洪水だ!
夜更かしすれば、寝坊するのは当たり前。
迷宮に潜った次の日は自動的にお休みだから子供たちを咎める者もないが…… 大人は別だ。
素直に睡魔に従ったマリーとカテリーナが朝から気分爽快、はしゃいでいた。昨夜の興奮がぶり返しているようだった。
「師匠、湯気が立ってる!」
わざわざ階下まで下りてきて風呂上がりの僕をからかった。同じ緑色の服を着て、双子の瓜のようだった。
婦人の手作りか?
「今朝は軽めにしました」
「助かります」
紅茶にジャムと砂糖をまぶしたベーグル。それと苺のヨーグルト。
マリーとカテリーナも自分の席ではなく、僕の隣に座って一緒に食べる。
婦人の話ではヘモジとオリエッタは既に畑仕事に出たと言う。大伯母は港湾区の拡幅工事。ラーラとイザベルは砦の司令部で偵察部隊が持ち帰った地図情報の整理。僕たちが到達した東端のエリア情報が入手できたらしい。
あの後タロスの陣はどうなったんだろうか。噴火によってドラゴンたちは? 撤退していた大軍の行方は? 気掛かりだった。
「甘ッ!」
ジャムを混ぜ過ぎた。
マリーとカテリーナが渋い顔をしてこっちを見上げていた。
僕のマネをして入れ過ぎたようだ。
器を用意して半分を移して、新しいお茶を注ぎ直してことなきを得た。
「なんだこりゃああああッ!」
遠くでトーニオの声がする。
夜更かしの代償は大きかったようだ。
トーニオの声に起こされた何人かが頭をボサボサにしたまま部屋から出てきた。
「おはよう……」
「お風呂に入ってシャキッとなさい」
「そうする……」
朝湯とは贅沢な。
婦人に促された子供たちはアンデッドのような足取りで階下に下りていった。
婦人が時計を見ている。教育的指導を入れるタイミングを計っているようだ。
「師匠」
「ん?」
マリーが砂糖をまぶした口で言った。
「今日はどこ行くの?」
「十二階層だけど」
「敵は何?」
「フェンリルかな。十二階層はフェンリルの巣のはずだ」
「地下一階と一緒?」
「レベルが違う……」
「三十二?」
「多分な」
中上級者用の迷宮において、魔物のレベルは階層プラス二十が標準だ。
「洞窟?」
「多分な」
「暗いとこは息が詰まるのよね」とカテリーナが大人ぶる。
「また天井落ちてくる?」
「そればかりは行ってみないと」
「一緒に行っちゃ駄目?」
「初見だからな」
「そっか」
「じゃあ、今日はどうしよっか?」
マリーとカテリーナは腕組みした。
「植林は終わったのか?」
「もたもたしてたから大師匠に持ってかれた」
「北の森から持ってきた苗木をか?」
「土手に植えれば崩れなくなるんだって」
「対岸か?」
「北の滝壺の周囲に森を作るんだって」
一体いくつ仕事を抱えてるんだ……
「鉢植えの水やりは?」
「ヘモジがもうやった」
非常口のドアが叩かれた。
「誰か来た!」
非常口から来る客は限られている。
僕たちは急いで最上階まで駆け上がり扉を開いた。
「洪水が来ます。皆さん砦内においでですか?」
「洪水? 砂漠で?」
「はい。東で雨が大量に降ったようで浸透しない雨が鉄砲水となってこちらに向かって来ています」
「この間の噴火の影響かな?」
「かもしれません。噴火したときの水蒸気が雲を作ると言われていますから」
下の玄関からイザベルが飛び込んできた。
「ありがとう。確認するよ」
伝言係は村へと下りて行った。
子供たちは全員いるし、ソルダーノさんも店にいる。モナさんは…… もう工房だ。知らせた方がいいだろう。大伯母も港だが…… あっちは放っておいてもいいか。
「みんな起こして待機しろ! 僕はモナさんの所に行ってくる」
朝からおかしなことになった。
僕はイザベルと入れ替わりに非常口から外に出た。
見張り台への階段の途中で東方を見渡すと、砂漠には珍しい灰色の厚い雲。地平線付近の色が所々変わっていた。
確かに湿った匂いがする。
でもこの距離だと地面に吸われて影響が出ないんじゃ?
ここまで来るとは到底思えなかったが、眼下の防壁の上で同じく東方を見詰めている現地採用の砂漠の民たちは軒並み警戒心をあらわにしていた。
僕は港へ急いだ。
中央広場へは向かわず、下り階段の先をそのまままっすぐ行くと我が家の船が停泊している桟橋がある。その横手に湖にせり出した大きな四角い建物がある。屋根の上には日よけのパラソル。モナさんの工房だ。
「モナさんいる?」
「こっちよ」
桟橋の方にいた。
「モナさん、洪水が来るって」
「さっき聞いたわ。で、今どの辺りかしら?」
「地平線からちょっと見えたぐらいかな」
「時間がないわね」
「え? そうなの?」
「鉄砲水だから早いわよ。砂漠の死因ナンバーワンは溺死だって知ってる?」
「聞いたことあります」
「念のため船は浮かせておきましょう」
「どれくらい水位上がりますかね」
「湖の堰が詰まらなければ問題ないでしょう。でも濁るわね」
「飲み水を確保しないと」
「飲み水は上流から取ってるからたぶん大丈夫でしょう。念のため水車は止めておいた方がいいかもしれないけど。むしろ対岸の耕作地の方が心配だわ。折角、作った土が流されたら大損害よ」
「一応、ブロックを並べて防砂堤として囲んではいるけど……」
「こっちはいいからヘモジちゃんの応援に行ってあげて」
大伯母は既に港の大型船の甲板にいるようだった。停泊ドック内に積み上げられた積み荷を急ピッチで港に上げる作業が行われていた。
ガーディアンが三方に飛んで行った。北と東へは連絡要員だろう。西は堰の監視だ。南は本隊と南東の渓谷守備隊の後方であるため警戒不要ということだ。
洪水との接触は砦より東の本隊が先になる。まさか飲み込まれることはないと思うが。
僕は工房から『ワルキューレ』を持ち出して、対岸の畑に向かった。
案の定ヘモジとオリエッタがいた。
さすがに早いな。でも大門の吊り橋が上がってしまったらどうやって帰るつもりだ?
「ナーナンナ!」
土の流失を少しでも抑えようと、水路の堰を塞ぎにヘモジが飛び回っていた。
今からでは水の流入を完全に防ぐことはできない。防砂対策に切り出した石ブロックが外縁に並んでいるが、それだけだ。
水に浸かるのはこの際仕方がない。ただ土の流失だけは防がなければ。
僕は耕作地の外縁に向かう。
砦建設の際に出た大量の石ブロックが並んでいる。そもそも建材として保管しておいた物だ。だから本来の趣旨で砦開発のために持ち出された場所はごっそり抜けていた。
代わりの石で隙間を埋めている時間はない。
魔法で隙間を埋めていく。
取り敢えず東側の隙間をなんとか埋め終わった頃、時間切れの合図が来た。
見張り台の半鐘が鳴らされた。
「ヘモジ、オリエッタ時間切れだ」
ふたりをガーディアンに乗せると高度を取った。
すると東の大地の半分が濁流に飲み込まれていた。
「思っていたより速いな」
想像を絶する速さだ。
モナさんの予想通り、北の高地に洪水の影響はなかった。
一見平らな地形にも複雑な高低差が存在するのが見て取れる。サンドワームのようにのたうつ濁流の筋が幾本も見えた。それはタロスの怨念のように乾いた大地を這いずり回る。
筋は膨らみ溢れ、やがて後方で一つとなって乾いた大地を余すことなく飲み込んでいく。
大門の吊り橋が軋みながら迫り上がっていく。
子供たちが遊び場にしていた岸辺もこのままでは流されてしまう。
岩や石を排除し平らに整地したきれいな砂場も、日よけのために自分たちで用意した小屋も物置も流されてしまうだろう。
「おや?」
「ナーナ?」
突然、蛇行する流れの向きが変わった。流れは急に壁にぶち当たったかのように大きく南北に分かれた。北側は高台でどん詰まり。停滞しながら水嵩を増していったが、やがて諦め、渦を巻きながら南へ進路を変えた。合流した流れはまるで砦を遠巻きにするかのように弧を描きながら南へ南へと遠ざかっていく。
「もしかして湖を造ったときにできた丘陵地帯が堤防の役目をしているのか」
爆心地を中心点にコンパスで円を描いたように見事に流れが一致している。
ヘモジが僕の肩の上で腰を落とした。
でも、あの丘陵地帯を乗り越えてこないという保証はない。
僕たちは境界へ飛んだ。




