この地球のどこかで②
数日後、五限の数学の講義を終えた僕は、ひとり大学の正門前に立っていた。昼から降り出した雨は霧雨に変わり、僕の頬を濡らしていた。
僕は春の匂いが大好きだ。咲いたばかりの花のような、甘酸っぱい青春のような、何だか物語が始まりそうな匂いがする。今の僕にはぴったりの匂いだった。
「ごめん、待った?」
「いえ、さっき授業が終わったばっかりなので大丈夫です。って先輩、何で看板持ってるんですか?」
「あー、これ?今って新歓期だからさ、色々なサークルが新入生を狙って正 門前で待ち構えてるってわけ。だから私たちもサークル名を書いた看板を 掲げている訳なのだよ。分かったかい、後輩くん?」
にこにこというオノマトペが浮かんで見えるような笑顔で、すっと僕の方に看板を差し出してきた。これって先輩が持つべきなんじゃないのか、と思ったが、どうやら僕はこの笑顔には勝てないらしい。素直に看板を受け取り、ちょっとでも目立つようにと周りよりも少し高く掲げた。
「ところで藤坂くん、傘持ってないの?」
「はい、そもそもそんなに傘を持ち歩くタイプの人間じゃないんで。でも、 傘は好きですよ。さすがに大雨の日には持ち歩きますし」
「ふーん、なんだか変わってるね。まあ、風邪引いちゃうと困るし、こっち おいで」
そう言いながら、先輩は可愛らしい水玉柄の傘を僕に差し掛けてきた。どうみても女性用の傘なので、僕が入ってしまうと先輩も濡れてしまうだろう。それが分かっているだろうに、少し恥ずかしそうに、ちょっと目を反らしながら傘を差し出している先輩の顔は、とても可愛らしかった。+
「いえ、先輩が濡れちゃうと申し訳ないんで、僕はこのままで良いっすよ。 どうせ元々濡れて帰るつもりでしたし」
「遠慮しないで、ほらほら」
いやいや、どう考えても引っ込みがつかなくなっただけだろ。そもそも、僕は看板を持っているんだぞ?どうやって入るんだよ。
「だから大丈夫ですって」
「もー、先輩の、しかも女の子からのお誘いを断るなんて生意気だぞ!大人 しく入っときなさいって!」
そう言って、先輩は袖を掴んで僕を引き寄せる。お互いの顔が近付き、先輩は満足げな笑顔を僕に向けてきた。あ、この笑顔だ、と僕は思った。初めて見た時から頭の中で何か引っ掛かるものがあったのだが、今分かった。先輩の笑顔は、三朝秋穂の笑顔に似ているのだ。
もう随分と見ていない笑顔、あの時、手を振ってくれた時の笑顔だ。一年以上経った今でも覚えている自分に驚きつつも、かつての想い人の姿を先輩に重ねてしまったことに、申し訳無さを感じていた。
「あの、藤坂くん、もしかして怒っちゃった……?」
無言の僕が怒っていると思ったらしい先輩は、先程までの笑顔を引っ込めて、本当に心配したような、焦ったような顔をしていた。
「そんなことないです。ちょっとびっくりしてただけですから。こちらこそ ごめんなさい。傘に入れて貰ったのに、お礼も言わないで……」
「ううん、私が勝手にしたことだもん、藤坂くんが謝ることじゃないよ。 私、いっつもこんな感じだから、周りの人に迷惑掛けちゃってるんじゃな いかなって」
「迷惑だなんて、それはないです。それだけは本当です」
後ろめたさを感じていた僕の笑顔をどう感じたかは分からないが、今出来る精一杯の笑顔で、僕は先輩に話しかけた。
「うん、そっか、なら良かった」
「はい、良かったです」
えへへ、とはにかんだ先輩は、ホッとした笑顔をしていた。表情がころころと変わる様は、見ていてとても楽しい。彼女も、三朝秋穂も、こんな女の子だったのだろうか。今更ながら、もっと交流しておけばよかったと後悔した。
「じゃあ、そろそろ練習場所に向かおうか」
「あれ、僕以外には居ないんですか?」
「うん、この時間には藤坂くんだけかな。四限後の集合では、もう少し人が 居たみたいだけど。だから、新入生が藤坂くんだけってことはないから、 安心してね」
「そういうことだったんですね」
「水曜日はみんな学校があるから、遅れてくる人もいるんだよ。そろそろ行 かないと間に合わなくなりそうだから、電車に乗ろうか」
そのまま相合傘をしながら駅へと向かう。正門と駅はほぼ直結しており、数十歩で相合傘は終了してしまった。周りからどんな目で見られていたのかということについては、眼をつぶることにした。
大学から練習場所までは、電車を乗り継いで五十分ほどかかるらしい。東京に来てからよく電車に乗るようになったのだが、個人的に好きな駅を通るのはなかなかに楽しいものがある。今乗っている路線には、地下鉄と言いながらも何故か地上に出る区間があり、僕は特にその場所を気に入っていた。大学に通うには何通りか乗換の方法があるのだが、僕は最短時間になるような乗換を選ばず、毎日の楽しみのためにわざわざこの駅を通るように乗換をしていた。たかだか数分の違いで毎日の通学に楽しみができるのだから、何も不満などはなかった。
地下を通っていた車内に、急に夜の明かりが差し込んでくる。窓から外を見ると、川に掛かる小さな橋の上を電車が通っていることが分かる。上を見ると違う路線の駅があり、帰宅の途につく学生やサラリーマンが列を作っているのが見えた。
「藤坂くん、何見てるの?」
「特に何をってわけじゃないんですけどね。なんというか、この見上げる風 景が好きなんですよ。映画のワンシーンみたいじゃないですか」
「あー、ちょっと分かる気がする。物憂げに窓の外を見る主人公、みたい な?」
「そうそう、そんな感じです。ぼんやりと見るのがおすすめですよ」
「じゃあ、今度からちょっと意識してみようかなあ」
「まあ、普段は電車内では音楽を聴くか読書してばっかりですからね。たま には違うことをしたいじゃないですか」
「あとは寝たりとかね」
「朝早いとそうなっちゃいますよね」
二人で話していると、時間が過ぎるのが早く感じる。先日の交流会の時もそうだったのだが、この人と話していると楽しい。もっと話していたい、と思える相手は久し振りだった。少しずつだが、確実に、先輩に惹かれ始めている自分に気付く。
アナウンスが鳴り、目的の駅に着いたことを告げる。
「じゃあ、この駅で降りるからね」
先立って降りる先輩の後を付いて行く。ここから練習場所の大学までは歩いて十分ほどらしく、改札を出た僕たちは並んで大学へと向かった。どうやら先程まで降っていた雨は止んだようで、湿気を含んだ空気が今は心地良い。
「そういえば、今日練習する歌のこと、何も話してなかったね。はいこれ、 楽譜」
そういって差し出された楽譜は、明らかにお手製だと分かるものだった。新歓期の前に団員みんなで作業をしているのだろうか。表紙には、こう書いてあった。
「『きみ歌えよ』、ですか?」
「『きみ歌えよ』っていうのは合唱曲の名前なんだけど、その曲名を楽譜の タイトルにしてあるんだ。全部で三曲の楽譜が載ってるよ」
パラパラと楽譜をめくると、確かに三曲が確認出来た。一曲目は「春に」、二曲目は表題曲の「きみ歌えよ」、そして三曲目には「旅のかなたに」となっていた。
「この『春に』って、谷川俊太郎さんのですか?」
「お、やっぱ知ってた?国語の教科書にも載ってて有名だもんね」
「教科書を読んで良い詩だなーって思ってて、調べてみたら合唱曲もあった んですよね。聴いてみたら凄く良い曲で」
「合唱コンクールでもよく聴く曲だからね。あまり合唱に馴染みがない人に も分かりやすい曲を入れておいた方が、幅広く受けるからさ」
なるほど、そういう思惑もあるのか、と感心していると、練習場所の大学に到着したことを告げられた。このサークルは、僕の所属する大学とこの大学のインカレサークルであるらしく、大学構内に入る時は学生証を見せる必要がある、と伝えられた。
「結構面倒くさいんですね、手続きとか」
「うーん、まあ一応女子大だからさ、セキュリティの問題だと思う。でも、 大手を振って女子大に侵入できるわけだし、男子としては嬉しいんじゃな いの?」
ニヤニヤしながら先輩が僕に尋ねてきた。
「そうですね、これで女の子との出会いもバッチリです」
と軽くジャブを放つ。
「えっ、本当にそう思ってたの!?」
「さあ、どうでしょうねー」
「ちょ、からかってゴメンって」
「えー、別に怒ったりなんかしてませんよ?」
「もー、ほんとゴメンってば」
「はいはい、大丈夫ですよ。それより早く先に行きましょう」
「むー……」
先輩は少し不貞腐れているようだったが、まあ、これくらいのからかい方ならアリだろう。どうにも納得いかなさそうな先輩は、唇を尖らせて頬を膨らませていた。
正門でのチェックを受け、僕は無事にキャンパス内へと侵入した。看板を見るに、敷地はそこまで広いわけではなさそうだ。先輩の説明によると一学年は五百人ほどらしく、それ相応のキャンパスと言うことなのだろう。しかし、建物や周辺の雰囲気からは、歴史ある名門女子大という印象を受けた。
正門前の大通りは、さながらイチョウ並木のようになっており、そこを進んで行くと正面の大きな建物に行き着いた。建物内にはホールや教室があり、この大学を象徴する建物の一つと言った感じであった。どこの大学でも同じような配置になっていることが多いようで、僕の通う大学にも似たような建物があった。
「今日はこのホールで歌うんだ。毎年冬にある学園祭でも、ここで歌うんだ よ」
「結構広そうですけど、ちゃんと歌えるかなあ」
「普段は、前半の一時間はパートごとの練習、後半の一時間は全パートで合 わせるアンサンブルって感じなんだけど、今日は五限後だったから、アン サンブルからの参加になっちゃうね。いきなりだけど、ごめんね?」
「マジっすか……。緊張するなあ」
「私も去年はそんな感じだったから、大丈夫!みんな優しいし良い人ばっか りだよ。だから安心して、ね?」
そう話す先輩の顔は、優しい、懐かしくなる笑顔だった。凄く安心する、とても良い笑顔だった。
「じゃ、行こうか」
そう言って、先輩はホールのドアを開けた。中から響いてくる音、音、音。音の塊が、僕の耳を、身体を揺さぶった。