月影の至らぬ里の無きが如く・・・その2
地獄と極楽の境目で閻魔様から亡者どもが、『また来たのかーっ!』と怒鳴られて鼓膜が破れ耳孔から血を流しているあのご絵伝の恐ろしい光景をわたしは目の当たりにすることになると思った。けれども、かろうじてわたしの鼓膜は破れずに済んでいるようだ。
代わりに風景が、暗転する。
舞台セットとしては大都の店舗内に移ったようだ。ただし、隣接するイベントスペースでのネガポジの光景のまま、人は真っ黒な陰で動かず、代わりに床や天井のシミ、掃除が行き届いているかに見えた店内のあらゆる汚物がぼんやりと光っている。おぞましい光景だった。けれどもかすかな希望はあった。イベントスペースは無理だったけれども大都店舗内には観音像をあちこちに忍ばせておいたのだ。その位置を確認しようとすると、近本の声が聞こえた。
『観音像は全部仏のひ孫に潰させた。ひ孫は嫌がったが「もよりを殺す」と言ったら泣きながらやった』
「なんてことを・・・」
『ただの粘土じゃないか? 勝手にお前らが仏だと崇めているだけの話さ』
「嘘だ。本当にそう思うなら、なぜ真世ちゃんに潰させた? ただの粘土だと思うなら自分の手で触ってみればいい」
『もより、賢いな。やはりわたしはお前が欲しい』
「近本っ!」
わたしは暗がりの中、巾着から刃の断片を取り出し、掲げた。
「これはお前が苦し紛れに御本尊に投げつけたお前の体の一部よ。真世ちゃんたちを返さなければ唱え言葉で破壊する!」
『・・・そうか。ならば会わせてやる。ただし一番上のフロアまで上がって来れたらな』
「もよちゃん、一番上は書店だよ」
ちづちゃんの言葉で改めてデパートの断面図を思い出す。最上階は大手資本が地方に出店した蔵書数が近県一の書店。わたしは医学書の精神科コーナーの本棚の裏に観音像を安置したけれどもそれも潰されたんだろう。
わたしは近本に詰問する。
「上がるってどういう意味? どうしようって言うの!?」
『ふふ。今このデパートの中はお前が僧侶見習いである仏教で言うところの「地獄」そのものの状態だ。鬼もいるぞ。金棒持ってな』
ふっ、と見ると、ご絵伝で見た鮮やかな顔料で描かれた火炎や氷や岩石や金属が、リアルな映画フィルムの映像のように周囲を埋めていた。わたしたちの足元はたしかにデパートの通路のままなのだけれども、一歩そこを踏み外すとまさしく地獄の世界だった。
『もより! お前に『一百三十六地獄』を見せてやる! それでお前の友達どもを連れて最上階まで登って来い!通路を地続きにしておいてやったからな!』
後ろを見ると、ちづちゃんも学人くんも空くんもジローくんも凍りついた表情でほんとうに体をガクガクと震わせていた。事実、火炎の熱線がなければ血まで凍りつきそうな寒さだと思った。
近本の重低音が鼓膜を連続して振動させる。
『もよりはもしかしたらたどり着けるかもしれんが、友達どもは気が狂うかもしれんな。そしてな』
近本が、ひゅう、っと息を吸い込む気配がし、それから豪快に笑った。
『「死にたい!」と言うかもな! ははははっ!!』
「近本ぉっ!!」
わたしが怒鳴り返した時には近本の気配はもう消えていた。
眼前の遠くにはこの時点で既に絶望したくなるような火炎の柱が上がっている。
ちづちゃんがわたしの法衣の背中をきゅっと掴んでその手が震えている。きっと『来るんじゃなかった』という気持ちを持ち始めていることだろう。けれどもこのままここからみんなを返してあげる術をもはやわたしは知らない。
ごめんね、みんな。
愚かなわたしが選ぶ道は1つしかないよ。
「行くよ」
地獄の業火へ。




