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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

婚約破棄ですか?では、王家との全契約を本日で終了いたします

作者: あちゅ和尚
掲載日:2026/05/11

「クラリス・ベルナール。私は今この場で、お前との婚約を破棄する」


 王太子アレクシス殿下の声が、王宮大広間に高く響いた。


「紙仕事しかできない地味な女を、王太子妃にする気はない」


 楽団の音が止まった。


 杯を持っていた貴族たちも、踊っていた令嬢たちも、皆がこちらを見ている。


 クラリス・ベルナールは、王太子の正面で静かに瞬きをした。


 驚かなかった、と言えば嘘になる。


 けれど、取り乱すほどではなかった。


 今夜の夜会で、王太子が侯爵令嬢イザベルを伴って現れた時点で、何かが起こる予感はしていた。


 イザベルは華やかな令嬢だった。


 淡い金髪に、大粒の宝石を散らした桃色のドレス。笑えば花が咲いたように周囲が明るくなる。


 王太子妃に望まれる姿としては、たしかにわかりやすい。


 一方のクラリスは、青灰色のドレスを着ていた。


 派手な飾りはない。


 袖口にはインク染みが残っている。


 今朝まで王宮契約局の執務室で、軍馬飼料の納入書類を確認していたからだ。


「クラリス」


 アレクシスは勝ち誇ったように顎を上げた。


「お前には以前から不満があった。舞踏会より帳簿、贈り物より契約書、宝石より印章。婚約者である私より、商人や役人との面会を優先する。そんな女が王太子妃にふさわしいはずがない」


「……殿下」


「しかも、イザベルは私を心から慕ってくれている。彼女のように華やかで、人々を惹きつける女性こそ、未来の王妃にふさわしい」


 イザベルが頬を染め、アレクシスの腕にそっと手を添えた。


 広間のあちこちから、ひそひそ声が聞こえる。


「やはり、ベルナール嬢は地味すぎたのよ」


「契約官令嬢などと呼ばれていたものね」


「王太子妃が帳簿を抱えて歩くなんて、見栄えが悪いわ」


 クラリスはそれらの声を聞き流した。


 慣れている。


 紙仕事は地味だ。


 数字も、条項も、印章も、舞台の上では輝かない。


 だが国は、輝きだけでは回らない。


「承知いたしました」


 クラリスは深く礼をした。


 あまりに静かな返事に、広間の空気が少し揺れた。


 アレクシスが眉をひそめる。


「ずいぶん素直だな。泣いてすがるかと思ったが」


「殿下が正式に婚約破棄を宣言なさった以上、私に異議はございません」


「ふん。ようやく身の程を知ったか」


「はい。では、婚約破棄に伴い、王家との全契約を本日24時で終了いたします」


 今度こそ、広間が大きくざわめいた。


 アレクシスの笑みが消える。


「何だと?」


「婚約契約第17条、および王家契約統括補佐に関する別紙第4項に基づきます。私クラリス・ベルナールが王太子妃候補でなくなった時点で、ベルナール家および私個人の信用保証を前提とする各契約は、自動終了または再審査となります」


「何を言っている」


「王宮食料納入。軍馬飼料。北方軍の冬装備。第2魔石鉱山との優先購入契約。治癒薬組合との月次納入契約。隣国ルーヴェンとの香辛料および塩の通商協定。王都結界維持用の青魔石供給契約。以上の主契約が対象です」


 貴族たちのざわめきが、波のように広がった。


 アレクシスは一瞬、意味がわからないという顔をした。


 それから、すぐに笑った。


「馬鹿馬鹿しい。そんなもの、王家の契約だろう」


「形式上は王家の契約です。ただし、多くはベルナール家の信用枠、または私個人の調整保証によって成立しております」


「紙の上の話だ」


「国は紙の上の約束で動いております、殿下」


 アレクシスの顔が険しくなった。


「私を脅すつもりか」


「いいえ。契約内容をご説明しているだけです」


「ならば新しく結べばいい」


「可能です。ただし各商会、組合、隣国使節団との再交渉が必要になります。相場も条件も変わるでしょう」


 クラリスは静かに続けた。


「今夜中に婚約破棄の撤回または契約継続の正式書面が出ない場合、本日24時をもって解除通知を発送いたします」


「撤回などするものか!」


 アレクシスが声を荒げた。


「お前がいなくとも王家は困らん。契約書を抱えて自分が国を動かしているつもりだったのか? 思い上がるな、クラリス」


「承知いたしました」


「出て行け。王宮契約局への出入りも禁じる」


「はい」


 クラリスは首元の婚約飾りを外した。


 王家の紋章が刻まれた小さな金細工。


 5年前、婚約が決まった日に渡されたものだ。


 彼女はそれを銀盆に置いた。


「殿下。最後にひとつだけ」


「何だ」


「契約解除通知は、王家に害をなすためのものではありません。混乱を避けるため、早急に財務卿と契約局長へ確認を取ってください」


「最後まで書類の心配か。つくづくつまらん女だ」


 アレクシスは吐き捨てた。


 クラリスは頭を下げた。


「これまでお世話になりました」


 返事はなかった。


 彼女は背を向けた。


 広間から出る直前、誰かが小さく笑った。


「本当に最後まで地味だったわね」


 クラリスは振り返らなかった。


 地味でいい。


 国を支えるものは、たいてい目立たない。


 廊下に出ると、夜気が少し冷たかった。


 クラリスは王宮契約局へ向かった。


 出入りを禁じられたとはいえ、まだ24時までは権限が残っている。


 机の引き出しを開け、あらかじめ作成していた封筒の束を取り出した。


 使う日が来ないことを願っていた書類だった。


 だが、準備していない契約官などいない。


 婚約という関係は、感情だけでなく、法的な結びつきでもある。


 王太子妃候補として任された業務には、婚約破棄時の処理が定められていた。


 クラリスは通知書を1通ずつ確認する。


 王宮食料納入組合。


 東部馬商連盟。


 南部魔石鉱山組合。


 治癒薬師会。


 ルーヴェン王国通商代表部。


 北方防衛連絡会。


 王都結界管理局。


 文章は冷たく、正確だった。


 婚約契約の終了に伴い、信用保証の前提が失われたこと。


 今後の契約継続については、王家より新たな保証書を受領のうえ、各契約先と再協議する必要があること。


 既存納入分の支払い義務は王家に残ること。


 民の生活に直結する物資については、緊急停止ではなく段階的な停止とすること。


 クラリスは最後の一文を書き足した。


「混乱を避けるため、各納入済み物資の引き揚げは求めない」


 復讐のために仕事をしてきたわけではない。


 困るべき者は、契約を軽んじた者だけでいい。


 王都の子供たちの食卓まで壊すつもりはなかった。


 時計の針が23時を指す。


 契約局長の老紳士、モリスが部屋に入ってきた。


「ベルナール嬢」


「局長。ご迷惑をおかけします」


「迷惑などではありません。むしろ、こちらがあなたに頼りすぎていた」


 モリスは机の上の封筒を見て、深く息を吐いた。


「殿下は、理解しておられませんな」


「明日には財務卿がご説明なさるでしょう」


「明日で済めばよいのですが」


 クラリスは微笑んだ。


「即座に王宮が倒れるような契約にはしておりません。食料は7日分、治癒薬は10日分、結界用青魔石は15日分の備蓄があります」


「あなたらしい」


「引き継ぎ資料は右の棚に。契約ごとの危険度は赤、黄、青で分類しています。赤のものから対応してください」


「あなたが残る選択肢は」


「ございません。王太子殿下より、契約局への出入りを禁じられました」


 モリスは目を閉じた。


「……残念です」


「私もです」


 クラリスは本心から言った。


 王太子妃になるためではなく、王国の実務を整える仕事そのものは好きだった。


 食料が届く。


 軍馬が冬を越す。


 治癒薬が病人に間に合う。


 結界を維持する魔石が遅れず入る。


 それらは舞踏会で称賛されることはない。


 けれど、誰かの1日を確かに守る。


「局長」


「何でしょう」


「王都の生活が急に乱れないよう、できる限り手を打ってあります。ですが、王家が契約先に横柄な態度を取れば、交渉は難航します」


「伝えましょう。聞く耳があることを祈ります」


 クラリスは封筒の束を郵送箱へ入れた。


 正式な魔導郵便の青い光が走る。


 解除通知は、各地へ発送された。


 24時の鐘が鳴った。


 その瞬間、クラリス・ベルナールは王太子妃候補ではなくなった。


 同時に、王家契約統括補佐でもなくなった。


 胸の奥に、寂しさはあった。


 けれど不思議と、息はしやすかった。


 翌朝。


 王宮はまだ平穏だった。


 厨房にはパンがあり、厩舎には干し草があり、治癒院には薬があった。


 アレクシス王太子は、朝食の席で薄く笑った。


「見たか。何も起きんではないか」


 向かいに座るイザベルが、安心したように微笑む。


「クラリス様は、少し大げさにおっしゃったのですね」


「そういう女だ。紙束を積み上げて、自分が重要だと思い込みたかったのだろう」


 王太子は銀のナイフで焼きたての白パンを切った。


 そこへ、財務卿が青い顔で入ってきた。


「殿下。至急、ご確認いただきたい書類がございます」


「朝食中だ」


「恐れながら、朝食どころではございません」


 アレクシスは不快そうに眉を寄せた。


「何だ」


「王宮食料納入組合より、次月以降の納入価格再交渉の申し入れが来ております。ベルナール家保証が外れたため、前払いまたは王家直轄領の収益証明を求めるとのことです」


「払えばよい」


「現在、王家会計は春の軍備更新費で余裕がございません。前払いは困難です」


「では後払いで命じろ」


「契約解除後ですので、命令権はございません」


 アレクシスの手が止まった。


「……何?」


 財務卿は震える手で次の書類を出した。


「東部馬商連盟からも、軍馬の追加納入を一時停止するとの通知が来ております。こちらも、クラリス様の個人信用による調整枠がなくなりました」


「軍馬など、別の商人から買えばよい」


「品質の揃った軍馬を短期間で確保するのは難しく、さらに価格が3割ほど上がります」


「3割?」


「はい」


 アレクシスは舌打ちした。


「たかが紙仕事で、なぜそこまで変わる」


 財務卿は言葉を選ぶように視線を落とした。


「商人たちは、王家ではなく、クラリス様を信じていたのです」


「王家より、あの女を?」


「正確には、支払いと交渉が滞らないことを、です。クラリス様は納期を守らせる代わりに、支払いも必ず守らせておられました。無理な値切りもせず、問題があれば代替案を出した。商人にとっては、信頼できる窓口でした」


「くだらん」


 アレクシスは立ち上がった。


「すぐに新しい担当者を置け」


「置いております。ですが、契約先が面会を求めているのは、クラリス様です」


「婚約破棄した女を、なぜ王宮が呼び戻さねばならん」


 財務卿は答えなかった。


 その沈黙が、アレクシスをさらに苛立たせた。


 1日目。


 王宮厨房から、一部の高級食材が消えた。


 貴族の夜会で出す予定だった東方産の香辛料が届かず、料理長は献立を変更した。


 王太子は「些細なことだ」と言った。


 2日目。


 王都治癒院から、治癒薬の追加納入が遅れるとの報告が来た。


 緊急患者用の備蓄はある。


 だが、王宮の貴族向けに使われていた高価な疲労回復薬は、優先供給の対象外となった。


 王太子は「贅沢品などなくともよい」と言った。


 3日目。


 東部駐屯軍の出立が延期された。


 軍馬の飼料契約が再審査となり、遠征に必要な量が揃わなかったからだ。


 王太子は「倉庫にある分で何とかしろ」と言った。


 現場の将軍は、何とかならないと答えた。


 4日目。


 南部魔石鉱山組合が、青魔石の優先出荷先を変更した。


 王家から、北方辺境伯家へ。


 理由は明快だった。


 ベルナール家保証が外れた王家より、期限前に支払いを済ませた北方辺境伯家の方が、契約先として確実だからである。


 この報告を聞いた時、アレクシスは初めて顔色を変えた。


「青魔石は王都結界に必要なものだぞ」


 財務卿は沈痛な顔で答えた。


「備蓄はございます。すぐに結界が消えるわけではありません」


「では問題ない」


「ですが、次回供給の目処が立たなければ、外壁結界の出力を下げる必要が出ます」


「下げればいい」


「下げれば、王都周辺の魔物避けが弱まります」


 アレクシスは唇を噛んだ。


「クラリスはどこにいる」


「ベルナール伯爵邸には戻っておられますが、すでに別の契約を結ばれたようです」


「別の契約?」


「北方辺境伯レオン・アルヴァール様の領政顧問として」


 イザベルが小さく声を上げた。


「レオン様……?」


 北方辺境伯レオン・アルヴァール。


 若くして辺境を継いだ実務派の領主である。


 華やかな宮廷では目立たないが、北方防衛と交易路の整備で評価されている。


 アレクシスは顔を歪めた。


「あの無愛想な辺境伯が、クラリスを?」


「はい」


 財務卿はためらいながら続けた。


「さらに、ルーヴェン王国との北方通商協定を再編する準備を進めているとの情報がございます」


「通商協定は王家のものだ!」


「いえ。旧協定は王家とルーヴェンのものですが、今回の再編は北方辺境伯家、ベルナール商会、ルーヴェン側大商会による民間および地方領主間協定です」


「そんなもの認められるか」


「法的には可能です。クラリス様が王家契約局におられた時から、北方交易路の危険分散案として検討されていたものです」


 アレクシスは拳を握った。


 その頃、クラリスは北方辺境伯邸の応接室にいた。


 王都より少し北にあるアルヴァール家の屋敷は、豪奢ではないが清潔で、廊下には領内の地図が何枚も掛けられている。


 机の上には茶菓子ではなく、契約書の束と交易路図が広げられていた。


 クラリスにとっては、花より落ち着く光景だった。


「王宮から苦情が来るでしょう」


 彼女が言うと、向かいに座るレオン辺境伯はうなずいた。


「来るだろうな」


 レオンは黒髪に灰色の目をした青年だった。


 年はアレクシスより2つ上。


 表情は硬いが、言葉は丁寧で無駄がない。


 クラリスは以前から、王宮の会議で何度か彼と顔を合わせていた。


 彼はいつも、クラリスの説明を最後まで聞いた。


 王太子のように途中で遮らず、他の貴族のように「細かいことは任せる」と投げず、疑問点を的確に質問した。


 それだけで、クラリスには十分ありがたかった。


「ご迷惑をおかけします」


「迷惑ではない。むしろ、ようやく君に正式な報酬を払える」


「王宮でも報酬はいただいておりました」


「少なすぎる」


 レオンは即答した。


 クラリスは思わず笑いそうになった。


「ご存じだったのですか」


「北方防衛費の折衝で、君の作った予算案を何度も見た。あれだけの調整をしている人間の手当が、装飾係の半分以下なのはおかしい」


「装飾係も大切なお仕事です」


「否定はしない。だが、君の仕事も大切だ」


 クラリスは視線を落とした。


 たったそれだけの言葉が、思った以上に胸へ染みた。


 婚約破棄されたことより、紙仕事しかできないと言われたことより、自分が積み上げてきたものを軽く扱われたことが痛かったのだと、今さら気づいた。


「クラリス嬢」


 レオンの声が少し柔らかくなった。


「俺は君を、王家への当てつけで雇ったわけではない」


「はい」


「北方はこれから厳しくなる。魔石の供給、塩、保存食、軍馬、治癒薬、どれも王都任せでは危うい。君が以前提出した危険分散案を読んだ時から、必要な人だと思っていた」


「ですが、あの案は王家用のものです」


「だから買い取る。君の知識も、労働も、時間も、正当な対価を払う」


 レオンは1枚の契約書を差し出した。


 雇用契約書。


 期間は1年。


 役職は領政顧問兼通商調整官。


 報酬は王宮時代の4倍。


 専用執務室、秘書2名、休暇、護衛、契約締結権限の範囲まで細かく明記されている。


「……休暇が多すぎませんか」


「王宮時代の君が少なすぎた」


「秘書2名も不要です」


「必要だ。君が全部自分で抱えたら倒れる」


 クラリスは契約書から顔を上げた。


 レオンは真剣だった。


 彼はクラリスの能力だけを欲しがっているのではない。


 クラリスが無理なく働ける仕組みごと整えようとしていた。


「ありがとうございます」


 クラリスは静かに言った。


「お受けします」


 レオンの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「助かる」


「まずは北方交易路の再編から始めましょう。ルーヴェン側は、王都経由より北方港経由の方が輸送日数を4日短縮できます。魔石と塩を同じ便で運べば護衛費も下げられます」


「さっそく仕事の話か」


「はい。契約しましたので」


 レオンは小さく笑った。


 その笑顔を見て、クラリスは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


 5日目。


 王宮に、ルーヴェン通商代表部から正式な通知が届いた。


 王家との香辛料および塩の優先取引について、期限満了後は再交渉とする。


 ただし、北方辺境伯家およびベルナール商会との新協定により、民間交易は継続する。


 つまり、王都に物が来なくなるわけではない。


 しかし王家だけが、これまでの優遇価格で買えなくなる。


 財務卿は頭を抱えた。


 アレクシスは、さすがに焦りを隠せなくなった。


「クラリスを呼べ」


「殿下」


「呼べと言っている!」


 財務卿は目を伏せた。


「すでに使者を出しました。しかし、クラリス様は現在アルヴァール家の正式な顧問です。王家からの命令では動かせません」


「元婚約者だぞ」


「婚約は殿下が破棄なさいました」


 沈黙が落ちた。


 アレクシスは椅子を蹴った。


「では、謝ればいいのだろう!」


 財務卿は驚いて顔を上げた。


「謝罪なさるのですか」


「形だけだ。戻ってくればよい」


「形だけでは、おそらく戻られません」


「何が望みだ。金か。地位か」


「信頼かと」


 アレクシスは理解できないという顔をした。


 6日目。


 王太子アレクシスは、北方辺境伯邸を訪れた。


 事前の面会申し込みはなかった。


 当然、門前で止められた。


「私は王太子だぞ!」


 門番は丁寧に頭を下げた。


「承知しております。ですが、当邸では面会予約のない方を通すことはできません」


「クラリスを呼べ」


「クラリス様は執務中です」


「元婚約者が来たと言え!」


「現在の契約上、クラリス様はアルヴァール家の顧問です。私的な面会はご本人の同意が必要です」


 しばらくして、レオンが門まで出てきた。


 隣にはクラリスがいる。


 彼女は王宮時代より簡素な服を着ていた。


 だが、どこか晴れやかに見えた。


 アレクシスはその表情が気に入らなかった。


「クラリス。戻れ」


 第一声がそれだった。


 クラリスは一礼した。


「殿下。ご用件をお聞かせください」


「王家契約局へ戻れ。お前の席は空けてある」


「私はすでに、アルヴァール辺境伯家と契約を結んでおります」


「破棄すればいい」


「正当な理由なく破棄すれば、違約金が発生します」


「そんなもの王家が払う」


「金額の問題ではありません。信用の問題です」


 アレクシスは苛立った。


 またそれだ。


 信用。


 契約。


 紙。


 どうしてこの女は、いつも目に見えないものを重く見るのか。


「私が悪かった」


 アレクシスは歯を食いしばって言った。


「これでいいか」


 クラリスは静かに彼を見た。


「何についてでしょうか」


「……婚約破棄の件だ」


「殿下が私を王太子妃にふさわしくないと判断されたことについては、謝罪は不要です。婚約は双方の合意と信頼で成り立つものですから」


「なら何を怒っている」


「怒っているわけではありません」


「では戻れ」


「戻れません」


「なぜだ!」


 クラリスは少しだけ目を伏せた。


「殿下は、私が王宮で何をしていたのか、最後までご覧になりませんでした」


「契約書を書いていただけだろう」


「はい。契約書を書いていました」


 クラリスは否定しなかった。


「その契約書の向こうに、食料を運ぶ馬車がありました。夜明け前に倉庫を開ける人がいました。怪我人のために薬草を煎じる人がいました。冬の街道で軍馬を守る人がいました。隣国との約束を破らないよう、何度も頭を下げる人がいました」


 アレクシスは言葉を失った。


「私は紙だけを見ていたのではありません。紙に名前を書く人たちを見ていました」


 クラリスは続けた。


「殿下は、その人たちとの約束を、紙仕事とおっしゃいました」


「私は……そこまでの意味で言ったのではない」


「存じております。だからこそ、戻れないのです」


 アレクシスの顔がわずかに歪んだ。


 初めて、自分が何を失ったのか見えたようだった。


「クラリス」


「王家との契約再建については、正式な依頼書をいただければ、アルヴァール家顧問として助言いたします。ただし、王家専属には戻りません」


「婚約は」


「破棄されました」


「撤回すると言ったら」


「私はお受けしません」


 アレクシスの目が見開かれた。


 クラリスは穏やかに、しかしはっきりと言った。


「殿下の妃になりたいと思っていた私は、もうおりません」


 風が吹いた。


 門の外の木々が揺れる。


 イザベルが馬車の中から不安げにこちらを見ていた。


 彼女に悪意がなかったわけではない。


 だが、この数日で彼女も知ったのだろう。


 王太子妃とは、夜会で微笑むだけの役ではないと。


 アレクシスは何か言おうとした。


 けれど言葉は出なかった。


 代わりにレオンが口を開いた。


「殿下。クラリス嬢との面会はここまででよろしいでしょうか」


「……辺境伯。お前は、最初からこれを狙っていたのか」


「いいえ」


 レオンは静かに答えた。


「私は、正当に評価されていない人材に、正当な仕事を依頼しただけです」


「王家から奪った」


「殿下が手放されたのです」


 アレクシスは唇を引き結んだ。


 それ以上、何も言わずに馬車へ戻る。


 去っていく王家の馬車を見送りながら、クラリスは小さく息を吐いた。


「震えていますね」


 レオンが言った。


「ええ。強い女のふりをしましたので」


「ふりには見えなかった」


「契約官は表情を整えるのが仕事です」


「なら今は仕事ではない」


 レオンは外套を脱ぎ、クラリスの肩にかけた。


 驚いて見上げると、彼は少し気まずそうに視線をそらす。


「寒そうだった」


「ありがとうございます」


「君が嫌でなければ、今後は私的な場では名前で呼んでもいいだろうか」


「クラリス、と?」


「ああ」


「では、私もレオン様とお呼びしても?」


「もちろん」


 それだけの会話なのに、胸の奥が温かくなった。


 契約書には書けないものも、確かにある。


 7日目。


 王宮では、国王主導の調査が始まった。


 クラリス1人に契約実務を集中させていたこと。


 王太子が契約内容を確認せずに婚約破棄を宣言したこと。


 財務と通商の重要契約を、王太子の私的感情で危機に晒したこと。


 それらは、王族として看過できない失態だった。


 アレクシスは王太子位こそすぐには失わなかったが、契約・財務・軍備に関する権限を凍結された。


 イザベルとの婚約も保留となった。


 イザベルの実家である侯爵家は、王家財政の混乱に巻き込まれることを恐れ、静かに距離を置き始めた。


 王家はクラリスに正式な依頼書を送った。


 今度は命令ではなく、依頼だった。


 適正な報酬。


 作業範囲。


 責任分担。


 交渉相手への礼節。


 それらが、きちんと書かれていた。


 クラリスはアルヴァール家顧問として、王家契約再建に助言した。


 ただし、戻らなかった。


 彼女は王宮の執務室ではなく、北方辺境伯邸の新しい執務室で働いた。


 窓の外には、王都の尖塔ではなく、北へ続く街道が見える。


 机の上には、王家の紋章ではなく、北方交易路の地図が広がっている。


 クラリスはそこで、毎日忙しく働いた。


 北方港への塩の定期便。


 冬用保存食の共同倉庫。


 軍馬と農耕馬を分けた飼料契約。


 治癒薬師会の地方支部設立。


 青魔石を王都だけでなく、北方各町にも分配する仕組み。


 紙の上で引いた線が、少しずつ現実の街道と倉庫と人の流れになっていく。


 半年後。


 北方交易市が開かれた。


 かつて王都を経由しなければ入らなかった品々が、北方港から直接届くようになった。


 市場には、塩、香辛料、毛織物、薬草、魔石、干し果物が並ぶ。


 商人たちは笑い、兵士たちは暖かい外套を受け取り、治癒院には新しい薬棚ができた。


 クラリスは市場の一角で、帳簿を確認していた。


「また仕事をしている」


 声をかけたのはレオンだった。


「今日は交易市の初日ですから」


「君は主賓でもある」


「主賓が帳簿を見てはいけない決まりはありません」


「それはそうだが」


 レオンは苦笑し、クラリスの隣に立った。


 市場の中央では、子供たちが焼き菓子を分け合っている。


 遠くから来た商人が、北方の羊毛を手に取って感心していた。


 クラリスはその光景を見て、静かに微笑んだ。


「こういう景色が見たかったのだと思います」


「王宮では見られなかったか」


「見えにくかったです。書類の向こうにあるとは知っていましたが、遠かった」


「今は?」


「近いです」


 レオンは少し黙った。


 それから、1通の封筒を差し出した。


「クラリス」


「はい」


「これは仕事の契約書ではない」


 クラリスは封筒を受け取った。


 中には、丁寧に書かれた婚約申込書が入っていた。


 ただし、普通の貴族のものとは少し違う。


 財産権。


 仕事の継続。


 執務室の維持。


 双方の自由な意見表明。


 病や怪我をした時の支援。


 そして最後に、手書きの一文が添えられていた。


 ――あなたの仕事だけでなく、あなた自身を大切にしたい。


 クラリスは何度もその一文を読んだ。


 書類の文字が、少しにじんで見えた。


「……レオン様」


「返事は急がない。これは契約というより、願いだから」


「契約官に願いを渡すのは、少し危険ですよ」


「なぜ?」


「条件を確認してしまいます」


 レオンは真剣にうなずいた。


「確認してほしい。足りない条項があれば直す」


 その真面目さが、たまらなく嬉しかった。


 クラリスは封筒を胸に抱いた。


「ひとつ、大事な条項が抜けています」


「何だろうか」


「忙しい時でも、一緒にお茶を飲む時間を作ること」


 レオンの目がわずかに見開かれる。


「それは、追加すれば受けてくれるという意味か」


「契約官としては、まだ精査が必要です」


「クラリスとしては?」


 彼女は少しだけ笑った。


「喜んで、お受けしたいです」


 レオンの表情が、驚くほど柔らかくなった。


 市場の喧騒の中で、彼は静かにクラリスの手を取った。


 派手な告白ではない。


 花びらも、宝石も、楽団の音もない。


 けれどクラリスには、かつてのどんな夜会よりも輝いて見えた。


 その後、王家はすぐには崩壊しなかった。


 国というものは、1人が抜けただけで翌日に倒れるほど単純ではない。


 けれど、軽んじた約束の代償は確かに残った。


 優遇価格は戻らず、商人たちは慎重になり、隣国との交渉には以前の倍の時間がかかった。


 アレクシス王太子は、数年かけて実務を学び直すことになった。


 彼が王位を継げるかどうかは、まだ誰にもわからない。


 イザベルは王宮から距離を置き、社交界で華やかに笑うだけでは済まない現実を知ったという。


 そして北方は、少しずつ豊かになった。


 クラリスが結んだ契約によって、街道が整い、倉庫が建ち、薬師が増え、商人が集まった。


 紙仕事しかできない地味な女。


 かつてそう呼ばれた令嬢は、今日も机に向かっている。


 ただし、今の机には窓がある。


 窓の外には、彼女の結んだ約束で動き出した街がある。


「クラリス」


 レオンが執務室の扉から顔を出した。


「お茶の時間だ」


「あと1通だけ確認を」


「追加条項第1項」


 レオンは真面目な顔で言った。


「忙しい時でも、一緒にお茶を飲む時間を作ること」


 クラリスはペンを止めた。


 そして、笑った。


「契約違反はいけませんね」


 彼女は書類を閉じ、席を立つ。


 かつて王宮で奪われたと思った未来は、形を変えてここにあった。


 王太子妃ではない。


 王家の影でもない。


 自分の名前で結んだ約束が、自分の足元に道を作っている。


 クラリス・ベルナール。


 婚約破棄された令嬢。


 紙仕事しかできないと笑われた契約官。


 そして、北方の交易と暮らしを支える、新しい約束の担い手。


 彼女は今日も、インクの乾いた契約書にそっと手を置く。


 紙は、ただの紙ではない。


 そこに守るべき人がいる限り、約束は力になる。


 だから彼女は、これからも書き続ける。


 誰かを縛るためではなく。


 誰かの明日を、きちんと守るために。


短編─了



反応次第で連載化を検討します。

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