パート1
密林の間を流れる、だだっ広い川。ヒルギが飛び飛びに生え伸びており、泥水同然に濁ったその川の中を、手袋が流れていた。否、掌。それは紛れもなく人間の掌であった。未だ凝固し切らぬ血液をじわりじわりと滲み出させながら、どこかの誰かの右手が流れて行く。
◇
――――某年、八月某日。
文明によって守られた町から遠く離れた、ある熱帯に属する密林の直中。一見して樹とは思えないほどに丈の低いヤシ科の植物や、食虫植物の代表格として日本でも有名なウツボカズラやらが自生している。木々には、鋭く湾曲した角を三本持つ――申し訳程度についた突起も含めれば四本と数えることも出来るが――黒く光沢のあるカブトムシ。地には、日本の主婦が見れば卒倒すること請け合いの巨大なゴキブリ。空のそこここからは、ぎゃあぎゃあと得体の知れない鳴き声が聞こえてくる。人工の光などないこの地は、新月の夜ともなれば星だけが頼りであった。そして今宵はその新月。星明りだけが道標と言えば、多少のロマンティシズムも滲み出そうなものではあるが、今現在この密林を彷徨っている少年は地図も磁石も持っていた。
にも関わらず。
「どこだよ、ここは」迷子だった。「あれえ、おっかしいなあ。この辺でそろそろ川が見えてくるはずなんだけど。水が流れる音もしないや」
十四歳を間近に迎えた十三歳。すっかり日に焼けて真っ黒くなった筋肉質の少年は、まさしく夜闇に溶け込んでいた。背中には、子どもの身体が丸ごとすっぽり収まってしまいそうなリュックを背負っている。また、昼間ならば馬鹿みたいに暑いはずのこの地で長袖長ズボンという出で立ちをしていることから、彼がまったくの旅の素人ではないことが分かる。毒性の植物やヒル、ヒトに感染する病気を媒介する蚊などから少しでも身を守ろうとしての措置であることは明らか。もっとも。彼の皮膚を突き破ることが出来るほどの蚊やヒルや植物の葉が存在するのかどうかと問われれば答えに窮するところである。少年こと真打真人は武道家であり、ピストルの弾をも跳ね返す、人間離れした肉体の持ち主であったのだから。
「これ違う地図じゃんか!」
真人がその事実に気付いたのは、東の彼方から太陽が頭を出し始めた頃のことであった。
半日近い散策が徒労であったことを知った彼は、大きく肩を落として落胆する。
「夏休み一日無駄にしちゃったよ。碌に鍛練も出来なかったし。あーあ、はあ」真人は溜息を吐きつつ、見当外れであった地図と、実は狂っていた方位磁石とを、リュックのサイドポケットへ仕舞い込んだ。「参ったなあ。こんなとこで迷子になっちまって」
密林から抜け出すにしても目印はなし。薄明の中、行き迷った真人は立ち止まり、途方に暮れる。一人で何時間と彷徨っていたわけで、しかもただ頭が少々弱いだけで方向音痴と言うわけでもない彼なので、時間さえかければ町まで戻ることは可能。
それにしても。
「やっぱりケータイは要るなあ。こんな場所でも電波が立つかどうかは知らないけど」彼は携帯電話を持っていなかった。だから、抜け出すのにかかる時間と言うのも、それ相応以上のものとなる。外に頼める者はなし。中に頼める者は――「ん?」突然。どこからか人の声が響き渡って来る。しかも。「英語?」
英語であった。『Good』だの『Morning』だのと言う流暢な発音。その声に耳を澄ませ、真人は歩みを再開する。声は段々とはっきり、大きくなっていく。一つではなく、複数の声が混じり合っていることも徐々に明らかになっていく。
そして。
「なんだ、ありゃ」真人の目に飛び込んできたのは人、集落。ジプシーのそれのように、簡易なのにそれでいて丈夫そうで且つデザイン性にも優れた、ホール型のテントが二十数張りほど並んでいる光景。当然としてそこ一帯の木々は伐採されており、文字通り切り開かれている。老若男女。浅黒く、アジア系の顔立ちをした人々が、米国よりの英語で挨拶を交わしている。服装は洋服。上はランニングかTシャツで、下は半ズボンといった出で立ちの者が大半を占めているが、女性の中には――少数ながら――スカートを穿いた者も。「そう言えば確か……」
今から十数時間前、自分をこの密林の入り口にまで案内したガイドの言葉を思い出す真人。
『ひとつ注意しておきたいのは、このジャングルの中に住む、〝ラバム〟と呼ばれる民族のことです。彼らは異邦の人間に対して非常に積極的かつ友好的な民族です。しかも、ある一点を除いて非常に柔軟です。英語を「使い勝手がいい」という理由で、二百年以上も前から自分たちの言語として完全に取り入れてしてしまったほど――もっとも、それまで彼らは言語という言語をほとんど持ってはいなかったのですけどね。昔は十数種類の単語の組み合わせだけで意思疎通を図っていたそうです。それはともかく。今も昔も、彼らは、武器作りに優れた民族としても有名です。かつて異国の開発業者がこの密林に重機を持ち込んだ際にも、十人ばかりのラバムの男たちが、彼らの武器を手にその重機を追い返したとか。とは言っても。それでも未だ対外的な交渉に応じるほど優しい民族ですから、こちらから危害を加えない限り、攻撃してくることはないでしょう。しかし。必要以上に接触することは避けてください。彼らを知り過ぎると、きっと後悔しますから』
とまあ。一民族に関する実に様々な事柄を聞かせてくれたガイドの言葉の内、真人が注目もとい注耳して聞いたのは、「武道の、武器作りの民族か」この一点に限っていた。
真打真人は素手且つ肉弾戦の武道家であったが、武器を使った戦闘という、人間らしい闘い方にまったく興味がないというわけではなかった。たとえ自分自身が武器を使うことはなくとも、その扱い方を知っていれば、武器を使う相手への対処方法が広がる。彼を知り己を知れば百戦危うからず、とも云う。
「よし」意を決した真人は、力の限り叫ぶ。「Hey!」
矢が飛んできた。
――そりゃまあ、友好的だからって警戒心がないわけじゃないよな……。
明らかに自分を目掛けて飛んできた矢をかわした真人は、その一瞬後には武装した青年たちに取り囲まれていた。その数は四人。二人は槍を持ち、二人は鉞によく似た形状の石斧を持っている。
「Who are you?」槍を手にした方の内の一人が、ごく簡易な英語で真人に話し掛ける。「Can you speak English?」
「Yes, yes. No sweat! Please, calm down. I’m not enemy」ラバムがどの程度に英語を扱えるか知らない真人は、とかく出来るだけ噛み砕いた言葉で対応する。構文的な正しさよりも意思疎通の確かさを優先させた、ほとんど教科書の例文に出てくるような文章。「I’m a traveler. I don’t……」
「あれ? アンタ、日本人か?」
真人はずっこけた――石斧を持った男からの問い掛けに。ずっこけつつ、答える。
「そうですけど、日本語が話せるんですか?」
まるっきり胡散臭いものを見るような目つきになった真人は、その目つきのまま問い返す。答えはすぐに返ってくる。日本語で。
「ここ何十年かは、エウロパ人より日本人と話す機会の方が多くなっています。よって、若い者は特に英語より日本語の方が話せるようになって来ているのです」
「ああ、そうなんですか。でもそれは助かった。とにかく聞いて下さい。俺はあなた方に危害を加えるつもりはないんです。ただ道に迷ったところ、あなたたちの存在を思い出したので。ええっと、あなたたちが〝ラバム〟ですか?」
「如何にも」答えたのは、始めに真人に話し掛けた男であった。彼は続ける。「私たちがラバムだ。迷子にせよ何にせよ、一人きりの客人とは珍しい。どうかね? 私たちの集落に寄って行くかい? 町に戻る時には案内してあげよう」
まさに渡りに舟。断る理由のない真人は、「よろしくお願いします」と恭しく頭を下げ、彼らの招待に預かることとなった。
ラバムの集落に数あるテントは、どれも同一の規格で作られたのかと疑いたくなるほどに同じ大きさ、同じ形であったが、色だけはそれぞれに違っていた。その多くは寒色系であったのだが、集落の中心に鎮座するテントは全体が真っ青であり、まさしく異彩を放っていた。
そのテントの中に、真人はいた。正座をした彼は、胡坐をかく一人の老年男性、ラバムの長老と向き合って座っていた。顔の皺や白髪の多さなどから、齢七十前後でいったところであろうその老人は、しかしとても老人とは思えぬほどの威圧感を放っていた。やせ衰えた肉体には筋肉はおろか脂肪すらほとんど付いていないし、歯もところどころ抜け落ち、肩幅も狭い。はっきり言ってしまえば小さかった。現時点で一七〇センチの真人よりもずっと。そして。両方の眼球が潰れていた。では一体どこに威圧感が存在するのかと言うと、ひどく抽象的ではあるが、一種のオーラじみたものによる。彼にはどこか、南国のシャーマンのような雰囲気が漂っていた。そんな老人が、節くれだった手を伸ばして真人の顔に触れた。
「hmmm. It’s Young. Smoothness. But……strong」
「ええっと……」
真人は参っていた。かれこれ十分以上、この老人は真人の顔を撫で回しながら同じことばかり繰り返している。老人の言っている言葉の意味は、真人にも分かる。だがそれを何度となく反芻する理由が分からなかった。
真人は、そろそろ止めて下さい、と口に出して申し出ようかとした。その矢先に。老人は手を引っ込めて、
「失礼。つい夢中になり過ぎてしまったようだ」流暢な日本語を発し始めた。「ようこそ、日本の方。我々はあなたを歓迎する。この森で迷ってしまったということだが、なに、シシンデラに頼めば、ここから町まで真っ直ぐに出られる」
「シシンデラ、ですか?」
聞いたことのない単語をオウム返しした真人に、長老は、
「おっと、これは失礼」と言いつつ自分の片頬を軽く叩くという茶目っけのある仕草をしてから説明を始める。「シシンデラとは、まあ要するに道案内役のことですよ。我々はこのような森の中に棲んでいるわけですから、方向感覚は常に鋭敏でなければならない。たとえ子どもであっても」
「確かにそうですね」
「確かにそうだろう? だが。如何に方向感覚に優れていても、どの方向に何があるかを把握していなければ、ただ迷わず家に戻れるだけの能力でしかない。そこで。森の中だけではなく、外の世界の地図情報まで頭に叩き込み、直接外へ出向く必要のある仕事や、あなたのような迷い子を導く役割を担うよう教育された者。それがシシンデラだ」
「なるほど。じゃ、そのシシンデラって人に頼めば、町にも簡単に戻れるってわけですね?」
「確かにその通りだが、あなたはひとつ誤解しているようだな。シシンデラというのは、一個人の名前ではない。役職名だ。この集落だけでもシシンデラは三人いる」
「三人もですか!」真人は喜びの歓声を上げて、言葉を続ける。「あのう、今からその内の誰か一人に会わせてもらえないでしょうか?」
順当な願い出であった。真人が、武器作り武器使いの民族としてのラバムに興味を抱いているのは事実。しかし今はとにかく、自分がこの森に入った本来の目的を果たすことを優先させたいというのが彼の本音であった。そのためにも、シシンデラなる道案内役は必須。だが。
「まあまあそう慌てることはあるまい」長老は飄々とした態度で真人の申し出を拒んだ。「これも一つの縁。せめて今夜だけでも、我々の歓待を受けてもらえんか?」
「今夜って……」
真人は、何故か開け放されたままでいるテントの入口へ目を向ける。武装した男が二人、長老と話す真人を監視しているが、今の彼の関心事とは関係ない。彼が確かめたかったのは外の明るさである。今はちょうど、薄明から早朝に変わった頃合い。何度見ても間違いない。
――一日、ここで足止め喰らってことか?
それは流石に困ると、真人は勇気を出して切り出す。
「実は、今すぐ町に戻りたいと言うわけではないんです。そもそも自分がこの森に足を踏み入れたのは、マシオ川に行きたかったからであって」
「マシオ川!」その名を真人の口から聞いた途端、長老の顔からさっと血の気が引いた。「正気の沙汰であの〝悪魔の水地〟へ行こうというのか? ここまで来ている以上、あそこに何がいるか知らぬわけはないだろうに」
「知っているからこそ行きたいんですよ」
真人の声、眼差しは、真剣そのものであった。視力のない長老には、今真人がしている眼差しなど見えるはずもない。しかし。彼の声色には、何かを動かされたようであった。長老は一度深呼吸してから彼に訊ねる。
「あの悪魔をどうしようというのかね? あなたは」
「そりゃあ勿論、退治しようってんですよ」
これからゲームでも始めようかという表情で、真人は言った。
マシオ川。ラバムの暮らす熱帯林に存在するその川は、通称『悪魔の川』、あるいは『悪魔の水地』として、ラバムのみならず、熱帯林周辺地域の人々すべてに恐れられていた。
――――曰く、狡猾な人食いの悪魔が棲む。
多くの生物学者や物好きな自称探検家たちが訪れては調査を繰り返したが、未だその存在は確かになっていない。その為、武装した正規の警官隊や軍は悪魔退治にやって来ない。
「でも、いるのです。悪魔は確かに実在する。ですが、非常に頭がよいアイツは、大勢の人間が押し寄せている時には決してその姿を見せないのです」
力強く語るのは、齢四十ほどと思われる中年男性。今、長老のテントには、長老と真人の他に、里の代表格と思われる四人のラバムの男たちが集まって来ていた。彼らは円となって真人を取り囲んでいる。珍客の正体が悪魔退治であったことを知り、作戦会議が開かれていた。興味本位の子どもや女性たちが、入口の前に立って聞き耳を立てたり、隙間から覗き込んだりしているが、男たちは気にすることなく話を続ける。
「悪魔っていうのは、一体いつ頃から川に現れるようになったんですか?」
真人の質問に、男たちは顔を見合せ、ぼそぼそと話し始める。真人の聞いたこともない言葉が飛び交う中、
「奴が現れたのは」長老が口を開いた。「私が成人の儀礼を終えた頃だったので、もう六十年ほど前か。以来、一体幾人の仲間が奴に喰い殺されたことか」
「六十年前ですか……」六十年。真人はその数値に絶句した。生まれてまだ十三年と十ヶ月しか生きていない彼にとって、六十年前というのはもはや大昔である。父親すら生まれていない。「六十年もの間、誰にも退治されず生き延びているんですか。そいつは」
「だからこそ悪魔なのだよ」悪魔。すべてはその言葉で絶対化される。「あなたのような若者があの悪魔を本当に倒せるのか? 日本語で言うところの無茶だと思うがね」
長老が決定的な疑念を口にすると、男たちのざわめきはより一層大きくなった。訝しみ。真打真人と言う名の珍客について、おおよそ何も知らないに等しい彼らからすれば、悪くも悪くも馴染みのある悪魔の方が、よほど恐ろしい存在。たかだか十三歳と少しばかりの少年がその悪魔をどうこう出来るとは到底思えないのが本音であり、総意でもあった。無論、真人も彼らのそういった反応は覚悟の上であった。だから彼は表情を崩すことなく、こう答える。
「無茶を通すのが武道家ですから」