女心を知りたいなら女の子になるのが一番
「おい雅之! どうしよう、朝起きたら女になっちゃってた!」
「……は?」
「だから、女になっちゃってたの!」
慌てたようにドタバタと居間へと入ってきた男。ヤツこそ我が兄、弘之である。
無精ヒゲをだらしなく伸ばし、鼠色のよれよれスウェットを履き、野良犬みたいな髪を生やしたガッシリとした体格の男だ。御年21歳、大学生。半分ニートのような生活を送っているにも関わらずなかなかの体つきをしているのは恐らく高校の頃やっていたアメフトのおかげだろう。
さて、「朝起きたら女になっちゃってた」というのは漫画や小説などの創作物では良く聞く話だ。
俺も兄貴の面影のある女性がブカブカのスウェットから鎖骨をのぞかせながら先ほどの台詞を叫んだとしたらその言葉を信じてしまっていたかもしれない。もし彼――いや、彼女が美人だったならなおさらである。
しかし今の兄貴はどうだろう。美人でもなければ女でもない。男……いや、漢である。
どうしたのだろう。まさかあまりに使わないせいで脳が錆び付き、とうとう故障してしまったか。いや、兄貴の身体に巣食う筋肉が脳を侵食し、正真正銘の「脳筋」となってしまったか。
いや待てよ。
「女になった」というのは比喩で、つまり「男」を失ったという意味では?
モテないのをこじらせ、変な女に走って病気を貰ったのかもしれない。なるほど、ならば気が動転してしまうのも納得がいく。
俺はできるだけ優しく兄貴に声をかけた。
「兄貴、落ち着くんだ。大丈夫、そのうちiPS細胞がなんとかしてくれるさ」
「うーん、良く分からないがなにか誤解が生じているようだ」
******
「実はな雅之、俺は女になってみたいと思うんだ」
「……タイへ旅行するという意味?」
「違う。永久的になりたいわけじゃない。女のいいところだけをちょっとだけ味わって、すぐに戻りたい」
「なんとも都合のいい話だなぁ。というか、なんでまたそんな馬鹿なことを思いついたんだよ」
俺が尋ねると、兄貴はまるで俺がその理由を聞くことを一切想定していなかったかのようにハッとした顔を見せ、そしてガックリと肩を落とした。
「実はだな雅之、お兄ちゃんはあまり女にモテないんだよ」
兄貴は出生の秘密を語るかのごとく重苦しい雰囲気を醸し出しているが、そんな事はとうの昔に知っていた。
無精ひげを生やし、髪は鳥の巣の如く、外出時にも平気でスウェットを着ていくような男だ。その上いつも同じような筋肉隆々の男とばかりつるんでいる。女にもてるどころか「男好き」疑惑が出てもおかしくないくらいだ。
しかしその事を口に出すとまたややこしくなるので俺は特に何も言わず黙っていた。
「それで俺は考えた。俺がモテないのは偏に女心が分かっていないからではないのか、と」
「なるほど」
「そこで俺は一時的に女となり、女心を知ることでモテ男への第一歩を踏み出そうと考えたのだ」
「なるほど」
「そこでだ雅之。これよりしばらく俺を女として扱ってくれ」
「なるほ……うぇっ!?」
適当に相槌を打ちそうになるのを必死に止め、俺は目をひん剥く。
このゴリゴリの漢を女の子扱いだって? 冗談じゃない。
女の子とゴリラ、どちらに近いかと聞かれれば断然ゴリラに近い。雌ゴリラ扱いならしてやっても良いが、人間の女の子の扱いを受けたいというのは無理というものだ。一流の俳優にだって難しい仕事だろう。
俺は頬を痙攣させながら丁重にお断りする。
「む、無理だよ兄貴。俺にもできることとできないことがあるよ」
「そこをなんとか。頼むよ」
「いやぁ、無理無理」
「この通りだ雅之。なんなら給料も出してやろう。時給1000円……いや、2000円でどうだ」
「時給2000円? うーむ」
うーむなどと一丁前に唸ってはみたがすでに腹は決まっていた。
時給2000円なんて美味いバイト、飛びつかないはずがない。少し我慢するだけで数千円金が入るんだ。俺は小躍りしたくなるのを抑え、小さく頷いて見せる。
「分かったよ。そこまで言うならやるよ」
「おお、本当か! なら少し時間をくれ、準備をしてくる」
「じゅ、準備……分かった」
嫌な予感。
そしてそれは見事的中することとなる。
30分ほどした頃だろうか。
なんとも奇妙な格好をした兄貴が二階の自室よりおいでなさった。
「待たせたわね雅之」
「……なにその格好」
色々と突っ込みたいところがあったが、とりあえず兄貴が身に纏ったスカートを指差す。なんとなく見覚えのあるヒラヒラした軽い感じのスカート。恐らく母さんのだ。
「お、これ? 股がスースーしてなんとも愉快よ」
兄貴はそう言ってスカートの裾を軽く持ち上げる。チラリと覗く太ももにはいつもの剛毛が見当たらない。良く見れば髭も綺麗に剃られていた。
「うげぇ、毛まで剃ったのかよ」
「もちろんだ……いや、もちろんよ。視界に入る自分の手足がモジャモジャだったら雰囲気ぶち壊しでしょ?」
いかにも作ったような高めの声が俺の生理的嫌悪感を煽る。テレビなどに出てくる女装家の方にはこんな気持ちは抱かないが、やはり肉親の女装と言うのはクるものがある。
いや、それだけじゃない。女装のクオリティが低すぎるのだ。スカートは履いているものの上はピチピチのTシャツだし、化粧もしていない。髪はツインテールのつもりだろうか。短い髪を無理矢理集めて輪ゴムで二つにチョンと結んでいる。これじゃあまるで不審者である。
「どういうつもりでそんな格好したんだよ。やるならやるでもっと本格的にやれば良いのに、それならまだ何もしない方がマシだよ」
「いや、お前はそう思うかもしらんが俺的には女気分が味わえているぞ。足はスースーするし、毛も剃ったし、髪も結んだ。お前は変に思う格好かもしれないが、俺は鏡さえ見なければ自分の姿なんか見えないからな。自分で勝手に美少女を妄想してなりきるとするさ。そうそう、鏡は伏せておいたから勝手に立てたりするなよ」
「ううっ……」
確かに当の本人は鏡を見なければ良いだろうが、俺は否応なしにこの珍妙な兄貴の姿を見せられ続けるのだ。クソッ、こんなに酷いならもっと時給を上げてもらえばよかった。
「さてシチュエーションだが、友人以上恋人未満の関係で行こうと思う」
「ちょ、ちょっと待ってよ! そんなの聞いてない……っていうか『朝起きたら女になっちゃってた』はもう良いの!?」
「ああ。ファーストコンタクトの時にお前がノッてくれたらそれでも良かったんだがなんかもうそんな小芝居いまさら恥ずかしいし」
見る者を死にたくさせるほど恥ずかしい格好をしておきながら「恥ずかしい」だと?
このゴリラに羞恥心が備わっていることにも驚きを隠せないが、その思考の突飛さにも驚かざるを得ない。
開いた口がふさがらないのを無視し、兄貴はさらに続ける。
「そういう状態の女性ができたときにどういう振る舞いをしたらいいのかが分かるしな。給料やるんだからキッチリ働けよ」
酷い扱い。まるで奴隷だ。
給料さえ払えば何をしても良いのだろうか。そんな事だからクレーマーやブラック経営者が後を絶たないのだ。
「場所は……そうだな、俺がお前の家に遊びに行った設定で行こう。お前がこの俺、弘子の事を好いていてどうにかしてやっとお家デートに漕ぎ着けたってのでどうだろう」
俺がゴリ子の事を好いている!?
馬鹿言うなと頬を引っぱたきたくなったが、俺は必死で我が右腕を抑え込んだ。我が兄は右の頬を打たれたら左の頬も差し出すなんて事をしてくれるほど優しくはないのだ。右の頬を打たれたら腕ひしぎ逆十字固めを食らわせろが心情に違いない。俺のか細い腕など小枝のように容易く折ってしまうことだろう。
俺は涙を呑んで頷いた。
「なら決定だな。お前は俺を落とすために精々努力しろよ、じゃないと検証の意味がない。俺も女の気分になって女性目線からお前の行動を逐一チェックするからな。そうだ、終わったらお前の男前度も発表してやるよ」
殺すぞ。
「じゃあ早速始めるか! 俺がお前の部屋を訪ねてきたところからやるぞ」
「はい……」
「よし……ピンポーン」
どうやら女子演技を始めたらしい。ピンポンの音まで上ずっている。
居留守を使いたい気分だがそうもいかない。ゴリラの良く見れば案外つぶらな瞳にはしっかりと俺が映っているのだから。
「は、はーい……」
「お待たせ雅之君!」
「いらっしゃい……ええと、どうぞ上がって」
「はーい」
精一杯の女声のつもりだろうか。背筋に氷を擦り付けられたような悪寒が走る。
俺は震えをこらえ彼――いや、彼女を椅子に案内する。
「へぇ~、ここが雅之君の部屋かぁ」
「は……はは。ごめんね散らかってて」
「ううん。全然だよぉ、凄く綺麗で意外だなぁ。私の部屋の方が汚いもん」
「あはは……そう……」
なんだか奇妙なリアルさを感じる会話だ。どれだけ女子をシュミレーションしているんだ我が兄は。
半分感心し、半分慄いていると兄貴はどこからともなくノートを取り出し、なにやら書き始めた。
「何書いてるの?」
「なんでもないヨ」
そう言いつつも俺から良く見える様テーブルの上にノートが開かれたまま置かれている。そこには「×微妙に元気がない ×女子の謙遜を否定しない ×大事なお客さんにお茶も出さない」などと列挙されていた。
ここを改善しろと言う事か。
殺すぞ。
「……ええと、喉乾いたよね。お茶持ってこようか?」
「えー、そんなお構いなくゥ」
そう言いつつもまたノートにペンを走らせる。
「×飲物に選択肢がない」が追加されていた。
「……お茶か、珈琲か、紅茶か、牛乳か、オレンジジュースか……あとはゲータレードがあるけど」
「じゃあゲータレードで」
……この選択肢の中から果たして女子はゲータレードをチョイスするだろうか。
「どうぞ」
「ありがとー!」
ゲータレードの注がれたコップを両手で持ってチビチビと飲む兄貴。
そのアンバランスさは首が一回転する少女や髪の伸びた日本人形に感じるような恐怖を呼び起こさせる。
「じゃあ始めよっか!」
「え、なにを?」
悪魔祓い?
「なにって、決まってるじゃない。文化祭の計画よ。サークルでお店を出すって言ったでしょ?」
「あ、ああ……そうだったね」
やけに説明的な台詞だ。そういう設定でやれと言う事だろう。
それにしてもやけに具体的だ。コイツ普段からこんな事ばっか考えて生活してるのか。
「私的にはぁ、ケバブとか良いと思うんだよねぇ。もしくはずんだ餅」
「ど、どっちも美味しいもんね……でも文化祭にケバブやずんだ餅はどうかな……」
「えー、変わってて良いと思うんだけどなぁ。あっ、そうだ今花男の再放送やってるよね? 見ても良ーい?」
「花男? ああ、もうとっくに終わってるよ」
「え? だってこの番組の裏でいつもやってるでしょ?」
兄貴はきょとんとした顔でテレビを指差す。画面には何回も再放送されている人気刑事ドラマが映っていた。
「いや、これはビデオだから」
「……えっ、待って今何時?」
いつもの野太い声に戻っている。
俺は戸惑いながらも現在の時刻を告げた。
「4時だけど」
瞬間、兄貴の顔から血の気がサーッと引いていく。
「えっ、どうしたの?」
「やべぇ……やべぇよ。あゆみちゃんきちゃう」
「あゆみちゃん?」
「じっ、実はな。今日あゆみちゃんって女の子がうちに来るんだよ……文化祭の打ち合わせに」
「あっ、なんか具体的だなと思ったらこの茶番はシミュレーションだったのかよ!!」
「いや……まぁね。イメトレは十分したけどあゆみちゃん側の視点でもシミュレーションしときたいなって」
「それで、何時に約束してるわけ?」
「4時」
その時、ふいにチャイムの音が部屋に鳴り響いた。
兄貴は口から泡を吹きそうな勢いで焦り始める。
「うわっ、どうしよう来ちゃった! シミュレーションまだなのに!」
兄貴に釣られてなんだか俺まで心臓がバクバクしてきた。我が家に女の子を入れたことなんてほとんどない。偉そうな事を言ってきたが俺だってあまり女にはモテないのだ。
とにかく今やるべきことをしなければ。俺は慌てて玄関を指差す。
「シミュレーションとかどうでも良いから! 早く出てやれよ!」
「う、うん!」
兄貴はすっくと立ち上がり、ドタバタと玄関へ走っていく。
そうか、兄貴は真面目に女の子との接し方を学ぶためにあんな恥ずかしい格好をしていたのか。モテない兄貴がようやくつかんだチャンス、必死になるのも無理はない。あまりに不真面目な格好をしているからふざけているのか、もしくはなんかそういう性癖でもあるのかと思った。軽蔑してすまない、兄貴。頑張れよ。
あれ、待てよ。
不真面目な格好……?
「兄貴、ちょっと待――」
「ギャアアアアアアアア!!」
玄関から女性の悲鳴が届き、俺はすべてを諦めた。