萵苣姫
彼女は待つ人でした。
窓際の彼女はいつも誰かを待っているようでした。
いつも同じコーヒーを注文し、読書に耽っていました。
時折、左手を頬杖にして窓から外の景色を眺めていました。
月夜の夜空をぼんやりと眺めている、塔に囚われているお姫様の様だと思いました。
彼女は毎週金曜の正午に必ず来店しました。
いつもカウンターまで来ると、ブラックコーヒーをひとつだけ注文しました。
窓際の小さなテーブル席に腰掛けると、鞄から文庫本を取り出します。
そこのテーブルはふたり用なので、イスがもうひとつあります。
ですが、そのもうひとつのイスが埋まることは一度としてありませんでした。
彼女は待つ人です。
私が彼女のことを、誰かを待つ人だと思うのはなんとなくです。
なんとなく誰かを待っているようだと思いました。
これでも私は長年、この店の店長としてお客様を近くから観察する機会が多々ありましたから、それなりに人を見る目はあるつもりです。
その私の経験から、彼女には大切な相手を待つ人の独特な哀愁があるように思えました。
彼女と言葉を交わしたことは2度程ありました。
1度目は、彼女が私に声をかけてくださった時です。
「いつも忙しい時間にコーヒーだけで入り浸ってしまって、ごめんなさい。」と謝られてしまいした。
その時は「いえ、ここを気に入ってもらえて私は嬉しいですよ。」と少し鼻にかかる言い回しをしてしまいました。
2度目は、その次の週の金曜日です。
1度目の会話の日に、彼女は落とし物をしていたので、それを渡す為に私から声をかけました。
「先週、こちらの栞をお忘れになりませんでしたか?」と少し丁寧すぎるような気がする言い回しをしてしまいました。
白と紫の花の綺麗な栞でした。
「ありがとうございます。探してたんです。ところで、店長さんはビオラの花の意味をご存知ですか?」と聞かれたのをよく覚えています。
その時は、ビオラという花すら知らなかったので、会話もソコソコに業務に戻りました。
彼女が落とした栞にプリントされている、上品な色使いの花はビオラという名前でした。
私の店には、今はもういない妻が残した趣味の面影があります。
石造りの様に見える灰色の壁面に様々な植物が飾られています。
彼女はきっと私が植物に詳しいと思ったのかもしれません。しかし、私には彼女の期待に応えられるような知識はありませんでした。
私は閉店後に自宅で妻が遺した本棚から本を数冊取り出しビオラを探しました。
コーヒーを淹れ、机上の図鑑をペラペラめくりました。
調べ物に満足してベランダに出ると、冷たい空気がとても心地良かったのを覚えています。
空いっぱいに美しい星々がきらめく夜でした。
次の週の金曜日に彼女は来店しませんでした。
その次の週も。そのまた次の週も。
枯れた葉が散り、雪が降り、年を跨ぎ、緑が芽吹き、蝉が鳴っても。
草花から生気がなくなり、街を行き交う人はマフラーで寒さを凌ぎ、頬と鼻の先を赤らめたふたりが手を繋いで暖め合う頃になっても、彼女はあらわれませんでした。
外の景色がよく見えるあの席越しに、白色に薄っすら化粧を施された街を今日も眺めてしまいます。
ビオラの花を調べた時に、聞きたいことができました。
3度目の会話の機会は二度と無いような気がしました。何かを窓際で待つ彼女と私には何も接点かないですから。
ですが、そう思っていても、なんとなく窓の外をなんとはなしに眺めてしまうのです。
私は待つ人です。
ポッカリと空いてしまったあのテーブルを埋めてくれる彼女が、いつの日か扉をカランコロンと開ける日があるのではと思ってしまいます。
そして、いつものようにブラックのコーヒーをひとつだけ注文して、あのふたり用のテーブル席に腰掛けるのです。そうしたら、私はコーヒーをテーブルに持っていくついでに、私はビオラの花の話をしようと思います。
「ビオラの花について調べてみたんですよ。」と。
そんな、コーヒーと花の優しい香りがふんわりとする金曜日がいつか来るのではないかと、私は思ってしまうのです。
私は店主。彼女はお客様。
いつか、あなたが来店して下さることをツタが絡み付いたこの店でお待ちしています。
本当に待ち焦がれている人は誰なのでしょう。