この地球のどこかで①
この地球のどこかで
昼間から降ったり止んだりを繰り返していた雨がようやく終わり、春の夜は静かな香りに包まれた。ゆっくりと窓を開けると、遠くから楽しそうな嬉しそうな猫の鳴き声が聞こえてくる。僕の住むアパートの近所には野良猫が多く住みついており、晴れた日には日向ぼっこをする姿をよく見かける。
どれどれ、今日はどいつが鳴いているんだ、と確認するためにのっそりとベランダに出てきた僕の頬を、ふわりと夜風が撫でていった。たっぷりの水を含んだスポンジのような雲の隙間からは、半分の月が顔を覗かせているのが見える。その月と目を合わせながら、僕は少し気まずさを感じていた。
パソコンに繋がっているスピーカーから流れ出てくる音楽が、するすると窓を潜り抜けて僕の真横を通り過ぎていく。終盤が盛り上がる曲だから、そこを過ぎると寂しさに似たものを感じてしまう。歓声が急に止んだような、夏休みの最終日のような、なんというかそんな感じだ。
少しの空白とピアノの音を挟んで、ほら、と後ろから声を掛けられる。ほら、という歌詞で始まるこの曲は、中学生の頃からのお気に入りだった。続きの歌詞も今の状況に似ている。雨、頬、風、その他諸々。ランダム再生で曲が流れているはずなのだが、なんともタイミングの良い選曲をしてくれるものだ。
そういえば、と過去の記憶がよみがえる。確か高校生の時も、似たような状況でこの曲を聴いたんだった。懐かしいなあと思いつつ、改めて人との縁というのはなかなかに面白いものだと感じる。
さっきよりも強い、何かを咎めるような月の視線を避けるように、僕は部屋に逃げ込んだ。冷蔵庫から野菜ジュースを取り出し、しばらくの間、この曲についての思い出に浸ることにした。
昨日までの降り続いた雨も上がり、どんよりとした雲の隙間からは、透き通った青空が覗くようになっていた。
グラウンドにはまだ水溜りが残っているものの、僕たちには関係が無い。雷には負けてしまうが、雨でも雪でも外で練習するのがサッカー部だからだ。野球部とか他の部活は、天気が悪いとグラウンドには出てこない。そういうところに、僕は少しだけ優越感を覚えていた。
スパイクを履いてグラウンドに出て行く。今日は一番乗りだ。誰も居ないグラウンドの真ん中に立ち、手に持ったサッカーボールを空に向かって蹴り上げる。
僕はこの一瞬が好きだ。ボールが空に吸い込まれて行くようで、そのまま戻ってこないんじゃないかとさえ思える。いや、本当は戻って来て欲しくないのかもしれない。来年に迫った受験のこととか、自分の無力さとか、今の自分を取り巻く現状から逃げ出したいという思いをボールに込めていたのだと思う。
頂点に達すると、ボールの静止と同時に辺りの音も一切聞こえなくなる。そのまま時が止まって、僕一人だけの空間が出来上がる。ずっとこのままでいたいと、そう思う。
その時、遠くから響く歌声が、沈黙を切り裂いた。元気の良い男女の声が溶け合って、一つの塊となって押し寄せてくる。いつもそうだ。僕の時間を奪うのは、決まって練習している合唱部の歌声だった。彼らは、声出しの、いわゆるアップの時間だけは、部室から出て連絡通路のような所で歌っているからだ。
沈黙から放り出された僕は、あることに気付く。
「この曲、この地球のどこかで、だ」
いつも聞こえてくる曲は、僕が聞いたことのない合唱曲ばかりだったのだが、今日の曲は違う。僕が好きな、あの曲だ。
歩いていく道は、きっと違うけれど。
「同じ空見上げているから、この地球のどこかで、か」
ひとり、歌詞の続きを口ずさむ。中学校の合唱祭で歌って以来、僕はこの曲がお気に入りだった。曲も良いのだが、なにより歌詞が良い。
今、少しずつ大人になっていく僕たちは、高校卒業後の進路に悩んでいる。ほとんどの生徒が大学に進学するのだろうけど、どこの大学に行くのかは、自分の将来を決める大切な事のように思える。高校二年生と言うのは、大切で、微妙な時期だ。
それでも、みんなの進路が別れて歩いていく道が違ったとしても、僕が見上げているこの空は世界中に繋がっているし、どこで見ても同じ空なのだ。
中学生の時は、合唱なんてダサいとか面倒くさいとか言って、サボったり手を抜いて歌ったりする人が多かった。中学生が高校生になることは、とても大きい変化だとは思う。それでも、ほとんどの人が実家から高校に通うのだ。進路が別れたとしても、道が別れたと言えるほどの、大きな変化ではない。
しかし、高校生になった今この曲を聞くと、また違った気持ちになる。あの時に合唱を小馬鹿にしていた人も、今ならそう思うのではないだろうか。本当に大事なことと言うのは、その時に感じるものじゃなくて、後になってから、ああ、あれは大事なことだったのだなあ、と感じるものなんだと思う。
歌声が止んで、ピアノの伴奏が曲の終わりを締めくくる。色々なことを考えていたせいで、結局最後まで聴いてしまった。ふっと上を見ると、合唱部の部員が部室へと帰る準備をしていた。
その中に、見知った顔を見つけた。いや、正確には僕が一方的に知っているだけで、向こうが僕をしっかりと把握しているとは思えないのだが。
彼女の名前は三朝秋穂。合唱部の部員で、クラスメイトで、僕が密かに良いな、と思っている女の子だ。友達と話している時の笑顔や、授業で当てられた時のその綺麗な声に、僕は魅力を感じていた。
しばらくの間、楽譜を片付ける彼女を見つめていた。クラスでも、後ろの席から彼女の横顔を見てしまうことが、多々ある。意識的なのか無意識的なのか、とにかく視線を奪われてしまうのだ。誰かを好きになるってこんな感じなんだろうか。ラムネのビンのビー玉を落とした時の、あのしゅわしゅわとしたような、そんな気持ちだった。
そろそろ部活に戻ろうか、そう考えていた僕に、急に彼女が振り向いた。僕の顔が熱くなり、頬が赤くなるのが分かる。彼女はしばらく僕を見つめ、手を振ってきた。
その笑顔は、ズルい。向こうは何も感じていないんだろうけど、僕の心臓はばくばくと鳴り響く。また、時が止まったような気がした。
「ちょっと秋穂、早くおいでよー」
「あ、うん、分かった!」
彼女が部員に呼ばれて立ち去って行く。僕はホッとすると同時に、戸惑いと嬉しさを感じた。何故、彼女は僕に笑顔で手を振ってきたのか。偶然クラスメイトを見掛けたからなのか、それ以上の感情があるのかないのか。何が何だか分からない。彼女に意識されていると思って良いのだろうか。色々な考えが頭の中を駆け巡り、ぐるぐる回って、僕の一番深い所に落ちてきた。
「おい、直弥、どうしたんだ」
「えっ!?あ、ああ、すまん、ぼーっとしてた」
「お前、これから部活だってのに大丈夫か?まあ、確かにこのグラウンドで練習するのは俺もちょっと嫌 だけどさ」
「そうだな、スパイクの手入れのことを考えると、ちょっとな」
「今日は早く終わることを祈って、練習頑張ろうぜ」
ああ、という僕の声を待たずして、チームメイトが去って行く。急に声を掛けられたおかげで、現実に戻ってこられた。
果たして彼女の、三朝秋穂の歩いていく道は、僕とは違うものになるのだろうか。この思いを伝えるべきか否か。その日の部活は、頭の中はそれでいっぱいだった。
まあ、結局告白も出来なかったんですけどね、とひとりごちる。さっき冷蔵庫から取り出した野菜ジュースは、少しぬるくなっていた。
今思い出してみると、青春の一ページっぽくね、と思えるのだが、当時の自分の高校生メンタルでは、どうしようもなかった。精神的な成熟は女子の方が早い、というのは本当のことなんだと思った。
しかし、今は大学生だ。少しは僕も大人になった、と信じたい。今ならあの時の気持ちを、素直に伝えることが出来るのだろうか。
「もう、接点は無いと思ってたんだけどな」
三朝秋穂とは、高校三年生に上がる時のクラス替えで別々のクラスになってしまい、クラスメイトという最低ラインとも思える交流すら無くなってしまっていた。当然のことながら連絡先も知らず、共通の友人も居なかった。そんな状態で行動を起こせるわけもなく、そのまま高校を卒業してしまったのだ。
その後、僕はなんとか第一志望の大学に滑り込み、上京して新生活を始めた。先生たちからは良くやったと褒められ、家族からは頑張れよと励ましを受けての上京だった。友人が何人か同じ大学に合格していたので、新生活の不安はそこまで大きいものではなく、むしろそこで始まる大学生活に、大きな期待を抱いていた。
同じクラスの仲間たちや先輩、サークルやバイト、上手くいけば彼女なんてものも出来るかもしれない。新入生が大学生活で憧れるような典型例が、ずらずらと僕の頭の中に並んでいた。
新学期が始まり、同じクラスとの顔合わせと先輩のクラスとの交流会があった。僕が通う大学では、毎年こういった上下クラスの交流があり、新生活に早く慣れて貰おうという大学側の配慮が感じられた。あの講義は楽に単位が取れるだの、あの教授は厳しいだの、大学生としては普通の、僕が想像していたような話も聞けた。
コップが空いてるよ、と偶然近くに座っていた女の先輩から話しかけられた。にこにことした笑顔が可愛い人で、ふんわりとしたダークブラウンの髪とメガネが良く似合っている。その笑顔のままお茶を注いでくれた。
お互いに自己紹介をしつつ、色々な話をした。先輩は西原みやこという名前らしく、周りからはみやちゃん、と呼ばれているとのことだった。
「じゃあ、後輩からは何て呼べばいいんですか?みやさん、で良いのかな?」
「うーん、サークルに先輩にたっちゃんって呼ばれてる人がいるんだけど、その人はたっちゃんさんって 呼ばれてるよ。だから、それに倣うなら私はみやちゃんさん、になるのかなあ?」
「ちゃんなのかさんなのか分からないですね……」
「まあ、そういうものだから。ちょっと面白いよね」
にこり、という言葉がぴったり当てはまるような笑顔だった。
「藤坂くんは、入りたいサークルとかあるの?」
「そうですね、高校までサッカー部だったので、このままサッカーをやるか、折角だから違うことをやっ てみようか迷ってます」
「なるほど。他に興味がある事とかは無いの?」
「あー、運動以外だと小中の授業では音楽が好きでした。特に合唱が」
「へー。実は私、合唱サークルに入ってるんだよね。合唱に興味がある男の子って珍しいから、ちょっと 嬉しいかも!よく聞けば良いベース声してるし、是非うちの合唱団に来て欲しいな……。って、ゴメ ン、ちょっとテンション上がっちゃった。他の人とも話してみる?クラスの子とか、まだ話し切れてな いんじゃない?」
周りでは、数人が組になって大学生活のあれこれについて話し合っている姿が見てとれた。二人っきりで話しているのは、どうやら僕達だけらしかった。
「いえ、大丈夫です。興味はあるけど、あまり合唱に詳しくはないって感じなので……。大学の合唱って どういうことやるんですか?」
「んー、小中の時にやった曲よりは難しい曲をやることが多いかな。組曲っていって、同じテーマのテキ ストから四曲くらい歌を作るの。それが演奏会とかで歌われることが多いかな。あ、もちろん全部暗記 だからね?」
「結構大変なんですね」
「まあ、そのために何ヶ月もかけて演奏会に向けて練習するんだけどね。藤坂君は今まで歌ったことのあ る合唱曲では何が好きなの?」
「えっと、中学校の合唱祭で歌ったこの地球のどこかで、って曲が好きです」
「お、良いね!私もあの歌好きだよ。曲も良いけど歌詞が好きなんだー」
「分かります分かります!今聴くと、またちょっと違って聴こえるんですよね。高校生の時も結構聴いた りしてましたし、今でもちゃんと歌えますよ」
「ほう、それは見込みがあるね。本当に今度うちのサークルに来てみない?今は新歓期だから、そんなに 難しい曲を歌ってるわけじゃないしさ。大学の合唱団ってどういうものなのかってのも知って貰いたい し。どう?」
「そうですね、行ってみたいです」
「やった、新入生確保!」
おい、はえーぞ、という先輩たちの声や、藤坂くん女の人とばっかり喋ってるー、という同級生たちの声が周りから聞こえてきた。前者はまだしも後者は悪い噂になりかねないので、僕は反論をすべく、その声が聞こえてきた方へと足を向けた。