↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

さくっと読めるお話たち

ヘンリカはなにも知らない

作者: 藤沢みや
掲載日:2026/08/30


 ヘンリカは、暗くて狭くて臭い部屋の中で目を閉じた。

 夜も一人。

 朝も一人。

 昼間に外に出ると、ちょっとだけ人と関わることがあった。それだけ。






 ◇


 ヘンリカは家族や周囲に恵まれなかった。

 産まれてすぐに産褥さんじょくで亡くなった母。

 母が死んだのはお前のせいだと、理不尽に憎悪の感情を向けてくる父や兄。

 離れに追い遣られた幼子を、死んでしまっては自分たちのせいにされるかもしれないという恐怖故に、最低限のえさを与えた使用人達。



 餌を与えられ、離れという立派な飼育小屋に放置された娘。

 そんな娘が、立派に育つわけがない。



 けれどなにも知らない下働きの娘が、庭で蟻を見ていたヘンリカをサボっている下働きと勘違いして奥向きに連れ出した。ヘンリカが八歳の頃だ。

 なにも情報を与えられていない下働き達は、ご主人様の娘とは考えもせず、下働きの縁故えんこ……老齢で亡くなった庭師や猟師の娘か孫娘と勘違いをして「最低限は働け」と労働を強いてきた。



 知識もなにもないヘンリカは頷くことしかできない。

 単純作業をこなし、大きくて立派な小屋に戻って届けられている食事を取り、取り替えられることもない寝具で眠り、また単純作業をこなす。

 そんな日々が、続いて……


「ねえ……あんたって、あの離れに住んでいるの?」


 ようやく、この質問をしてくる者がいた。

 けれど、ヘンリカは理解していない。

 なにも説明されず、なにも与えられず、なにも知らず、なにも見ないまま、たった一人で放置された娘は、もちろんなにも知らないのだ。

「あそこに、いなくちゃいけない、みたい」

「みたい?」

 通いの下働きはヘンリカの言葉尻に眉をひそめた。

「……よく、わからない」

 離れの一階に寝具を置かれ、小さい頃は食事の介助もあったが、食べられるようになってからは置かれるだけ。

 離れの使用人入り口に一番近くて……小さな部屋がヘンリカの領域。

「ふーん。親切なお貴族さまだと、家に貢献こうけんした身寄りのない使用人を最期さいごまでいさせてくれるって聞いたことがあるけれど、そんな感じなのかな?」

 聞かれてもヘンリカにはわからない。

 自我が芽生えた頃には壁に囲まれた生活。

 朝と夕に届けられる食事。

 食べ方がわからない幼い頃は、届けに来た綺麗な白と黒のドレスを着た女性が介助や教えたりしてくれたが、嫌いなものがあって吐き出したら頬を張られた。

 食事は恐怖でしかなく、見様見真似でなんとか細長いものを使って食べられるようになるまで、怖くて仕方がなかった。

 いつの日か、離れの使用人入り口に背の低いテーブルが置かれ、食事は置かれるだけになった。時折、擦れ違うことがあっても、声掛けなどは一切なく、ただ擦れ違うだけ。

 白と黒のドレスの人か、白と黒のお仕着せの人か……足早に持ってきて、足早に持って帰る、誰か。

 鶏小屋の世話をして、初めてあれが『餌』で自分が『家畜かちく』だと知った。

 ヘンリカは会話がわからないので、聞くことしかできない。

 うんうんと興味を持って聞いていると、気分がいいのか下働きの人達はちょこちょこと説明もしてくれるようになった。


 八歳。草むしり。鶏小屋の世話。

 九歳。草むしり。鶏小屋の世話。豚小屋の世話。水汲み。小枝拾い。

 年齢と共に徐々に雑務を覚え……いつの間にか、ヘンリカは立派な下働きになっていた。

 何年経っているかはわからない。

 季節が巡って年を越えても、仕事はほぼ変わらない。

 もちろん、誰も誕生日なんて祝わないし、誕生日がいつかも知らない。第一、平民は誕生日は個別では祝わず、新年にお祝いをするが、下働きの者達はそんなこともしないので、人数が減る日があるだけだ。

 こつこつと指示された仕事をこなす日々。

 ヘンリカは、住む部屋の位置が少し変なだけの下働きの少女になった。

 ただ、呼ばれたことのないヘンリカは自分の名前が『ヘンリカ』だとは知らない。


 貴族が暮らす家は、住んでいるのは貴族だけではない。当たり前だが、従僕や侍女、使用人や下働き、様々な人が住んでいる。


 自分以外の人には、家族という人がいるらしい。


 人によって違うが、父、母、兄、姉、弟、妹……家族は一緒に食事をして、いろいろな話しをするらしい。

 ただ、ヘンリカと同じように、一人な子もいるという。

 そういう子は『孤児』と言うそうだ。

 一般的には孤児院というところに行って面倒を見てもらうそうだが、周囲の下働きの人は「食事がもらえるならそのままの方がいい」と、ここにいることを勧めてきた。

 孤児院という場所は同じような年齢の子がたくさんいて、ヘンリカのような頭の弱い子は『さくしゅ』というものをされてしまうらしい。


 難しくて、覚えられない。


 ある日、離れのテーブルに食事が置かれなかった。

 ヘンリカは瞬く。

 たまたまだろうか?


 だが、次の日も、その次の日も……食事は置かれなかった。

 お腹が空いた。


 ヘンリカは、鶏小屋と豚小屋で働く下働きをとりまとめている老爺に事実を伝えた。

「ごはんがないの」

「……食事が」

「……」

 考え込む老爺にヘンリカはまた瞬く。

「お嬢……さんは……若いから、腹が減ると、困るな」

「困る……鶏や豚みたいに、白と黒の人達の前で暴れた方がいいの?」

「うーん……鶏や豚は、結局は食べられるからな……」

 老爺は腕を組む。

「シモン爺、悩む必要ないわよ。あんた、こっちの部屋に来なさいよ。ちょうどウッラが辞めて、部屋が空いているの。離れからこっちに来る時間ももったいないし、こっちのがあったかいご飯、食べられるよ」

「あったかい……?」

 今まで、冷えたご飯しか食べたことのないヘンリカは首を傾げる。

 声を掛けてきた恰幅のいい女性は笑って尋ねてきた。三つ前の季節から働き始めた女性だ。声が大きいので覚えていた。

「あんた、名前は?」

 ヘンリカは瞬く。

「……名前?」

 呼ばれる時は「おい」「あんた」「ちょっと」「ねえ」「ほら」などだった。鶏や豚にも名前は付いていない。

「あんた」

 声を掛けてきた女は瞬いて、「アンナね! 可愛い名前じゃない。あたしはベアタよ」と笑った。

 その日、ヘンリカはアンナになった。

 シモン爺は瞼を閉じて、「わしは見なかった、聞いていない」と小さく小さく呟いた。




 ベアタは、アンナと離れに赴くと、必要なものを持ってくるように指示をした。

 屋敷から持ってこられるのは食事のみ。

 衣服は下働きのお仕着せを着ていたし、身だしなみに使う櫛などは置いてあったものを使っていた。

 使用人用の入り口から入り、ある扉に鍵が掛けてあるのを知ってベアタは首を傾げた。

「たぶん、この奥がご主人様達の領域ね」

「ごしゅじんさま」

「ここからけっこう歩いたところにある、大屋敷に住んでいるのよ」

「旦那様と若様がいるのよ。あんたも、いつか旦那様と若様に会うかもしれないけど、あたし達みたいな下働きはどんなことで殺されるかわかんないんだから、とにかく近付かないように気をつけるのよ。もし遭遇したら膝をついて頭を下げ続けるの。絶対に顔を上げていいって言われるまで、そのままよ」

 難しい言葉が多くてぐるぐるしていると、ベアタはその場で跪いて、頭の下げ方をアンナに教えた。

 アンナも真似をする。

 ぐらぐらして倒れそうになるところを、ベアタが支えてくれた。

「ありがと」

「どういたしまして。さあ、さっさと荷物持って移動しましょ」

 ベアタは自分の鞄を開いてアンナに指示をする。こういう持ち運ぶ箱のことを『鞄』という。初めて知った。便利だ。

「あんた、本当になんにも持ってないのね」

「うん」

「あんた、何歳?」

「何歳?」

 首を傾げる。

「あんた、ほっそいからね……十歳くらいかな?」

「……たぶん?」

「ははっ! じゃあ、十歳だね。あたしが三十歳だから、二十歳差か……あたしの子が生きていたら、あんたくらいだね」

「ベアタさんの、子?」

 一度、そのままベアタと呼んだら、怒鳴られた。

 相手が年上だったり、継ぎ当てのない服を着ていたら『さん』か『様』を付けろと。

「そうだよ。まあ、あんたみたいな綺麗な子が下町にいたらいろいろ問題が起こるだろうから、ここに産まれてよかったよ」

 頭を撫でられて、アンナは瞬く。

「そう?」

「そうだよ。下町で生きるなら、あんたみたいに綺麗な子は危ないからね」

「危ない?」

「そうだよ、危ないよ。あんたも十歳だから、そろそろいろんな知識仕入れておきな。屑に捕まった後じゃ遅いからね」

 からからと、訳のわからないことを言ってベアタが明るく笑った。






 ベアタが死んだ。






 アンナは瞬く。

 死んだ。

 死んだって、なに?


 目の前で気弱そうなシモン爺が帽子をくしゃくしゃにして、下働きのみんなに告げる。

 みんなの会話を繋げると、死ぬと教会ってところにみんなが集まって、動かなくなった死んだ人を土の下に埋めるらしい。ベアタの場合は、もう土に埋めるのは終わっているそうだ。

 人間が入るくらいの穴を掘るのは大変だ。

 アンナだったら、そんな作業を指示されたら……一ヶ月かかっても終わらないかもしれない。

「アンナ……ちょっとおいで」

 シモン爺に招かれて、部屋に入る。

 そこには、白と黒の服を着た人もいた。

「アンナ、そこにお掛け」

 アンナが座った後に、シモン爺がその隣に腰掛けた。

 目の前の白と黒の服の人は、ポケットから手帳を取り出す。

「ヘンリカ様」

 アンナは瞬いて周囲を見る。

 アンナ以外にも誰か呼ばれたのだろうか。

 キョロキョロしてからシモン爺を見上げる。

 シモン爺はアンナを見て眉をへにょんとさせた。

「……失礼。アンナくん、初めまして。私は執事長……この家を取り仕切る者だ。名前をトールヴァルドという」

「アンナです。初めまして」

 ベアタが煩かったので、この名乗りは覚えた。

「あなたは、亡くなったベアタに執拗に家に遊びに来るように誘われていたようですが、断り続けていた。なぜですか?」

 アンナは瞬く。

「なくなった? しつよう?」

 そして首を傾げた。

「……奥様」

 執事長の呟きは意味がわからずに困っているアンナの耳には届かなかったが、シモン爺の耳には届いていた。

「アンナ。死んだベアタが、お前さんを家に遊びに来いと誘っていただろう?」

「うん」

「どうして行かんかったのじゃ? と、執事長様は聞きたいんじゃ」

 ぱちぱちと瞬いて、アンナは傾げていた首を戻した。

「小さな頃、ここから出たら駄目って、いろいろな人が言っていたの。ここって言うのは、塀の中のことでしょう?」

「そうじゃな……」

 きっと、その『いろいろな人』が言っていたのは離れの屋敷の中のことだろうが……シモン爺は無言のまま顔をしかめた。

「ベアタさんは、塀の外に行こうって言うから駄目って言ったの」

「そうか、約束を守れて、いい子じゃな」

 シモン爺が痛ましそうに笑う。

 その後、いくつか執事長に聞かれたが、いつの間にかアンナはシモン爺にもたれて眠ってしまっていた。






 ◆


「ベアタが……」

 話を聞いたシモンは、天井を見上げて目を閉じた。

「ええ。ウッラも彼女に誘われて塀の外に出たところ……たちの悪い男にさらわれて、貴族の慰み者になった上で死んだそうです」

「ここは……外の世界を知らない子供がいるからな……」

 世間を知らない子供を甘い言葉で惑わして、堀の外に出掛けさせる。

 ベアタはその情報を、子供を虐げたい者や売りたい者に告げる。

 ――― 自分のところに産まれてこない子供など、どうなっても知らないと。

 捕らえられた子供が、売り飛ばされた子供が、虐げられた……乱暴され、子宮だけでなく排泄器官すら壊された子供がどうなるか……それは、哀れな死以外は……ほとんどない。生きていても辛いだけ。

 ベアタは町の処刑場で鞭打むちうちの後にさらされ、子供を亡くした親や、憂さ晴らしをしたい住民から暴行を受け死んだという。

 この屋敷の住人であるソレンソン伯爵は、改めて使用人の見直しを最近執事長になったトールヴァルドに命じた。トールヴァルドは前の前の執事長の子供で、家自体がソレンソン伯爵家に仕える一族だったため、若年でも執事長に指名されたのだ。

 伯爵は、命じた後はそれで解決したと考えてすぐに王都に戻った。息子と共に。

「伯爵様の中で……ヘンリカ様は、いないことになっておるのじゃな」

「……思い出しも、されませんね」

 使用人達にも入れ替わりがある。

 アンナ……ヘンリカの食事がなくなったことで、前執事長の不正がわかり、まだ二十五歳のトールヴァルドが執事長にいったんは就任した。

 トールヴァルドはソレンソン伯爵家の寄親の侯爵家で研鑽を積んでいたところを呼び戻されたのだ。


 十歳の時の初恋……初恋程大きな感情ではないかもしれないが、遠目で見て憧れた奥様がいた。それがヘンリカの母である。

 奥様が産褥で亡くなった時は、仕えていた侯爵家の若様が他国にいたため葬儀には参列できず、今回の不正で呼び戻されて初めて……奥様が命懸けで産んだ娘が、蔑ろにされていることを知った。

 無知とは罪だ。


「なにも知らなかったヘンリカ様はベアタの口車に乗りさらわれた。……アンナは、あなたの孫ということで、いいですね」

「ああ……アンナもそろそろ十六歳。女の子なら、そろそろ嫁いでもおかしくない年齢じゃ。孫を、頼むぞ」

「ええ、勿論です」






 ◇


 アンナは口をぽかんと開けて、周囲を見た。

 トールヴァルドが住む家は、塀の中の一軒家。他にも小さな家がいくつかと、やや大きな建物が建っている。使用人達が住む場所だ。

 話しに聞いた、町? に似ているらしい。

 玄関に入ると、いろいろと植物や動物が掘られている壁に柱。

 真っ赤な絨毯。

 踏んでいいの?

「アンナ……まずは、応接室に行きますよ」

 トールヴァルドに呼ばれて、そのままちょこちょこと付いていく。

 ふかふかのソファに隣り合って座る。

 白と黒の服を着た女性が、真っ白でくねくねと装飾が施されたカップや皿を持ってきた。黙って見守る。

 お茶とお菓子が載っている。

 初めて見た。

「まずは、お帰りなさい。アンナ」

「……ただいま? です」

 トールヴァルドが目を細めた。

「説明は着いてから、という約束ですので、今から説明します。わからない単語があったら、その場で聞いてください。何度でも説明しますから」

「はい」

「あなたは、現在、十五歳です。九月七日に十六歳になリます」

「え?」

「あなたは、シモン爺の孫ということになっていますが、本当は違います。鏡を見ているから、自分とシモン爺が似ていないことは知っていますね」

「……はい」

「でも、他の人は、あなたがシモン爺の孫だと思っていますから、会いに行っても大丈夫です」

「はい!」

 トールヴァルドが微笑む。

「あなたは……大きな屋敷に住んでいる、ソレンソン伯爵の父親の子供なんです」

「伯爵の、父親の、子供?」

「ええ。でも、母親がパン屋の娘なので、伯爵の家族にはなれません」

「パン屋?」

「パンは家で作るのは大変です。そのため、通常は買うことが多いのです」

「買う?」

「……ゆっくりと勉強していきましょう。とりあえず、あなたはここで、伯爵ではなく、私と家族になります」

「トールヴァルドさんと?」

「はい。私と、家族になります。私があなたの夫になります。あなたは私の妻になります」

「夫、妻」

「ベアタが男の人と住んでいると言っていたのでしょう?」

「はい。夫がいるから家に帰らないといけないって言っていました。だから通いで働いていると」

「そうです。夫と妻は一緒に住みます。だから、あなたはここへ引っ越してきたのです」

「引っ越し?」

「一度、しているでしょう? ベアタと一緒に、荷物を持って、使用人部屋に移動したでしょう? あんなふうに、寝るところを変えることを引っ越しと言います」

「へー」

「言葉遣いもそのうち直しましょう。私には、母がいますから、あなたには義理の母もできます」

「義理の母?」

「使用人の中にも親子で仕事をしていた人がいたでしょう? 一緒にいることの多い、大きい女性と小さい女性です。とにかく、あなたの生活が今日から変わるということです。オーサ、入りなさい」

「失礼します」

 先程、食器を置いてくれた女性が室内に入ってきた。

「アンナ、彼女はオーサといいます。今日からあなたにいろいろ教えてくれます。オーサ、アンナです。アンナですからね」

「はい、坊ちゃま」

「坊ちゃま?」

「小さい男の子を『坊ちゃま』と呼ぶんですよ」

 オーサの返答にアンナは瞬く。

「トールヴァルドさんは小さくないですよ?」

「お婆ちゃんから見ると、小さな子供に見える時もあるんです。不思議でしょう?」

「不思議です」

 オーサとアンナがにこにこと笑っている。

 トールヴァルドは苦笑を零す。

「不思議なことは、不思議でいいんですよ。まずは、ゆっくり、家族になっていきましょう」

 トールヴァルドがやさしく微笑んだ。

 アンナもわからないまま微笑んだ。




「わー。あったかい~」

「まずは髪の毛を洗いましょうね。アンナちゃん」

 オーサに連れて行かれた浴場は、湯気が立ち上りあたたかい。

 まずは髪の毛を数度洗い、その後は体。

 お湯を何度も取り替える様子を見て絶句する。

 アンナは、まるで土から取り出したばかりの馬鈴薯のようだった。

「まあ、綺麗な金髪。香油は付けたことがある?」

「こうゆ?」

「ふふ、髪の毛がつやつやになるものよ」

「えーと、お任せします」

 オーサは、何度も言葉を繰り返すアンナに怒ることもなく、教えてくれたり聞き流したりしていた。

 お風呂に入り、真っ白な服を着て、ふかふかな寝具に横たわり……あとは、いい香りの中、朝までぐっすりだった。




「おはよう、アンナ」

 オーサさんに起こされて洗顔をして、服を着替えて食堂に来ると、トールヴァルドさんが先に紅茶を飲んでいた。

「おはようございます」

 オーサさんに促されて椅子に座る。

 置かれた朝食はほかほかだ。

 下働きの部屋に移ってからはあたたかい朝食だったが、大量に作るスープがほとんどだったため、こんな手の込んだ朝食は初めて見る。

「この黄色のものがスクランブルエッグ。この細長いのがソーセージ。薄くてヒラヒラしているのがベーコン。後は豆の煮物とサラダです」

「すくらんぶるエッグ、ソーセージ、ベーコン。サラダと豆の煮物は食べたことがあります」

「そうか。パンもたくさん食べていいですよ」

 アンナは籠に盛られたパンを見て瞬く。

「こんなには……食べられないです」

「手を付けなければ使用人が食べるから、自分が食べられる分だけ食べれば良いですよ」

「はい」

 そういえば、パーティー? や、お祭り? などが開催されるとご飯が豪勢ごうせいになると聞いたことがある。豪勢がよくわからないけれど。

「アンナは、なにか好きな食材や、食べてみたいものはありますか?」

 スクランブルエッグを口に入れる直前に聞かれて小首を傾げる。とろとろしていてフォークから落ちそうだ。

「ああ、すまん」

「ええと、よく、わかんないです」

「そうだな、私と一緒にいろいろ食べてみよう」

「はい!」

 朝食は、どれもとってもおいしかった。




「母上、失礼します」

 朝食後、二階の日当たりのいい位置の部屋の扉をノックして、トールヴァルドさんが入っていく。

 促されてアンナも入室した。

「……まあ」

 寝台で起き上がって吃驚している女性は、トールヴァルドさんにそっくりだった。これが、親子というものなのだろう。

「アンナ……私の母親、セシーリアです。母上、アンナです」

「初めまして、アンナさん。私のことはぜひ『おかあさま』と呼んでね」

「……えーと」

 困ってトールヴァルドさんを見上げれば、彼は「あなたがよければ『おかあさま』と呼んで欲しい」と微笑んだ。

「アンナ、これからはこの室内にいる私、母上、オーサの三人の言うことを聞くようにしてください。もしも、シモン爺含めて、他の誰かがあなたになにか言ったら、必ず三人の内の誰かに聞くようにしましょう」

「はい」

「トール、まるで仕事みたいよ」

 おかあさまがふふっと笑った。

 とっても綺麗な人。

 この人が、おかあさまになる。

 なんだか嬉しくて、頬がゆるゆるとしてしまった。




 そして、私……トールヴァルドさんを真似て、自分のことは『私』と言うことにした……私は、トールヴァルドさんの家にいることになった。

 もう、鶏小屋や豚小屋の下働きの仕事はしなくても良いらしい。

 オーサさんの手伝いをすることと、おかあさまの話し相手と、おかあさまの手伝いをすることが、私の新しい仕事だという。

 服を作る時や、なにかお買い物をする時は、カツラを被るよう言われたけれど。金髪は珍しいらしく、他人に見られてはいけないそうだ。

 文字を書いたり読んだりは、おかあさまに習った。

 物覚えの悪い私をおかあさまは見捨てることなくて、何度も教えてくれた。

 オーサさんのお手伝いは、下働きでしていたことが役立った。

 外で下働きしていた頃より、働く時間は少ないけれど、覚えることが多くていつも頭がぐるぐるしていた。でも、ようやく一年程で慣れてきた。







 ◇


 平和に暮らしていると、気がつくこともある。

 文字を習い、絵本で単語や簡単な言い回しを勉強する。

 物語を読んで、他の人がどんな生活や考えをするかを知っていく。

 トールさんは……トールヴァルドさんが「トールと呼んで欲しい」と言ってくれたから今はトールさんと呼んでいる……私が自分の本当の母親を知ったことを知らない。


 オーサさんが、おかあさまが、私を見て『奥様』と呼ぶのだ。


 奥様というのは、今のソレンソン伯爵の妻だった人のこと。


 私を産んで、亡くなった方。

 死んだ人のことを丁寧に言うと、『亡くなった方』と言うそうだ。覚えた。

 私は、奥様の夫に、いらない子供として捨てられた。

 偉い人は子供を捨てるのも大変だ。

 下働きの人だったら、孤児院に捨てればいいらしいが、すぐに見つかって戻されるらしい。

 鶏や豚なら成長すれば食べてしまえばいいけれど、人間は食べられない。

 私は奥様に似ているから、外に出すこともできないし、下働きの誰かと夫や妻になるのも駄目らしい。

 だから、離れからトールさんの家に引っ越しすることになった。

 トールさんも、おかあさまも、オーサさんもやさしい。

 私が知識を得ることを止めることもなく、自由にさせてくれる。

 鶏小屋のように囲まれているけれど、鶏と同じようにちょっと外に出られるのだから、特に支障はない。

 物語で知った外の世界。

 村があって、街があって、林があって、森があって、湖があって、海がある。城があって、人が生活していて、鶏、豚、牛、馬が飼われている。畑があって、果樹園があって……誰か達が暮らしている。


 三人とも、私の奥の奥様を見ているけれど……この一年でアンナを、『私』を見てくれるようにだいぶなった。


 トールさんが、最初に『私』を見てくれた。

 一応、婚約者となるそうなので、褒めてくれる時には頭を撫でてくれるし、ソファに並んで座って、今日の出来事を話したりする。

 トールさんは執事長として忙しいが、今は領地のお屋敷にソレンソン伯爵がいないため、案外と時間は取れるらしい。

 王都へは別の人が着いて行っているそうだ。本来ならトールさんも着いて行くはずだったのだが、伯爵に嫌がられたらしい。

 だから、余裕がある時は、手を繋いだり、ダンスの練習をしたり……

 貴族のお嬢様としての教養も徐々に取り入れられていることにも、アンナは気が付いていた。


 でも、ヘンリカはなにも知らない。


 嬉しいという気持ちも、悲しいという気持ちも、悔しいという気持ちも……愛おしいという気持ちも。

 アンナである私も、実はちょっと自信がない。

 けれど、ヘンリカよりは知っていると思う。


 細い腕に肉が付いてきたことを喜んでくれる彼。

 食べる量が、一般的な女性が食べられる量になったことに安堵する彼。

 ダンスが一曲踊れるようになったことを褒めてくれる彼。


 そんな彼を、なくしたくないと思うのは、たぶん、きっと、恋。


 エスコートをされれば嬉しくて、小さな小さな鳥籠の中の鳥……鶏小屋の中の鶏? でもかまわない。

 特に塀の外に興味が湧かないし。




 そして……







 ◇


 応接室に呼ばれたので、カツラを被ろうとしたら止められた。

 もう、被らなくてもいいらしい。


「やあ、私の幸運の女神」


 いつも座るソファの対面には自分によく似た金髪の男性。


「初めまして。アンナと申します」

 下働きの礼で、ぺこりと頭を下げると金髪の男性は笑う。

「ヘンリカ……と呼んだ方がいいかい?」

「ヘンリカ?」

 アンナは小首を傾げる。

 幼い頃を思い出して、同じ所作をする。

「ああ、すまない。アンナだったね、アンナ」

「はい、アンナです」

「ソレンソン伯爵、ご用件を早くお済ませください」

 トールさんが珍しく苛立っていた。

「そうだね、多分もう二度とこんなふうに話すこともないだろう。我が姪、ヘンリカを騙したベアタという女性のことを教えて欲しい」

 トールさんを見ると、彼は頷く。

「ベアタさんは声も大きく世話焼きで、ご飯をもらえなくなった私を受け入れてくれるよう、シモン爺に言ってくれました」

「あなたにとっては、やさしい人だったかい?」

「やさしい……」

 やさしいの基準をどこにすればいいのかわからないけれど、立場を考えるとオーサさんが一番近いだろう。やさしい人に。

 何度聞いても丁寧に教えてくれる人。

「やさしい時と、そうでもない時があって……今まで一緒だった人と比べるなら、けっこうやさしい人だったと思います」

「ベアタの夫については?」

「ベアタさんの、夫?」

 会ったこともない人なので、小首を傾げる。

 ソレンソン伯爵と呼ばれた人は、私を見て目を見開いた。

 本当の母親に私は似ているらしい。

「会ったことは、ないのかい?」

「はい」

「……わかった。あと、私は君の父親ではない」

 ぱちりと瞬いて、アンナは傾げた首を元に戻す。

「……私の父親? は、シモン爺の息子です。会ったことありませんが」

 そういう設定のはず。

 あ、余計なことを言ったかもしれない。

 アンナはむぎゅっと口を噤む。

 それを見て、ソレンソン伯爵と呼ばれた人は「はっ」と声を上げて笑った。

「ベアタの夫が、窃盗罪で捕まった。ただ、死罪にする程の罪は犯していない。妻が犯罪者だと判明したせいで、職もなくしたらしい」

「そうなんですか……大変ですね」

 他人事ひとごとなので、そう言うしかない。

「今の君の話を聞いて決めたよ。友人の男爵家の領地へ連れて行って、再度職人としての道を示そう。それでも働かなければ、友人の裁量に任せる」

 さいりょう?

 耳慣れない言葉だが、わかった振りで「そうなんですね」と頷く。

「君、興味がないだろう」

 はいと即答しそうになるが、微笑んで小首を傾げた。

「私は、君のおかげで兄……前伯爵を追い落とすことができた。感謝しているよ」

 朗らかに目の前の男が笑う。

「兄は、領地の片隅で、最愛の妻の墓守をしている。兄の息子は、女で失敗して廃嫡だ」

 へー。としか思えないが、さすがに「へー」と言うと、トールさんにもオーサさんにも怒られて、おかあさまにはオーサさんから告げ口されるから、さらに怒られる。

 なので、微笑み返し継続中だ。

「トールには領地での代官を任すことにする。執事長は別の者と交代だ。君たちが結婚したら、今までよりは一緒にいられるはずだよ。私からのお礼とお祝いだ」

「お礼?」

 ぱちぱちと瞬く。

「ベアタのことを教えてくれただろう?」

(兄の失態を明確にしてくれただろう?)

 という声が聞こえてきた。

 トールさんもオーサさんもおかあさまも口にしないが、ヘンリカが行方不明……亡くなったことは、きっと騒ぎになったはずだ。

 三人とも、私には話さないし、察せられるようなこともしない。

 だから、私は口を開く。

「……ヘンリカさまは、なにも知らない方でした。一人で立てない頃はまだもう少し人もいたようですが、食事をするように強制され、白と黒の服の人達が入れ替わり立ち替わり……中には食事ができないと殴る人もいて、フォークやスプーンを必死に使えるようにしたそうです。服も、古着でしたし、八歳の頃、庭で蟻を見ていたら下働きの方にサボっていると勘違いされて……でも、それからはいろいろな人を見て、言葉を覚えました。仕事も」

 つらつら話していると、トールさんが手を握ってくれた。

 止められないので、話してもいいのだろう。

「鶏小屋、豚小屋の下働きの人達は、私を『いる人』として扱ってくれました。ベアタさんがアンナと呼んでくれるようになってからは、誰かが私の名前を呼ぶと、私の名前を呼ぶ人がいるんだな……と思いました……いえ、思ったそうです」

「そうか」

「下働きの部屋に移ってからは寝具も洗えるようになって、お仕着せももらえるから、痒かった皮膚がだいぶマシになりました。水浴びや、水で体を拭くこともできるし、お手洗いも離れよりは綺麗でした。ご飯もあたたかくて、ちゃんと味がして、舌を火傷すると誰かがお水をくれて……嬉しいって感情を知ったそうです」

「……私にも娘がいるが、もしも娘がそんな目に遭っていたら、耐えきれないな」

 嘘だ。

 アンナは、にっこりと微笑む。

 知っているのに、助けて欲しい時に助けてくれなかった人の後悔なんてしらない。

「娘さんがいらっしゃるんですか?」

 無視をして質問を返す。

 失礼だが、きっと今は許される。

「ああ、息子と、娘がいる。兄と同じだが……あと少しで、もう一人産まれる予定だ。産まれてくる赤子が楽しみだ」

「おめでとうございます」

 心からお祝いをする。

 赤子というものは見たことがないが、ひよこは可愛い。

「人間の雛も、可愛いでしょうね」

 微笑めば、周囲は静まっていた。

「アンナ様、人間の赤子は『赤ちゃん』と言うのですよ」

「まあ、知らなかったわ。伯爵様、失礼しました」

 オーサさんの言葉を聞いて、私は素直に謝罪する。

「……いや、気にしなくていい。屋敷内で子供が産まれることはあまりないからな、たぶん」

「鶏小屋、豚小屋の下働きは通いの者も多いですからね。アンナは人間の赤子を見たことがないのです。失礼しました、ソレンソン伯爵」

 トールさんが代わりに謝罪をしてくれた。

 申し訳なくて小さくなってしまう。

「いや、かまわない。可哀想なヘンリカの墓は、母親の墓の隣に建てよう」

「ヘンリカ様は、可哀想なのですか?」

 瞬いて尋ねれば、ソレンソン伯爵は微笑んだ。

「一般的な基準で言えば可哀想だろうが、本人がどう思っているかはわからないな。アンナ、君はどう思う?」

 その問いに口噤くちつぐむ。

 ちょっと考えて、笑った。

「ヘンリカ様はなにも知らないので、なんとも思わないと思いますが……私は……夫が自分が死んででも頑張って産んだ子を蔑ろにしていたら、きっと天国で夫を恨んで恨んで口を聞かなくなるのではないかと思いました」

「確かにな」

「はい」

 にこにこと笑い返す。

「君は……意外と、したたかだな」

「ありがとうございます」

 伯爵は、紅茶を飲み干すと席を立った。

「トールヴァルドは、こう見えて男爵位を持っている。君を私の親戚筋の養子にさせてから、結婚式を執り行おう。場所は町の教会。結婚したら、町へ遊びに連れて行ってもらうといい。領主館と周辺くらいなら自由を保障しよう」

「ありがとうございます」

 にこにこと微笑み返す。

「すまなかったな」

「いえ」

 さらりと流す。

 謝罪理由はアンナには明白だが、ヘンリカは知らない。

 この人が、伯父だということも、ヘンリカが虐げられていると薄々知っていても放置をしていたことも。

 アンナは知ったけれど。

 貴族籍に入れること、トールヴァルドと結婚できること、町へお出掛けすることもかまわない。それで今までの全てを許せと、言っているのだ。

 許すもなにも、受け入れるしかない。

 伯爵様のご要望だ。

 それにトールヴァルドの仕事の拘束時間が減るのが、一番嬉しいことだった。

 でも。

「そうだ、伯爵様。離れの使用人が使用していた区域はご覧になりましたか?」

 アンナは小首を傾げて尋ねる。

「……いいや」

「もしよろしければ、覗いてみてください。新鮮な気付きがいっぱいありますよ」

 にっこりと微笑む。

 あなたの兄は、豚小屋よりも酷いところへ娘を押し込めていたのだという気付きを。

 その笑顔を見て、伯爵は乾いた笑いを零した。

「……情報をありがとう。なにか欲しいものがあれば、トールヴァルドに言いなさい。褒美として渡そう」

「お心遣い、感謝いたします」

 私は、にっこりと笑って淑女の礼を見せた。






「失礼でしたでしょうか?」

 伯爵の後ろ姿を見送りつつ、隣のトールヴァルドに尋ねる。

 彼は屋敷内の移動でも馬を使っているようだ。貴族、凄い。

「かまいませんよ。あなたには、怒る権利があります」

 怒る。

 私は、怒っているのだろうか。

 ふむと考える。

 今のところ、怒るという感情が捕らえられない。

「ヘンリカ様の墓は、私が建てます。そして、前伯爵に離れの様子をに入りさいにわたって、懇切丁寧に伝えてきます」

「……トールさんのが怒ってる……」

 彼はふふっと微笑む。

「トールさん、私とトールさんの婚礼衣装、伯爵に頼みましょう。男爵としては豪華絢爛に!! で、終わった後はそれを売って、鶏小屋豚小屋の人達の食事をちょっと豪華にしてもらいましょう」

「……そちらが、目的ですね」

「はい。シモン爺はもう食が細くなっていますが、おいしいもの食べて欲しいですから」

 困ったように眉をへにょんとさせる老爺を思い出す。

 なにかしたくてもできなかった弱い人。

 でも、彼は、彼のできる範囲でアンナを守ろうとしてくれた。トールヴァルドさんに繋いでくれた。

 やさしくしてくれた人にはやさしさを。

 そうでない人には、そうでないことを。


 ――― 最愛の妻の墓の前で嘆きたい前伯爵は、墓を訪れる度に娘の墓も目にするだろう。

 お前のせいで、娘は死んだのだ。

 そう、思ってくれるだろうか。

 思うといいな。

 いや、思え。


 ああ、これが『怒り』なのだと実感する。


 でも、前伯爵は、きっとまた逃げるのだ。

 最愛の、妻からも。

 小首を傾げて笑う、妻だった人から。


「トールさん」

 見上げて笑う。

 十歳年上の、アンナの婚約者。

 いろいろなしがらみから仕方なく私と結婚してくれる人。

 やさしい、大切な人。

 この人が、子供のせいで亡くなってしまったら、私はどうなるだろう。


 ちょっと考える。


 きっと、子供と一緒に泣くだろう。

 でも、わからない。

 大切な人なんて、今までいなかったから、そんな未来は知らない。

「アンナ、幸せになりましょう。大切にします」

 トールさんの笑顔に『仕方ない』という感情は見えない。

「トールさん、大好きです」

 ぺかっと笑えば、トールさんは頬を染めた。

 そして、つっかえながら「私も、好きですよ」と答えてくれる。




 ヘンリカは、親の愛も、無償の愛も、なにもかも知らないけれど……

 アンナは……

「アンナ、愛しています」

 はにかみながら告げる未来の旦那様を見て、アンナは愛という感情を知った。

「私も、愛しています」

 初めての愛は、あなたへ。






おしまい



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。