浮気相手に「赤ちゃんができた」と言われたので、腹パンしました。これでもういませんね。
それは、アカデミーの卒業パーティーでのことだった。
「ヒルダ、今日はこのベルマン男爵令嬢と踊ろうと思う」
眩しいくらいに輝くシャンデリアの下で、黒髪の貴公子が静かに告げる。
その傍らには、ほくそ笑みながら抱きつくブルネットの令嬢。
告げられたヒルダは、ラベンダーの髪一本すら微動だにしなかった。
「どうして?」
見守る聴衆は静まり返り、ヒルダの透き通る声だけが響く。
彼女の周囲にいた友人たちは、木とそれに付く蛹のような二人に、冷たい視線を向けた。
「フリード様の赤ちゃんができたんです……」
フリード本人が何かを言おうとすると、抱きついた令嬢が差し迫ったかのように叫ぶ。
これには静寂が打ち消され、会場は二百人あまりの声でごった返す。
当のフリードは目を丸くして、その令嬢を見下ろしていた。
彼を守るかのように囲う友人たちも、何やら慌てている様子だ。
「最低……」
そんな声が次々と出る中で、ヒルダはゆっくりと二人に歩み寄る。
彼女を気の毒がる人、この先の修羅場を楽しむ人に二分されていた。
「クリスタ・ベルマン男爵令嬢……やっていいことと、悪いことがあるわ」
その時だった――ヒルダが目にもとまらぬ速さで、拳を令嬢の腹を目掛けてぶつけたのだ。
抱きついていた令嬢は吹き飛ばされ、そのまま背中を柱に激突させてしまう。
これにはさすがに周囲も慌て、クリスタを支えていた。
ヒルダは警備によって取り押さえられるが、それ以上は動こうとしない。
「これでもういませんね、赤ちゃんは」
ただ淡々と喋るだけのヒルダに、会場の者たちは震え上がる。
彼女を捕らえた警備ですら、腹の底を冷やしていた。
だからと言って、フリードたちが冷めた目で見られることには変わらない。
「ち、違うんです……」
「そうです、これには理由が……!」
フリードやその友人たちは、何やら弁明しようとする。
彼らは痛みで泣き叫ぶクリスタに目も向けず、冷や汗をかいていた。
おとなしく連行されるヒルダは、そんな男たちを一瞥し、会場を立ち去っていく――。
✽
ヒルダ・フォン・ローゼンフェルト侯爵令嬢は、いつも学年トップの成績を収めていた。
美しい容姿に、人形のようだとも呼べる気品。
それに東方の武道まで極めている、文武両道な淑女だ。
どう見ても完璧だが、婚約者であるフリードは愛されている気がしなかった。
「フリード、お前は卒業したらローゼンフェルト家に婿入りするんだろ?」
「いいよな、あのヒルダ嬢の婿だなんて」
「ヒルダ嬢、王家からの縁談もあったそうじゃないか」
卒業パーティーの数日前、アカデミーの中庭にて、友人たちはからかうように言った。
ヒルダと言えば、男たちからの憧れだ。
だが、当のフリードはいまいち話に乗れない。
「だけど、あいつは俺のことなんか別に好きじゃないんだぜ。家同士の結婚だから、仕方ないんだろ」
そんな諦観から、ため息をついてベンチに腰かけていた。
彼らの話を近くで聞いていたのか、そこにクリスタ・ベルマンが駆け寄ってくる。
「あの、それなら私がいいことを提案します!」
その提案こそが、ヒルダを試すためにクリスタと踊ると申し出ることだった。
もちろん、フリードにその気はない。
後で冗談だと言って、彼女が一杯食わされたと悔しがる顔を見たかっただけなのに――。
✽
(どうしてこんなことに……)
パーティーの数日後――友人たちとの悪ノリで大惨事を招いてしまったフリードは、馬車の中でソファで項垂れていた。
どうやらクリスタはフリードを狙っていて、嘘をついてヒルダから奪うつもりだったらしい。
完全に脇が甘かった。
不意をつかれてすぐに否定できず、ヒルダを混乱させてしまったのだ。
クリスタの嘘はすぐにバレて、ヒルダは普段の品行方正さから、冷静さを欠いていたのだと判断された。
侯爵家の力もあるのだろうが、強烈な一撃をお見舞いしても、ヒルダ側にほとんどお咎めはない。
逆に今、社交界ではフリードが針のむしろだった。
「お前、何と馬鹿なことを!」
「この結婚が駄目になったら、我がヴァイセン伯爵家は大変なことになるのですよ!」
「土下座して謝り続けろ!」
両親に、家督を継ぐ予定の兄までもが、馬車の中でフリードを責め立てる。
今からローゼンフェルト家に向かい、一家総出で頭を下げるのだ。
やがて馬車は侯爵家に着く。
伯爵一家は使用人たちに案内されて行った。
応接室には侯爵と夫人、それにヒルダが先に座って待っている。
中に入るなり、伯爵一家は頭を下げた。
「この度は本当に、申し訳ございません……!」
普段は威厳がある父親が必死に頭を下げる姿に、フリードはいよいよ自分ごととなってくる。
手の汗がじわりと滲み、何をせずとも脚が震えた。
「顔を上げてください。フリード令息が娘を傷付けたと聞いて、とても不愉快な思いをしました」
そう言われて、伯爵一家は恐る恐る顔を上げる。
娘と同じ髪の色をした侯爵は若々しく、けれどもそこにいるだけで威圧するような空気を纏っていた。
会うたびに萎縮していたフリードだが、今回ばかりは一瞥されるだけで動けなくなるほどに。
「しかしながら、娘は此度のことを許すと申しています」
てっきり切られるかと思っていた伯爵一家は、そう聞いて少し緊張の糸を緩める。
侯爵の隣にいるヒルダを、救いの女神のように皆が見た。
「私、フリードを許します。その代わり……すぐに婿入りすることが条件ですわ」
いつもどおりの朗らかな笑顔で、ヒルダは言った。
「そんなことでよければ……荷物は後日送らせ、お望みならばヒルダ嬢のもとに置いて帰ります! 何なりと、どんな仕事でもさせてください!」
伯爵は呆然とするフリードの頭を押さえて下げさせ、一緒に何度も頭を下げる。
(え、許された……?)
混乱するフリードを差し置いて、話が大人たちの間で進んでいく。
それから伯爵一家はフリードを置いて去り、最後は侯爵とも和解したようであった。
部屋にはヒルダと二人で残され、気まずい空気が流れる。
「その……悪かった。あれは嘘で……」
「知ってた」
分かっているだろうが、改めて弁明しようとする。
それを遮るように、ヒルダはじっとフリードを見た。
「ベルマン男爵令嬢は嘘つきで有名だから。他の子の婚約者にも色目を使ってたの」
フリードはあの日まで、彼女のことをさほど知らなかったのだが――令嬢同士の情報網では、共有されたことだったのだろう。
本当に、どうしてあんな軽はずみなことをしたのだろうか。
フリードは本気で、過去の自分の浅慮を呪った。
「ごめん……」
ただ、目の前の人が縋ってくれたら。
そんな気持ちだっただけなのだが、言い訳にすらならない。
「私、もし本当に彼女が妊娠してても、殴ってたかも」
「え、何で?」
「貴方に付く虫は、排除したいから……たとえ赤子でも」
急な告白に、頭が追いつかないフリード。
ほんの少しだけ、ヒルダの白い肌が色づいていた。
「お前、俺のこと……」
それを認識すると、フリード自身も顔が熱くなってくる。
「うん。だからね……ずっと、私のところにいて」
微笑みをこぼしたかと思うと、ヒルダはフリードの頬に触れた。
婚約者同士でも、これまでそんな触れ合いはしたことがない。
心臓の音が、妙に煩かった。
普通に考えたら恐ろしいはずだ。
でも、逃げたいどころか、捕らわれることすら快く思えてしまう。
「うん……」
それに答えた瞬間、彼は好きな人の奴隷になった。
ローゼンフェルト侯爵の夫は、彼女の忠犬のようだと――社交界で噂になるまで、あと十年ほど。




