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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

浮気相手に「赤ちゃんができた」と言われたので、腹パンしました。これでもういませんね。

作者: 豊平ののか
掲載日:2026/10/11

 それは、アカデミーの卒業パーティーでのことだった。


「ヒルダ、今日はこのベルマン男爵令嬢と踊ろうと思う」


 眩しいくらいに輝くシャンデリアの下で、黒髪の貴公子が静かに告げる。

 その傍らには、ほくそ笑みながら抱きつくブルネットの令嬢。

 告げられたヒルダは、ラベンダーの髪一本すら微動だにしなかった。


「どうして?」


 見守る聴衆は静まり返り、ヒルダの透き通る声だけが響く。

 彼女の周囲にいた友人たちは、木とそれに付く蛹のような二人に、冷たい視線を向けた。


「フリード様の赤ちゃんができたんです……」


 フリード本人が何かを言おうとすると、抱きついた令嬢が差し迫ったかのように叫ぶ。

 これには静寂が打ち消され、会場は二百人あまりの声でごった返す。

 当のフリードは目を丸くして、その令嬢を見下ろしていた。

 彼を守るかのように囲う友人たちも、何やら慌てている様子だ。


「最低……」


 そんな声が次々と出る中で、ヒルダはゆっくりと二人に歩み寄る。

 彼女を気の毒がる人、この先の修羅場を楽しむ人に二分されていた。


「クリスタ・ベルマン男爵令嬢……やっていいことと、悪いことがあるわ」


 その時だった――ヒルダが目にもとまらぬ速さで、拳を令嬢の腹を目掛けてぶつけたのだ。

 抱きついていた令嬢は吹き飛ばされ、そのまま背中を柱に激突させてしまう。


 これにはさすがに周囲も慌て、クリスタを支えていた。

 ヒルダは警備によって取り押さえられるが、それ以上は動こうとしない。


「これでもういませんね、赤ちゃんは」


 ただ淡々と喋るだけのヒルダに、会場の者たちは震え上がる。

 彼女を捕らえた警備ですら、腹の底を冷やしていた。


 だからと言って、フリードたちが冷めた目で見られることには変わらない。


「ち、違うんです……」


「そうです、これには理由が……!」


 フリードやその友人たちは、何やら弁明しようとする。

 彼らは痛みで泣き叫ぶクリスタに目も向けず、冷や汗をかいていた。


 おとなしく連行されるヒルダは、そんな男たちを一瞥し、会場を立ち去っていく――。



 ✽



 ヒルダ・フォン・ローゼンフェルト侯爵令嬢は、いつも学年トップの成績を収めていた。

 美しい容姿に、人形のようだとも呼べる気品。

 それに東方の武道まで極めている、文武両道な淑女だ。

 どう見ても完璧だが、婚約者であるフリードは愛されている気がしなかった。


「フリード、お前は卒業したらローゼンフェルト家に婿入りするんだろ?」


「いいよな、あのヒルダ嬢の婿だなんて」


「ヒルダ嬢、王家からの縁談もあったそうじゃないか」


 卒業パーティーの数日前、アカデミーの中庭にて、友人たちはからかうように言った。

 ヒルダと言えば、男たちからの憧れだ。

 だが、当のフリードはいまいち話に乗れない。


「だけど、あいつは俺のことなんか別に好きじゃないんだぜ。家同士の結婚だから、仕方ないんだろ」


 そんな諦観から、ため息をついてベンチに腰かけていた。


 彼らの話を近くで聞いていたのか、そこにクリスタ・ベルマンが駆け寄ってくる。


「あの、それなら私がいいことを提案します!」


 その提案こそが、ヒルダを試すためにクリスタと踊ると申し出ることだった。


 もちろん、フリードにその気はない。

 後で冗談だと言って、彼女が一杯食わされたと悔しがる顔を見たかっただけなのに――。



 ✽



(どうしてこんなことに……)


 パーティーの数日後――友人たちとの悪ノリで大惨事を招いてしまったフリードは、馬車の中でソファで項垂れていた。


 どうやらクリスタはフリードを狙っていて、嘘をついてヒルダから奪うつもりだったらしい。

 完全に脇が甘かった。

 不意をつかれてすぐに否定できず、ヒルダを混乱させてしまったのだ。


 クリスタの嘘はすぐにバレて、ヒルダは普段の品行方正さから、冷静さを欠いていたのだと判断された。

 侯爵家の力もあるのだろうが、強烈な一撃をお見舞いしても、ヒルダ側にほとんどお咎めはない。

 逆に今、社交界ではフリードが針のむしろだった。


「お前、何と馬鹿なことを!」


「この結婚が駄目になったら、我がヴァイセン伯爵家は大変なことになるのですよ!」


「土下座して謝り続けろ!」


 両親に、家督を継ぐ予定の兄までもが、馬車の中でフリードを責め立てる。

 今からローゼンフェルト家に向かい、一家総出で頭を下げるのだ。


 やがて馬車は侯爵家に着く。

 伯爵一家は使用人たちに案内されて行った。


 応接室には侯爵と夫人、それにヒルダが先に座って待っている。

 中に入るなり、伯爵一家は頭を下げた。


「この度は本当に、申し訳ございません……!」


 普段は威厳がある父親が必死に頭を下げる姿に、フリードはいよいよ自分ごととなってくる。

 手の汗がじわりと滲み、何をせずとも脚が震えた。


「顔を上げてください。フリード令息が娘を傷付けたと聞いて、とても不愉快な思いをしました」


 そう言われて、伯爵一家は恐る恐る顔を上げる。

 娘と同じ髪の色をした侯爵は若々しく、けれどもそこにいるだけで威圧するような空気を纏っていた。

 会うたびに萎縮していたフリードだが、今回ばかりは一瞥されるだけで動けなくなるほどに。


「しかしながら、娘は此度のことを許すと申しています」


 てっきり切られるかと思っていた伯爵一家は、そう聞いて少し緊張の糸を緩める。

 侯爵の隣にいるヒルダを、救いの女神のように皆が見た。


「私、フリードを許します。その代わり……すぐに婿入りすることが条件ですわ」


 いつもどおりの朗らかな笑顔で、ヒルダは言った。


「そんなことでよければ……荷物は後日送らせ、お望みならばヒルダ嬢のもとに置いて帰ります! 何なりと、どんな仕事でもさせてください!」


 伯爵は呆然とするフリードの頭を押さえて下げさせ、一緒に何度も頭を下げる。


(え、許された……?)


 混乱するフリードを差し置いて、話が大人たちの間で進んでいく。

 それから伯爵一家はフリードを置いて去り、最後は侯爵とも和解したようであった。


 部屋にはヒルダと二人で残され、気まずい空気が流れる。


「その……悪かった。あれは嘘で……」


「知ってた」


 分かっているだろうが、改めて弁明しようとする。

 それを遮るように、ヒルダはじっとフリードを見た。


「ベルマン男爵令嬢は嘘つきで有名だから。他の子の婚約者にも色目を使ってたの」


 フリードはあの日まで、彼女のことをさほど知らなかったのだが――令嬢同士の情報網では、共有されたことだったのだろう。

 本当に、どうしてあんな軽はずみなことをしたのだろうか。

 フリードは本気で、過去の自分の浅慮を呪った。


「ごめん……」


 ただ、目の前の人が縋ってくれたら。

 そんな気持ちだっただけなのだが、言い訳にすらならない。


「私、もし本当に彼女が妊娠してても、殴ってたかも」


「え、何で?」


「貴方に付く虫は、排除したいから……たとえ赤子でも」


 急な告白に、頭が追いつかないフリード。

 ほんの少しだけ、ヒルダの白い肌が色づいていた。


「お前、俺のこと……」


 それを認識すると、フリード自身も顔が熱くなってくる。


「うん。だからね……ずっと、私のところにいて」


 微笑みをこぼしたかと思うと、ヒルダはフリードの頬に触れた。

 婚約者同士でも、これまでそんな触れ合いはしたことがない。

 心臓の音が、妙に煩かった。


 普通に考えたら恐ろしいはずだ。

 でも、逃げたいどころか、捕らわれることすら快く思えてしまう。


「うん……」


 それに答えた瞬間、彼は好きな人の奴隷になった。



 ローゼンフェルト侯爵の夫は、彼女の忠犬のようだと――社交界で噂になるまで、あと十年ほど。

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