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線香花火

作者: 蒼樹 章久

ゆっくりと揺れる紐に火を点けた。

ジッという小さな音とともに紐が燃え始めた。

徐々に小さな球を作り始める。

と同時に、樹氷のような火花が小さく現れ始めた。

ぷるぷると震える球、ぱちぱちと暗闇に跳ねる火の花。

垂直に降ろした腕をじっと動かさずに、その炎を見つめる。

落ちないで、と祈りながら息を潜める。




あっという間に、自分の意思で止めることもなく、呆気なく終わった。

あれが恋だったのかどうかさえわからないまま消えてなくなった。

未練はなかった。

でも、充実感や満足感もなかった。

だからと言って、時間や空間を無駄にしたという後悔もない。

中途半端な出会いと、ほんの少しだけ一緒に過ごした時間。

恋や愛がわからない年齢でもないのに、大人のつきあいさえできなかった。

こんなことを繰り返している暇は、本当はない筈なのに、何故かもう一歩が踏み込めないでいる。

チキン?

だらしない?

それとも、

理想と現実のギャップ…?

そんなことは何年も前に卒業している。

衝動と成り行きの行動…?

そんなに若くはない。

ただ、今考えると、確かにそのときは心が淋しかった。もしかしたらぬくもりを求めていたかもしれない。

それが、ごく自然に相手に伝わっていたのかもしれなかった。




1ヶ月前、ちょうど紅葉が綺麗だと囁き始めた頃だった。

28歳も終わりかけていた秋。

大きな、とても大事に育ててきた愛を、ほんの小さなすれ違いと、それほど高くもないプライドで、失ってしまってから2年目の秋。

出会った。

仕事場だった。

どちらが先に言葉をかけたのかは、今は憶えていない。

趣味が合った、と言ったら平凡すぎる出会いかもしれないが、結局は意気投合したきっかけなんて、いつもそんなものだった。

派遣先の12歳年上の上司だった。

部署は違っていた。だから、派遣社員になってから2年経ったけど、彼と出会ったのは1ヶ月前だった。

大きなプロジェクトのリーダーで、そのプロジェクトのメンバーに自分が選ばれて一緒に仕事をすることになったのが出会いだった。

アパレルメーカーに勤めた経験のある私が、感心できるようなスーツを着こなしていた彼に、少なからず興味を覚えたことは確かだった。

仕事もできる人だった。周囲からの信頼も厚かったと思う。

彼は40歳、でも不倫ではなかった。

彼は、かつてパートナーと呼べる女性の存在もあったらしいが、今はいないと言った。

もてないはずはなかった。でも、身近に女性の存在を窺い知ることができなかった。だからこそ安心して惹かれていったのかもしれなかった。

映画の好きな人だった。

出社したときに優しく包むような笑顔、仕事の合間に交わす映画やお酒の話、帰り際に温かく送り出すねぎらいの言葉。

そのひとつひとつが、あたしの冷めた心に暖かい風を送り込んだ。

でも、彼が話しかけてこなければ、きっと恋は始まらなかっただろうと思う。

自分が慎重だったワケじゃない。

自分など相手にしてくれないだろうという諦めの方が先にくるような相手だったからだ。




「今週末からキミが観たいって言ってた映画が上映されるよ。招待券が二枚あるんだけど、一緒に行かない?」

少し躊躇ってから、あたしは強く頷いたと思う。

でも、本当は躊躇いなんてなかった。

この言葉を、実は待っていたのかもしれなかった。

28歳のプライド? いや、数年間恋をしていなかったことへのひねくれた僻みだったのかも。

それに、映画なんて、実はどうでもよかったのかもしれない。

同じ時間を過ごしたかった。

自分を必要としてくれる男性がいることを肌で感じたかった。

周りと同じように、「今日はちょっと彼と・・・」って誇らしげに笑いたかったのかもしれない。

いつも一緒にいて、ほろ酔い気分で彼の奏でる甘いセリフに包まれて、心と体の隙間を埋めてほしかったのかもしれなかった。

期待と不安…?

そんな余裕などなかった。

とにかく、日常の孤独感をなくして、守られているという安心感がほしかったのだろうと思う。




その日は、久しぶりに下着を選ぶのに20分もかかった。

ルージュの色に悩んでいた。

香水がいつもより少なめだった。

姿見の前で、何度も洋服を替えていた。

自分の体型を見て、なんでエステに通っていなかったのかと後悔した。

腰の縊れに不満を抱いた。

胸の谷間が不愉快だった。

気付いたら頬が火照っていた。

心臓が、何年も前に経験したときのように高鳴っていた。

あたしは、確かにそのときは女だった。

ひとりの、恋をしようとしている少女のような女だった。

そして、もしかしたら大胆に男を悦ばせる妖艶さを醸し出していたかもしれない。

夜のことを考えて体が疼いていたことも確かだった。

久しぶり・・・

忘れかけていた人並みにある性欲を、思い出して自分のいやらしさに顔をしかめた。

最初のデートで・・・・?

恥ずかしがるような余裕などなかった。

ウブなフリをする、そんな年でもない。

だからって、決して軽いワケじゃない。

誰とでも寝るわけじゃないし、堅いほうだと思っている。

今回は、焦りもあるけど、逃したくない恋でもある。

だから許す。

自分の目を信じる。




待ち合わせより20分も早く着いた。

センスのよいジャケットを着た彼と、並んで映画館に入ったときには、もう何年も前からつきあっているんじゃないかと錯覚するほど、彼は自然体だった。

映画の内容なんて、あんまり覚えていなかった。

映画が終わったあとのエスコートも申し分なかった。

レストランは、そのあとのふたりの気持ちを悟っているようなエレガントな内装だった。

食事をしながら彼の誘いを待った。

東京でも夜景スポットとして有名なシティホテルのレストランだった。

この建物の何階かで夜景に包まれながら、女であったことの認識と、男の逞しさと優しさを数時間後には味わうのだと確信していた。

赤ワインが体中を刺激して、まるで生命を吹き込まれて蘇った不死鳥のように、心が舞い上がっていくのを感じていた。

彼は、ほんの数時間前に観た映画の話に夢中だった。

きっと誘いの言葉を吐くタイミングを測っているのだろうと思った。

「今日は帰さないよ」

耳元で囁かれたような気がして、はっと彼を見ると彼は自慢の赤ワインを目の前でゆっくり廻して満足そうに頷いているだけだった。

あれ・・・

誘う気があるのだろうか…

まさか、映画が観たかっただけ?

いや、絶対に誘ってくるはず。だって、彼のあたしを見る目は女を意識していた目だったから。

あたしは内心焦りを感じていたかもしれない。

何を焦っているの…男はみんな同じよ、きっと今に誘ってくる。

あたしはそのとき困った顔をして、でも焦らすような真似はしない。

だって、ガキのような態度は卒業したのだから。

男はそのつもりで誘い、女は暗黙のうちに承諾してついてきている。

それが大人なんだから。




あっという間に、地面に落ちて消えていった。

暗闇が自分の全身を包んでいった。

孤独感と寂しさが再び自分に襲い掛かる。

記憶の中に、今の今まで光っていた炎の結晶が、走馬灯のように蘇る。

ほんの少しだけ輝いて、自己主張してから、観ている人たちに少しの感動と満足を与えて消えていった。

「弥生、終わったわよ」

「えっ…?」

あたしは、はっとして手にもっている線香花火の細い紐を見つめた。

「線香花火って綺麗だけど呆気ないわね」

友人の景子が昼間コンビニで買った花火の入った袋の中を漁りながら呟いていた。

「だから綺麗なのかも…」

あたしは小さく呟くように言った。

景子が動きを止めて、じっとこちらを見つめた。

「何かあったの?」

「別に…」

ちょっと自分に自信をなくしただけ。

いつものことだ。

ちょっと暴走してしまっただけ。

後悔してない。

ちょっと未来に希望が見えなくなっただけ。

そのうちにまた見えてくるかも。




結局、あの日は、22時を過ぎた頃彼に促されて帰路についた。

彼はあたしを誘わなかった。

その気配さえ窺うことができなかった。

映画の満足感と料理の満腹感で、彼は満たされた表情をしていた。

彼は別れ際にあたしに言った。

「今度のプロジェクトは私の今後の将来に大きな影響を及ぼすと思うんだ。絶対に失敗できない。そのメンバーの一人として、キミには今以上に頑張って貰わなきゃならない。だから今夜誘った。また、明日から一緒に頑張ろう。明日は、キミの後輩の山岸さんを誘ってるんだ。彼女はフランス料理が好きらしいから、美味しいお店を見つけておかなきゃな」

30分も下着に悩んだ自分がばかに見えた。

火照っていた体は、赤ワインの所為に過ぎないことを知った。

自分が女であることを忘れる一瞬だった。

いや、あの時は自分が冷静でなかっただけだ。安売りをしなかった自分を褒めるべきだろう、と自分を慰めた。

悔し涙は見せたくなかった。

別に、彼に抱かれたかったわけじゃない。

言い訳じみたセリフが、脳裏をぐるぐる駆け回っていて、眩暈さえ覚えた。

彼を愛していたわけじゃないから。

そう思うと気が楽になった。

恋は求められて受け入れるものじゃなく、自分から求めなければいけない。

冷めた心に自分から火を点けられれば、きっと自分から相手の胸の中に飛び込んでいけるだろう。

映画なんかに誘われなくても、下着の種類やルージュの色に悩まなくても、きっと自分から心を開くだろう。

恋は線香花火じゃないのだから。




「もう一回これをやるわ」

あたしは、もう一度線香花火を手に持って、じっと見つめる景子に微笑んだ。

今度こそ、今度こそ、長く、すっごく長くもたせてやるから

あたしは、線香花火の束から、長持ちしそうな1本を抜いて、火を点けた。


                                   終


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