パート3
真打真人とセセリ、そしてリッキーを含む四人の男戦士たち。計六人が、森の中を進んでいた。案内役であるセセリの両脇は真人とリッキーががっちりガードし、更に三人の戦士が彼女らに後続する形で横一列に並んでいる。槍、弓、斧、サラカヤシの葉柄を鉄棒に巻き付けて作ったという、見るからにとげとげしい棍棒。各自武器を持った戦士たち――ちなみにリッキーの武器は槍――は皆、緊張した面持ちで忙しく視線を動かして警戒している。悪魔の他にも種々様々なる獣が潜む森の奥地では一瞬の油断も許されない。
「この辺りからはかぶれやすい植物が多くなってきますので、皆さん、なるべく触れないようにして気をつけてください」
セセリからの注意事項に、同行者たちは「おう」と返事をする。
――森の中のこと、全部頭に入ってんのか? 凄い記憶力だな。
シシンデラとしての役割を完璧にこなす少女の横顔を、真人は今や尊敬すら篭めた眼差しで見ていた。
――それにしても。
戦士たちと同様の緊張感を持ち、真剣な表情を保つセセリ。彼女ですらそんな様子なのだから、真人も暫くは余計な口を聞かず、ただ静かに歩を進めていたが。
「…………」元来真面目な空気を苦手とする真人の口元が、むずむずと動き出す。そして遂には。「悪魔って」言葉を紡ぐ。「どんな奴なんですかね」
「へ?」
それは誰の口から発せられたものであったか。リッキーでもセセリでもない誰かが、真人からの唐突な質問に拍子抜けしたような声色で反応した。それに続くようにして、他の者たちもまた、真人の突然の問いかけに反応を示す。だが誰一人、答えるということはしない。
だから。真人は質問の方向を変える。
「もしかして――誰も見たことないんですか?」
「確かに俺たちの(・・・・)誰も、悪魔を直に見たことはない」答えたのはリッキー。彼は続ける。「でも。十五年ほど前、うちの祖母さんが実際に見たらしい。見たというか、襲われたというか」
「リッキーさんのお祖母さんって、アゲハさんのことですか?」
真人の問いに、リッキーは小さく「ああ」と言いながら頷き、言葉を紡ぐ。
「おぞましく鋭い牙と恐ろしく硬い鱗、それに、長い尻尾を持っているそうだ。身体のほとんどを、濁った川の中へ潜めているから、全身を見ることは出来なかったらしいが。祖母さんはその時、奴に左足の脹脛を食い千切られたそうだ」
しんと。場が静まり返った。元より真人とリッキーの声以外には、鳥獣の鳴き声しか響いていなかったが。今や、心胆寒からしめるような薄ら寒い静寂が場を覆っていた。
そんな中、真人は悪魔の正体について一つの考察を得ていた。
――牙、鱗、尻尾、川……か。まあ、そうだとは思ってたけど、これはやっぱり……。
………………。
言葉数ますます少なくなった討伐隊が静かに歩を進めていると、突然に真人が顔を顰めた。
「なんか、変な臭いがしませんか?」
歩みを止めるということはしないまでも。鼻孔を右手の甲で塞ぎつつ、真人は訊ねた。特定した誰かへというわけではなく、全員に向けて。すると、セセリを含めた皆が、頭を動かしつつ嗅覚を働かせてみせる。が。
「特別、気になるような臭いはしないぞ」弓を手にし、矢を入れた籠を背負った男は、そう答えた。彼は続ける。「変な臭いというか、嫌な臭いなら、さっきからずっとしておるしな。この辺りには、中々えげつのない臭気を発する花も自生しているのだ。我らにとってみればもう慣れたものだが、やはり外から来たお前にとっては耐え難いのではないか?」
「いや、その……確かにそういう類の臭いもしてますけど、それとは別に何か」言い掛けた真人の言葉を、バシャリという水音が遮った。「今のは!?」
誰かが高板からプールに飛び込んだ時のような音に、警戒心を露わにした真人が訊ねる。
「もうすぐ近くなんですよ。マシオ川が。それにしても。あれだけ大きな音を立てるようなのは多分、悪魔しかいません……」
答えたのはセセリ。彼女の声も肩も、震えている。表情には恐怖の色がありありと見える。
「さて。これからどうする?」
妹とは対照的な泰然とした口調で、兄が言った。
「で、結局こうするのが一番なんだよな」
そうひとりごちて。真人は一人、川の前に立っていた。熱帯の森の中、
マシオと名の付けられた川は、競泳用のプールであれば十二コース分ほどの広さを持ち、尚かつ川とは思えないほどにゆったりとした流れであり、ともすれば湖と勘違いしかねないほどのもの。日本における川のイメージとはかけ離れている。しかもひどく濁っており、視力検査表では〝測定不能〟と診断された真人の目を以ってしても、到底、底までを見通すことは出来なかった。彼がギリギリ視ることの出来る範囲内――視覚内には、一匹の魚もいなかった。魚だけではなく、悪魔も。それはそれとして。
「変な臭い……マシオ川自体の臭いだったのか」溜め込まれた生ゴミが更に腐ったようなおぞましい臭気に、真人は渋い顔をする。そして。「よい、と」膝を屈めて小石を拾った彼は、それを川の中に投げ入れた。
十メートルほどの水柱が上がった。
「おい、どうした! 大丈夫か!?」
「(勢いつけ過ぎた……)何でもありません! 大丈夫です!」背方から掛けられたリッキーの大声に、同じく大声で答えた真人は、自業自得でびしょ濡れていた。「うっ」自然の川の水とは思えぬ腐敗した臭いに嗚咽しそうになり、真人は口と鼻の両方を覆うように手を遣る。だがその手もまた飛沫で濡れているから、「手も臭っ!」という結果になってすぐ手を離す。その瞬間、真人の目は閉じられた。臭気が目に滲みた結果の、ほんの二分の一秒程度のまばたきであったが、再び開かれた彼の目に映った光景は、目を閉じる前のものとは違うものに変化していた。「あ?」真人が間の抜けた声を出してしまったのも無理はない。
マシオ川に、何かの身体が浮かんでいた。
背を天に向け、微動だにせずぷっかりと浮かんでいるだけの身体。小さなサルのようにも見える。水面上に出ているのは肩とその付近だけで、他は水に浸かっている。それが死体であることは、真人の目にもすぐ分かった。シルエットだけでは人間の子どもともサルとも判別がつかない。腐敗し切っていて、皮膚はほぼ剥げ落ちている。だから、嘗てそれが体毛に覆われていたかどうもかも分からない。そんな死体が、文字通り目前に在るというのに、真人の顔に嫌悪の色はなかった。ただ彼にしては珍しく、思案顔になっている。
――動ける筈もない死体が、どうして急に現れたりするんだ?
ほんの寸刻前までそこになかった死体は、音もなく現れた。川へ飛び込んだ瞬間に死んだだとか、誰かが死体を投げ入れたとかいうのであれば、水の撥ねる音が聞こえるはずであるのに。ということはつまり。
――浮かんできた?
真人が稚拙な頭をフルに回転させてその結論を得た瞬間、マシオ川の水面が波立ち、件の死体が寝返りをうつように半回転した。
死体には、顔がなかった。
仰向けになった死者の顔には、本来あるべき目も鼻も存在していなかった。だからと言ってのっぺらぼうな風体をしているというわけではない。抉られていたのだ。額から、顎の直ぐ上までが。抉られて、頭蓋骨はぐちゃぐちゃに割れていて、皺と皺の間から血液を染み出させた脳が露出している。それでも微かに残ったままの眉や顎の形状から、死者の正体がサルではなく、やはり人間の子ども、それも恐らく赤ん坊であることが、真人の目にも明らかとなった。
「う、わっ……」
映画でも合成でもない本物のグロテスクに、真人は目を背けそうになる。如何に体術において人間離れしていようとも、彼は基本的に十三歳の少年に過ぎない。が。彼が目を背けるまでもなく、グロテスクは消えた。沈んでいった。水の中へ。突然、浮力を失ったように。
代わりに尻尾が現れた。泥色をして。鰭のついた。しなやかな。それでいて重厚さを感じさせる、真人の身の丈の倍近くある尻尾が、突如として川中――真人の立っている側の岸から一メートル程の地点――から飛び出し、振るわれた。
「おうっ!?」
泥濁した水飛沫を撒き散らせながら振るわれた尻尾(凶器)は、川中から伸びるヒルギや、川べりに生えた丈の低い木などを薙ぎ倒す。真人は垂直に跳躍することで直撃こそ避けたものの、着地した時、まだ尻尾は目の前にあった。
そして第二撃。先ほど以上の猛威で振るわれた尻尾を、真人は両手で掴んだ。
「るあっ!」怒声を上げ、真人は、掴んだ尻尾を渾身の力で持ち上げた。巨大な生物が川の中から引き上げられる。その姿は。「ワニ! やっぱり、悪魔の正体はワニだったのか!」現れた巨大生物の姿は、確かにワニの一科クロコダイルに酷似していた。だが、単なるクロコダイルにしてはあまりにも異常。尾を含めた体長は十メートルを優に超えており、ともすれば十五メートルには届こうかという勢い。左目は完全に潰れており、大きく裂けた口には鋭い牙がずらりと並んでいて、図鑑に再現される首長竜やモササウルウスたちよりもよっぽど恐竜じみた顔つきを湛えている。もっとも。身体の大きさだけなら、ティラノサウルスさえも凌駕しているという悪ふざけ仕様。
そんな、何もかもが規格外な悪魔を、真人は空中へ投げる。そして。自身もそれを追う形で飛び跳ね、拳を叩き込む。ワニとヒトの空中戦。まるで悪い冗談。だがとにかく。顎なのか首なのか判別し難い部位を殴られた悪魔は、ばがっと口を開き、赤い血の混じった唾液を飛ばした。顔面にそれを振りかけられた真人が渋い顔をしていると、彼の脇腹を鋭い衝撃が襲った。
「がっ!」正面から突貫して一撃を与えた真人は、代償としての一撃を喰らい、川へ叩き落とされた。さながら悪魔の鞭とでも形容出来ようかという尾による攻撃には一切の容赦がなかった。無論、真人の一撃にも容赦などなかったのだが。「ぷはあっ、うわ、くう」顔を水上に浮かび上がらせた真人は立ち泳ぎの格好で口と鼻の両方から大きく息を吸い込んだ。嗅ぐだけで身体に悪そうな臭気が肺に充填され、真人はむせ返る。むせ返りつつも、視線はしっかり空を見つめていた。悪魔が落下してくる。「うおっ!」上に投げたものは下に落ちてくるのが当然なのだから驚く方がどうかしているというものであるが、とかく真人はまさかのバタフライからのイルカ跳びで川岸に上陸した。うつ伏せで。と同時に、激しい水飛沫を上げて、悪魔が川へと落ちた。「あ、ぶなかったぁ!」冷や汗を流しつつ立ち上り振り返った真人は、泡がぶくぶくと立ち上っているのを見た。それは気泡。悪魔の呼吸。
――流石にあれじゃくたばらないか。って、尻尾動かしてたんだからそりゃ生きてるよな。
己の浅薄さに呆れ、真人は頭を掻く。そうこうしている内に、再び悪魔が現れた。頭部だけを水面上に出し、真人の様子を窺っている。爬虫類特有の目つきのせいか、睨みつけているようにしか見えない。だから真人も睨み返すつもりで――つもりというより、思いっ切り睨み返した。一触即発の様相は、悪魔が触れたことで、爆発した。真人の不格好なものとは比較にならぬ美しいまでの線を描き、悪魔がイルカ跳びをする。巨大な口を開けて。
「うあっ!?」
吸い寄せられるようにして己に喰らい付いこうとする悪魔の口を、真人は必死で押し止めた。右手で悪魔の上顎を、左手で下顎を。ちょうどフック船長がチクタクワニをそうしたように。
半端に口を開かれたままとなっている悪魔は、それを閉じようとして顎に力を入れる。恐竜並の巨体を持つワニの顎力がどれほどのものか。生物に興味のない人間でも想像出来ることだろう。〝想像出来ないほど〟である、と。この悪魔が本当にワニであるかどうかはさておいても、人間が抵抗出来る範疇にない力を持っていることは明らかであった。但しこの場合の〝人間〟には、武道家を除いてという但し書きが付けられる。現に。
「ぐ、ぐぐぐぐっ」
武道家真人は、しっかり抵抗して見せていた。額から脂汗を滲ませ、歯茎からは血が出るほど強く歯を食いしばって、これ以上ないと言うほどに苦悶の表情を浮かべてはいるが。それでも彼は生きていた。霊長目で言えば唇に当たる部位を掴んでいるため、彼の手に牙は届いていない。とは言え。消耗戦になれば真人が不利であることは明らかだった。彼の両腕が既に震え始めていたからである。状況を打開すべく、真人は、悪魔の下顎を蹴り上げた。
「ヴォ」低く唸った悪魔の力が瞬間的に緩くなる。その隙に真人は手を離し、跳び上がり、悪魔の鼻面に踵落としを決めた。そのままの勢いで悪魔の背へ飛び乗り、心臓のありそうな部位を狙って力いっぱい殴り付けた。と。「ヴゥォ」ブタの鳴き声のような呻きを上げた悪魔は、びくんと身体を弓ならせてから、大量の吐瀉物をぶちまけた。真人はしがみつき、振り落とされずに耐える。
――しまった、この辺りは胃だったのか? うえっ。
視覚的にも臭覚的にも様々な不快要素がない交ぜになった悪魔の吐瀉物。妖怪人間でも生まれ出そうなどろどろの中に。一本の手があった。骨に少し筋肉が残っている程度まで消化されていて、ヒトのものかサルのものかもよく分からなくなっているが、とにかく手が。
――こんな大きな図体で何を食ってるのかと思ったら、こいつ……たまに陸へ上がって狩りしてるんだな。
ならばやはり放っておくのはまずかろうと、真人は悪魔退治の心構えを悪魔殺しに切り替える。先ほどとは位置を変え、再び拳を叩き込む。中指だけを、僅かに突き出して。
「ヴフ」
と呻き。今度は二回、身体を弓ならせた悪魔は、それぎり動きを止めた。
「え? ええ?」
あまりにあっさりとした結末に肩透かされたのか。真人は悪魔の背から飛び退いてからもしばらくその傍に立ちつくしていた。そこへ足音。人の声。
「終わったのか?」
と声を掛けたのはリッキー。彼に続き、討伐隊の面々――最後尾にはセセリもいる――が次々とやって来た。マシオ川を隔てた向こう岸に。闘いの経過で、真人が現在立っている場所は、元いた場所とは反対側の岸になっていたのだ。
「終わった……のかな? 幾らなんでもあれで死んだとは」
思えないのも当然であった。不意に蘇った悪魔は、尻尾どころか身体全体を使って真人を弾いた。彼の身体は川を飛び越え、対岸にまで吹き飛ばされる。持っていた槍を瞬時に手放したリッキーは、両手で真人の身体を抱き止めた。
「な、ナイスキャッチ」
と、真人。
「お、おう」
と答えながら、真人を降ろすリッキー。立ち並んだ四人の戦士、一人の武道家、一人のシシンデラが、対岸の悪魔を見据える。
「もうかなり弱ってるんじゃないか?」
「そうみたいだな。涎に少し赤みが見える。血が混ざってるんだろう。臓器が幾つか破裂しているのかもしれん」
などと。斧の戦士と棍棒の戦士が会話を交わす。それを聞いて、真人は改めて悪魔を凝視した。確かにほんの気持ち程度ではあるが、口から洩れている唾液は赤くなっていた。ラバムの戦士たちの観察眼に驚かされながら、彼は発言する。
「一つ、提案と言うか、お願いがあるんですけど」真人がそう切り出すと、皆の注目が真人に集まった。真人は続ける。「俺じゃあ、しっかり相手が死んだかどうかの確認もままならないみたいなんで、いっそのこと、この先は一緒に闘ってくれませんか?」
昨日今日会ったばかりの相手、否、今日会ったばかりの相手に、命懸けの戦いに協力して欲しいと頼む。軽い気持ちでそんなことが出来ようはずもない。真人にしてみれば、断られる前提で懇願したようなものであったが。
「おう、そうするか」リッキーは即答した「というか、本来それが当たり前だろう」
リッキーが言うと、他の男たちも頷き、続く。
「お前は武道家とやらかもしれんが、俺たちだって戦士なのだ。それが何のために付いて来たと思っている。何のための討伐隊なのだ」
「このままおめおめと子ども一人に闘わせて待っているだけなんぞ、誇りが許さない」
「まあ、既に弱っている相手に複数係と言うのも少々アレだが、それはそれで普段のラバムの狩り方法と変わらないからな」
「……皆」真人は、込み上げる嬉しさを隠すように顔を伏せる。「ありがとうございます。やりましょう。ただ、俺はこんな風に大勢で闘うのって慣れてないんで、出来れば誰かがリーダーをやってくれるとありがたいです」
「リーダーか。それなら、リッキーしかおらんな。頼むぞ、リッキー」
弓を持った男にそう言われ、リッキーは驚き目を丸くして答えた。
「何言ってんだスガリ、年長者のお前がやるべきだろう」
「年長者って、我とお前では誕生日が二日違うだけだろ。いいからやれ」
「命令されてやるんじゃあ、どっちがリーダーだか分かったもんじゃないな。まあいい。分かったよ」言って。リッキーは苦笑した。「リーダーって言ったって、ほんの少し指示を出すだけだからな。基本的に方々の判断だぞ」
「了解」「了解」「了解」「了解」
「えっと……わたしはどうすれば?」
「あ」「あ」「あ」「あ」「あ」
セセリの存在を忘れて勝手に盛り上がっていた男たちの熱が瞬間的に冷めた。
結局。斧の男を護衛に付けてセセリを川から離れさせ、残ったリッキー、スガリ、棍棒の男、真人の四人で悪魔との闘いをすることとなった。
「闘いと言っても、ほとんど止めを刺すだけだな」とリッキー。「始めよう」
それが合図。まずは真人が川を跳び越え、対岸で緩慢に動いている悪魔の傍へ着地した。真人の存在に気付いたのか。悪魔は彼へと向き直る。再び睨みあう両者。その隙に、リッキーと棍棒の男がゆっくりと川へ入る。静かな立ち泳ぎで、川を渡り始める。一メートル二メートルと彼らが泳ぎを進める間も、真人と悪魔は対峙し続けている。
ッ。
風を切る音が真人の鼓膜を揺らす。一瞬後、悪魔が弾き飛んだ。平均的五歳児にシュートされたサッカーボールほどのふんわり感ではあったが、確かに悪魔の体は宙に浮き、スライドして、一番近くにあった木にその背を打ちつけた。同時に木は〝くの字〟に曲がって折れた。
音の正体は真人による回し蹴り。左足を軸として繰り出された強烈な攻撃によって、悪魔はほんの少しだけ川岸から遠ざかった。だが一部始終が分かったのは真人本人だけだった。ヒトの動体視力に捉えられる速度など、とうに凌駕していた。リッキーの目には、ただ真人が腰を捻っただけで悪魔が倒れたようにしか映らなかった。だがとにかく。機会は今しかないと、リッキーと棍棒の男が上陸した。
「お前、今、何をしたんだ?」棍棒の男が、目を丸くして訊ねる。「というか。俺たちの協力は本当に必要か? 俺たちはこの場に必要なのか?」
ついさっきまで『何のために付いて来たと思っている。何のための討伐隊だ』と息巻いていた男は、早くも意気消沈しかかっていた。
そんな男の気持ちを知ってか知らずか。否、流石に知って。真人は頭を掻いている。
「無粋なことを言うなよ」柔和な語調で割って入り、棍棒の男を諭したのはリッキー。彼はその次に「とは言うものの。マサト」と呼びかけながら、真人へ視線を移した。「まさかとは思うが、今の一撃でもう死んでしまったんじゃないだろうな?」
「それは……ああ、〝まさか〟で済んだみたいですよ」
言いながら。真人が指差した先では、悪魔がもぞもぞと動き始めていた。身体を左右に振ることで、自らについた木クズを振り落としている。
「どうすればいいというんだ。打撲ではどうにもならないんじゃないか? と言って」リッキーは溜息を吐きながら、自らの手にした槍を見つめる。「こんな槍を突き立てたところで、あの甲羅のような皮膚を突き破れるとは思えない」
リッキーの言葉に、真人は黙り込んだ。自分の手で実際に触れて悪魔の感触を味わっている身である彼には分かっていた。確かにリッキーの槍では……いや、恐らくは世界中に存在するどんな槍を用いたとしても。魔法の力でも宿っていない限り、あの悪魔の皮膚を貫くことは出来ないと。
「口内やら目やらなら」棍棒の男が言う。「何とかなるんじゃないのか?」
「しかし、目を潰したところで死ぬわけではないし。俺の槍では、口から突っ込んでも心臓まで届くかどうか。ここはやはり、三人の連続攻撃で――」
「おい! 我のことを忘れるな!」
対岸から、スガリの叫び声。
「……四人連続で攻撃しよう」
カルテットを組んだ武道家と戦士たちは、未だ朦朧としている悪魔を取り囲んだ。背方には棍棒の男。顔の左傍には真人。体側右にはスガリ(但し彼の場合、マシオ川を挟んだ対岸という離れた場所ではあるが)。そして正面には、リッキー。
最初に棍棒の男が、刺々しいサラカヤシ製の棍棒を振り上げ、跳び上がった。号令などなく、合図などやはりなく、気合いの雄叫びなど無論なく。並大抵の腕力では持ち上げることすら叶わないであろう、八十キロ超の重量を持つ棍棒を、悪魔の尻尾の付け根に振り降ろす。
果たして棘はへし折れへし曲がり、たったの一本として悪魔の皮膚を貫通することはなかった。棍棒それ自体にも罅が入る。いやそれどころか。
「うくっ!」
棍棒の男に腕に、激しい痺れ。鉄パイプ同士がぶつかり合った時に起こるじんわりとした振動と同様のものが、彼の骨に起こっていた。それは棍棒を手にしていた腕だけに留まらず、一瞬にして、全骨格へと響き渡っている。男は棍棒を手放し、がくぼたっと膝を落とした。
しかし悪魔は全くの無反応。というわけでもなかった。先ほどまですぐにでも眠ってしまいそうなほど閉じかかった目を――痛覚によるものなのか反射的なものなのかは悪魔自身にしか分からないが――今は大きく見開いている。
そこへ。黒い矢が突き刺さった。放ったのは当然、スガリ。彼の矢は、二十メートル離れた場所から悪魔の眼球、それも瞳のまったく中心を、正確無比に射抜いた。
「グヴォ……っ」
今度こそ。明確に苦痛の鳴き声を洩らした悪魔。破けた右の目から血が噴出している。もはや器官として使い物にならないことは明白。左目はもともと潰れていたから、これで両方の目が潰れたことになる。視覚は完全に失われた。逃げる素振りも見せない。そんな、ただ苦痛に喘いでいるだけの悪魔に、真人が馬乗りとなり、
「く、おおおおぉぉォォ!」
その口を開いた。
わけの分かっていない悪魔は、とにかく口を閉じようとする。真人の腕が震えている。血管が浮き立っている。だが口を閉じることを許さない。そして。悪魔はあくまで視覚が失われているから。正面にいる男が己に向かって槍を構えていることにも気付かない。気付けるはずもない。口を閉じようとすることだけに必死で、逃げようとはしない。だから。
リッキーが投擲した槍は、吸い込まれるようにしてその口内へと突入した。
直後。悪魔は崩れ落ちた。ドラム缶のような肢は、巨体を支えることを止めた。いや、もとより無理があったのだろう。それまでは〝意識〟があったから、いわゆる根性のようなもので立てていたに過ぎない。だが〝意識〟は今、完璧に喪われた。だから。森中に響き渡りそうなほどに凄まじい音を立てて。四足はすべて折れた。あり得ない方向に捻じ曲がっている。通常。口から槍を突っ込んだとしても、悪魔もといワニの身体構造的に心臓へ到達することはなかっただろう。だから心臓が破けたわけではない。そうではない。何か別の器官が破壊されたのだろう。だが何にしても。
「悪魔は死んだ」
リッキーによる勝利宣言が為された。