がなくなる」
「帰っちゃうの?」
「帰るのはお前の方だ。じゃあな、修行に励めよ。父さんたちも心配してる。たまには手紙を書いてやれ。ラーラとリリアーナにもよろしくな」
「わかった」
「それと手紙にそっちの迷宮のことは書くなよ。上級ダンジョンだと聞いてから、リオナが今にもそっちに飛んで行きそうな勢いなんだ」
「相変わらずだな、婆ちゃん」
「時間切れだ」
景色が歪み始めた。
「じゃあ、またな」
「またね。爺ちゃん」
まぶたの裏の景色が暗転した。
と同時に、疲労感が全身を襲った。
うう…… 沈みそう……
ベッドに沈んでいく感覚。
なんとも心地よい……
もう少し寝てていいかな……
大丈夫だよね。時間になったらエミリーさんが起こしてくれる……
寝坊した。
カーテンの隙間からスプレコーンとは比較にならない強い日差しが差し込んでいた。
「……」
混乱した頭の整理に若干時間を要した。
「何時だ?」
触媒と言われた本は枕元からすっかり消えてなくなっていた。
代わりに『立体魔法術式応用編 問題集と解説付き』なる化粧箱入りの豪華本がベッドの下に転がっていた。
「問題集って……」
アイシャさんも相変わらずだな。箱のなかに別冊が含まれていた。こっちが問題集か? と思ったら、逆だった。薄い方が本書で、付属の問題集と解説書の方が分厚かった。
僕は表紙を撫でる…… ピンポイント過ぎるだろ。
「僕以外、誰が読むんだよ」
机のロールトップを開け、希少本を本棚に押し込んだ。
「姉さんも読むかな……」
『なんちゃって万能薬』の大瓶が傍らにずらりと並んでいた。
「そうだ」
これもそろそろ。
『解析』魔法を使って調べてみると『なんちゃって万能薬』は『混合液』から『万能薬』に変わっていた。が、印を付けた瓶だけはまだ『万能薬』ではなかった。
胸が締め付けられた。
こっちの世界の材料では万能薬は作れないのか?
魔素の含有量が少ないのか…… もうしばらく様子を見ようか。それともテコ入れしようか。
朝っぱらから緊急事態だ。
封を剥がして中身を思い付きで三等分した。
一つはこのまま封をして状況観察。もう一つは魔力を込め直して封じ、最後の一つにはでき上がった万能薬を呼び水的に加えて、さらに魔力を込め――
突然、性質が変化した。
「!」
零下で凍らない過冷却水に衝撃を与えたときのように中身が一変した。
『解析』で確認するとやはり『万能薬』に変化していた。
「何、これ?」
気苦労が減ったと思ったら、また増えた。
「飲み過ぎですか?」
階段を下りてくる僕に、夫人が優しく声を掛けてくれた。
「いえ、ちょっとやることがあって」
食堂には夫人しか残っていなかった。
「みんなは?」
「子供たちなら迷宮に行きましたわ」
「え? 付き添いは?」
「ラーラさんとイザベルさんがせがまれて。バンドゥーニさんが他のパーティーの案内役を引き受けていらしたので。ヘモジちゃんはモンティーニさんの所に。オリエッタちゃんはたぶんその辺で涼んでますわ」
ヘモジの奴。こっちまで休日じゃないんだけどな。
お茶とクロワッサンが目の前のテーブルに置かれた。
クロワッサンには生クリームがたっぷり挟まれ、砂糖が振りかけられていた。
うわっ、甘々だ。
アイスクリームが載った、蜂蜜たっぷりのパンケーキの皿も出てきた。
夫人が苦笑いする。
「どうしたんです、これ?」
「子供たちに任せたらこうなりました」
夫人が夫の店の手伝いで少し出ていたらこうなったらしい。
ラーラもイザベルも、モナさんだっていただろうに。
「お茶がおいしい……」
夫人が入れてくれたお茶は渋めだった。
まあ、いい。こっちも魔道書を読む時間が欲しかったんだ。
甘い香りに釣られてオリエッタが天井の梁から下りてきた。
「食べてないのか?」
「食べた」
生クリームを分けてやった。
「十九層、下見に行くか?」
「休みでいい」
大きな欠伸をした。
「でしたら、少し買い出しに出てもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。遠慮なくどうぞ」
「では、お言葉に甘えて。お昼までには戻りますから」
いそいそとエプロンを外して、支度を始める。
買い出しと言えば、行くところは一つ。仲がよくて何よりだ。
夫人を見送ると、扉に鍵を掛けて僕は風呂に入った。
昨夜見た夢を反芻しながら、うとうとと。
「最高の贅沢だ……」
突然、半鐘が鳴った。
「敵襲か!」
警鐘のリズムは一点打、ゆっくりしたものだった。
敵襲ではない。でも何かが近付いていることは確かだ。
僕は急いで湯船から上がった。
脱衣場で用意した服に着替えているところに、待ってましたとばかりに、非常口の扉が叩かれた。
オリエッタが既に最上階の階段の手摺りにいた。
内側からノブを回せば仕掛けられた魔法の錠は簡単に外れるのだが、オリエッタはドアノブを回せないので開けることができない。そこで迷宮の鍵のように接近するだけで鍵が開く仕組みを首輪に仕込んである。オリエッタが近付けば扉の仕掛けは自動的に解錠されるのだった。
この格好で最上階まで上がらずに済んだ。
「どうぞ!」
僕は下の階から顔を出した。
すると吹き抜けから伝令の顔が覗いた。
「北から船団が来ます! 『楽園の天使』 ブリッドマン・カステッルッチです!」
「わかった。ラーラは迷宮に行っていて留守だ。姉さんと大伯母を見付けてくれ」
伝令の顔が引っ込むとドアの閉まる音がした。
「折角の休暇が……」
ブリッドマンか。何しに来たのかな。
ゲートキーパーが早い段階で再稼働する情報はまだ入っていないだろうから、長期化を想定して下見にでも来たか。
もう一度風呂に戻っても茹だるだけなので、途中、アイランが入った瓶をせしめて、自室に籠ることにした。
個室のドアが叩かれた。
戸を開けると姉さんが立っていた。
「姉さん?」
「お前が迎えに行け」
「なんで?」
「あいつが何しに来たと思う?」
「下見かなんかじゃ?」
「南の陣地でお前が暴れた情報はあいつにも届いているだろう? あいつの性格を考えたらわかるだろ?」
「そんな理由で?」
「『ロメオ工房』の新作を、カー・ニェッキやポルポラに先を越されてあいつがいい顔するわけないだろ?」
「だったら直接。あ」
向こうの世界とは通信不能だった。
「大枚をはたくんだ。 いくら趣味でも下見は必要だろう?」
「遠路遙々、何やってんだか」
「結界に到達する前に迎えに行ってやれ。『ワルキューレ』でな。いいデモンストレーションになるだろ?」
「姉さんもいかない?」
「わたしは迎賓館でお出迎えの準備だ」
何も強調しなくても。
「中央の港は『銀団』専用だ。『箱船』だったとしても停泊させるなよ。『楽園の天使』に宛がう予定の土地に停泊させろ。頃合いを見計らって迎えを送る。それまで絶対にウロチョロさせるな」
「僕に言わずに守備隊に言ってよ」
玄関の開く音がした。
「遅くなりました」
夫人が息を切らせて戻ってきた。
「ちょうどよかった。出掛けるので後よろしくお願いします」
「はい。かしこまりました」
僕は急いで着替えるとふたりを置いて家を後にした。
オリエッタを肩に載せ、モナさんの工房まで一気に下った。
「ガーディアン出します」
屋上のパラソルの下で来客を接待しているモナさんに声を掛ける。
勝手知りたる他人の工房。表のハッチを開放する。
「ナナナー」
ヘモジが駆けてくる。
「畑仕事しててもよかったのに」
「ナーナンナ」
操縦室に飛び乗った。
「魔石のチェック」
「コンソール内異常なし」
「在庫は?」
「ナーナンナ」
収納を覗いたヘモジがオーケーサインを出した。
「各部異常なし」
「当然よ」
モナさんが言った。
「ロック外します」
「ナーナ」
ヘモジが操縦するのか。オリエッタが下を覗き込む。
『ワルキューレ』が自立したところで一旦停止した。
「来客が来たみたいなんで行ってきます」
「じゃあ、ハッチは開けておきますね」
「お願いします」
来客は女性冒険者で、動いているガーディアンを羨望のまなざしで見上げていた。
「北だ。ブリッドマンが来てる」
「ナァア?」
ヘモジが驚いている。
敵が来たと思って勘違いしていたのだろう。たちまち操縦をオリエッタに譲った。
「お前は婆ちゃんか!」
「ナァー」
畑を名残惜しそうに見下ろした。




