エイルの石 ―はじまりの歌
森の木漏れ日が、ほどけては結び直されていく。湿った土と葉を踏みながら、少年エイルは鼻歌を歌っていた。歩くたびに、背負った籠の薬草がわずかに香った。
エイルは、背の高い幹に手を触れた。
少し湿った、木の皮の感触。
彼の視線の先、木と木の隙間から、砕かれた光の粒が遊ぶように舞っているのが見える。
微かな波の音。
向こうには、森の湖。
水の香りに誘われるように、彼は歩いた。
途中で拾った長い木の枝で、すれ違う幹を叩きながら進む。
やがて、視界が開けた。
大きな湖。
向こう岸は霧に包まれ、樹木は深い青に沈んで見える。
湖の澄んだ水は透明で、水底の石がよく見えた。
湖沿いにふらりふらりと歩き続ける。
そのうち、ぽっかりと口を開けた、苔むした岩の洞窟の入口が見えてきた。
それはエイルの背丈ほどの穴。足元をちょろちょろと流れる小川が、道標のように洞窟の中へと続いている。
少年は足を止めた。
「ここ……。村の人たちが入っちゃいけないって言ってたところだ」
覗き込んでみる。
遠くの水の音が、少しぬるやかな空気にのって、エイルの頬を微かに撫でた。
狭い道。
だけど、どうしてか怖くない。
一歩、踏み込んでみた。
ブーツの底が、確かに洞窟の石を踏んだのに、音はしなかった。
不思議に思って足踏みをしてみる。
――やはり音はしない。
「変なの」
エイルは木の枝で壁を叩きながら奥へ奥へと入っていった。
「あ。あー。あー」
足音も、枝で壁を叩いた感触もあるのに、音だけが抜け落ちていた。だけど、声だけはよく響く。
洞窟にあるのは、エイルの声と、水の音だけ。
どこにも空は見えないのに、洞窟の中は暗くなかった。
エイルの足元を流れる小川の石が、僅かに光を帯びている気がする。
人ひとりがやっと通れるほどの道は、どこまでも続いていた。
しばらく歩くと、少し開けた場所に出る。
村一番の大男が立っても、頭をぶつけない高さの場所。
ちょうどいい大きさの岩が中央にあり、エイルはそれに腰掛けた。
お尻が、ひんやりと冷たい。
「あー」
声がどこまでも澄んで響く。
エイルは、つい、歌った。
なぜか、どうしても歌いたくてたまらなかった。
石が、エイルの声を欲しがっているように感じたのだ。
歌詞も、メロディも、思いつくままのめちゃくちゃな歌。
その声は洞窟の壁を反響し、透き通ってどこまでも転がっていく。
エイルは、へとへとになるまで歌い続けた。
「……ふぅ」
歌うのをやめて足元を見ると、そこには、青白く光る石。
エイルの拳ほどの、少し透き通った石は、触るとわずかに温かい。
彼はその石を拾いあげて、腰掛けていた滑らかな岩から立ち上がった。
顔を上げると、洞窟の壁にも、天井にも、地面にも、たくさん光る石があった。
「……きれい!」
エイルはそれを静かに眺めた。
温かくて、青白く光る石を。
生まれたばかりの星のようで、胸の奥が、じんわりと熱くなった。
――どこかで、水の跳ねる音。
エイルが振り返ると、背負った籠から薬草の匂いが立ち上がった。
「……そろそろ帰らなくちゃ!」
少年は光る石を一つだけ持って、洞窟を出た。
石を大切に包んでいる手の中は、やっぱり少しだけ温かかった。
---
エイルは村に戻ると、さっそく隣の家に住む男を見つけた。
「おじさん! 見て!」
「おう、エイル。どうした」
手のひらを開いてみせる。
男はそれを覗くが、眉を上げた。エイルと、石を交互に見る。
「……ただの石だな」
「え?」
エイルは、自分の手の中の石を見た。
そこにあったのは、灰色の、ただの丸石だった。
温かくも、青白く光ってもいなかった。
「……あれ?」
男は笑った。
「子どもは石が好きだよな。
……まぁ、それも丸くてきれいな形だと思うぞ」
エイルは首を振る。
「違う! 違うんだよ!
おじさん、見てて!」
エイルは、石を抱いて歌った。
歌詞も、メロディもめちゃくちゃの歌。
だけど、光るように願いを込め、先ほどよりも少しだけ丁寧に歌った。
やがて、手の中がじんわりと温かくなってくる。
エイルは歌うのをやめて、手をそっと開いた。
「ほら、見て!」
小さな手の中の丸い石は、青白く、ゆっくりと明滅した。
それはまるで、心臓が脈打つかのように。
途端に、男は顔の色をなくした。
「……エイル。
それ、どこで拾ってきた」
声が、震えている。
エイルは口を結んだ。
大人に入ってはいけないと言われていた洞窟に入ったのだ。言えるわけがなかった。
「まさかお前……。
洞窟に入ったりしていないよな?」
「え」
「……エイル! まさか本当に入ったのか!?」
男の大声に、村の人々が集まってくる。
大人たちに囲まれて、エイルは口の中が、からりと乾いた。
「で……でも、この石、本当にきれいなんだよ!」
エイルは石をギュッと抱きしめて、また歌い出した。
その刹那、――乾いた音。
エイルの頬が男に強く叩かれ、少年は地面に倒れ込んだ。
石は彼の手を離れ、地面を転がる。
「歌うんじゃない!」
転がった石が、また青白く光った。
村人たちから、悲鳴が上がる。
「何てものを持って帰って来たんだ!
これは忌み石だ!
早く捨ててこい!!」
「……そんな」
「早くしろ!!」
エイルの肩がびくりと跳ねた。
少年は慌てて石を拾うと、その場から駆け出した。
---
村を少し離れたところに生えた大きな木の虚の中で、エイルは泣いていた。
手の甲で何度も涙を拭うが、それは止まることを知らない。
「……おや、そうか。見つけたのか」
エイルはしゃくり上げながら、顔を上げた。
木の虚を覗き込んでいるのは、一人の老婆だった。
彼女は「どっこいしょ」と言いながらエイルの隣に寄り添うように腰を下ろす。
「……ばあちゃん」
老婆は顎をしゃくるようにして、エイルが抱える石を指した。
「……それが好きかい?」
少年は、ヒックヒックと肩を揺らしながら、手の中の石を見下ろす。
灰色の丸石。
今は少し、ひんやりとしている。
エイルは老婆の目を見て、頷いた。
「……あったかいんだ。この石」
老婆は「そうかい」と小さく笑う。
ひどくしゃがれているのに、不思議と柔らかい声だった。
「……それはね、人々に光をもたらす石だよ」
エイルはポツリと涙を落としきると、口を開けた。
じわじわと頬があたたかくなる。
「……それは、すてきだね」
老婆は頷いた。
「あぁ、そうさ。
だが、光はね、人を照らすが、焼くこともある」
エイルは目を見開いて、石をギュッと握る。
「でも、――考えてみなさい。
人は石をもてば、石を人にぶつける。
刃をもてば、刃で殺し合う。
何もなくとも、手で首を絞めるだろうよ」
少年の肌が粟立った。
「……怖い」
老婆は目を細めて、やんわりと少年を見つめる。
「怖いのは人間だ。
――さて、エイルや。
どうする? その石」
「どうするって、どういう意味?」
老婆は指先で、エイルの手の中の石をコツッと叩いた。
少年は目を見開く。
ほんの一瞬だけ、石が青く光った気がしたからだ。
「お前さんは、光を分けてあげるかい?」
エイルは、灰色の石を見つめてから、ゆっくりと顔を上げる。
老婆の瞳は、光っていた時の石の色に似ていた。
青いような。
白いような。
不思議な色。
「……喜んでくれる人がいるなら、あげたいな」
エイルがそう言うと、老婆はそのしゃがれた声で笑った。
「そうかい。
じゃあ、そうしようか」
老婆はまた「どっこいしょ」と言いながら立ち上がると、ゆったりと歩き出す。
エイルは、彼女の後をぴたりとついて歩いた。
胸の奥が、ざわりと鳴った。
それが嬉しさなのか、怖さなのか、 エイルには分からなかった。
---
エイルは老婆に連れられて、王都にやってきた。
初めて見る整った石畳。
見慣れぬ仕立ての服を着た人々。
舗装された広い道を、馬車が通り過ぎる。
建物は背が高く、空が小さかった。
少年は、繋いでいた老婆の手をギュッと強く握った。
老婆は何も言わず、柔らかくエイルを見るだけ。
市場では、あちこちで様々な人が声を張り上げていた。
「奥さん! こっちの商品見てってよ!」
「煙草だよ!」
「ほら、これ新鮮なんだから」
「おまけつけようか?」
人を避けながら、並ぶ店の前をしばらく歩くと、やがて、開けた場所に出る。
広場の端で商売道具を広げていた靴磨きの少年と目が合った。
彼はエイルに向かって、にっと笑う。
老婆は広場に立つと、静かに空を見上げた。
エイルも、乾いた老婆の手を握りながら、行き交う人々を眺める。
老婆は何も言わず、エイルを広場に立たせた。
まるで、夜を待つみたいに。
段々と、あれほどの喧騒だった市場の店が閉まり始めた。
建物の向こうに太陽が完全に隠れてしまうと、灰色の石畳は色を落とす。
街のどこかからか、楽器と誰かの歌声が聞こえてきた。
通り過ぎた女からは、香水の香りが漂う。
広場の中央に一本だけ立つガス灯の明かりは、ゆらゆらと寂しげだ。
薄暗く、人の顔は半分も見えない。
「エイルや。歌ってご覧」
エイルは驚いて老婆の顔を見上げた。
「……ここで?」
「そうだよ」
エイルは広場を見渡す。
人々は夜になっても絶えず行き交っている。しかし、エイルたちを気にするような人は、誰一人としていない。
「エイルの歌には、力がある。
その力が石を光らせる。
石は、その歌を広げるんだ。
そうすると、とても心地の良い歌になるんだよ。
……エイルや。自信を持って、歌ってご覧」
エイルは、ポケットに入れていた石を取り出すと、両手で持った。
しばらくじっと見つめ、顔を上げた。
息を大きく吸い、歌い出す。
今日は、夜の歌。
星を祝福する歌。
だけど、やっぱり歌詞もメロディもめちゃくちゃの歌。
はじめは、誰もエイルの歌を聴いていなかった。
エイルの手の中で、石が、じんわりと光り始める。
青白い脈動。
それは、エイルの幼い顔と、エイルの手を柔らかく照らした。
あの靴磨きの少年が、エイルの少し離れたところに座って、彼の歌を聴き始めた。
ぽつり。
ぽつりと人が集まってきた。
エプロンをかけたままの男も、靴磨きの少年の横に座って、エイルの石を眺めながら歌を聴く。
酒に酔って大声で笑っていた男たちも、ふと話すのをやめて、立ったまま耳を澄ませた。
商売女は、ちらと見るだけ。
裸足の子どもは、離れたところで膝を抱えて聞いている。
エイルが歌うのをやめると、小さな拍手が起きた。
それは、波のように広がる。
老婆がエイルの帽子を取って彼の前に置くと、人々は銅貨を入れて、静かに去って行った。
靴磨きの少年は近づいてくると、銅貨を帽子に放り込み、エイルに向かって笑う。
「とても素敵だった!
また歌ってくれよ!」
エイルは頬を染めた。
「……うん!」
少年は手を振り、商売道具を抱えて去っていく。
広場には、ガス灯の小さな明かりだけが残った。
遠くの喧騒。
小さな空には月が浮かんでいる。
エイルが老婆の手を取ると、老婆はしゃがれた声で笑った。
「……良い歌だった。石も喜んだだろうよ」
エイルはにっこりと笑うと、大きく頷いた。
---
来る日も来る日も、エイルはあの広場で歌った。
ガス灯が一本だけ立つ、薄暗い石畳の上で。
歌を聴きに来る人が、少しずつ増えていった。
そんなある日、歌い終わって帽子を拾うエイルに、男が声をかけてきた。
頬に傷のある男は、にっこりと笑う。
「なぁ、坊主。うちの店で働かないか」
エイルは老婆を見上げた。彼女は一度だけ首を横に振る。
少年は男をじっと見て、きちんと答えた。
「……働かないよ」
「うちの店に来れば、寝るところも食いもんも用意できる。
金だって手に入るぞ」
男の瞳が、じわりと光った。
エイルはもう一度、老婆を見る。
老婆は男の方を向いて、小さくため息を吐いた。
「お前さんの店ってのは、見世物小屋だろう。
探してるのはあんたじゃない。
帰りな」
「おいおい、いい金が入るぞ?」
老婆は猫でも追い払うかのように、手を振った。
「帰りな」
男は舌打ちすると、踵を返して去っていった。
エイルは銅貨で重たくなった帽子をギュッと両手で握りしめる。
「ばあちゃん……」
「光を分けてやりたいんだろ?」
「でも……。
宿を取るにも、パンを買うにも、銭がいるんだよね……?」
「お前さんは歌いな」
エイルが見た老婆の瞳は、相変わらずエイルの石の色をしていた。
「それが、必ず届く」
「……誰に?」
「光に変えられる人さ」
老婆は小さな夜空を見上げた。
エイルも追いかけるように見上げた。
星が近くに見えた。 きれいだった。
---
それからまた、いくつもの夜を越えたある日。
その日も、エイルは歌い終わると石をポケットにしまい、帽子を拾い上げた。
「……少年」
澄んだ、若者の声。
エイルが顔を上げると、きれいな上着を羽織った青年が話しかけてきた。
彼は腰をかがめて目線を合わせると、エイルのポケットをちらと見る。
服の上からでも、それはじんわりと光って見えた。
「その石……少しだけ見せてもらえないか?」
青年の瞳は、澄んだ湖の色をしていた。
初めて見るような。
懐かしいような。
そんな気がして、エイルの胸が締め付けられた。
エイルがポケットから石を取り出して両手に乗せて見せると、青年は顔を寄せてゆっくりと眺める。
石はまだ温かく、青白い光を明滅させていた。
「……なぜ光るんだろう?」
エイルの手のひらと、青年の頬を、石の柔らかい光は照らす。
「僕も……分からない」
石の脈を、エイルと青年は静かに見つめた。
「……この子の良質な魔力を引き出してるのさ」
「……魔力だって?」
青年は眉を寄せて、老婆を見る。
「魔力は、お前さんにもあるよ。私にも。そこらへんの石にもね」
青年は考え込むように顎に触れ、それからエイルの瞳を見た。
「触ってみてもいいかい?」
「……いいよ」
青年は指先で石をそっとつつく。
触れた指先をしばらく見つめてから、また石に手を伸ばした。
今度はもう少しゆっくりと。撫でるように、優しく。
「……熱を放っているんだな」
青年のつぶやき。
それは、遠くから聞こえてくる弦の音にかき消されてしまう。
行き交う人々の足音。
エイルが身じろぎをすると、青年はやっと石から視線を少年に戻した。
「少し……石を分けてもらえないか?」
エイルは、後ろにいた老婆を見上げる。
「時が来たんだよ。お渡し」
「……うん」
青年は懐から銀貨を取り出し、エイルに差し出した。
エイルは驚いて、また老婆を振り返った。
「……もらっておきな」
「……うん」
手のひらに乗せられた銀貨。
それはずっしりと重くて、冷たかった。
青年はしゃがみ込むと、石畳の上にハンカチを敷いた。
「……ここに、その石を置いてくれるかい?」
エイルは頷くと、素直に石をハンカチに置く。
膝を抱え、青年の手を見つめた。
彼は懐から小さなナイフを取り出すと、刃を石に当てた。
柄の上から、杖を使って叩く。
何度も叩くうちに、やがて、コツリと音を立てて石は二つに割れた。
青年は、歪に割れた石の、大きい方をエイルに返し、 小さい方をそっとハンカチに包んだ。
「……小さい方でいいの?」
エイルがそう聞きながら顔を上げる。
ほろり、と、青年の瞳から涙が零れた。
エイルは目を見開く。
「……どうして泣いているの?」
青年はハンカチごと、両手でそっと包み込んだ。
「……いや、なぜだろう?
ずっと、この時を待っていた気がする」
頬に涙を伝わせたまま、青年は視線を上げて、まっすぐにエイルを見る。
「……少年、名前は?」
「……エイル」
「エイル。
私は必ずここへまた来る。
この場所に、いてくれるかい?」
青年の手の中の石が、ハンカチ越しに、かすかに光った。
エイルは、頷いた。
---
それから、季節がひとつ、ふたつと巡った頃。
変わらず広場で歌っていたエイルのもとに、あの青年がやってきた。
彼はエイルの歌を、人の輪から少し離れた場所で、目を細めて静かに聴いている。
エイルが気づいて手を振れば、青年は丁寧に頭を下げた。
歌い終わると、人々は地面に置かれたエイルの帽子に銅貨を投げ入れ、三々五々、去って行く。
人波が引くと、青年はエイルの前に立って、深く頭を下げた。
「エイル……。
待たせてしまったね」
少年はにこにこしながら首を横に振る。
青年は手にしていた包みを地面に置くと、布を払った。
中に入っていたのは大きなガラスの壺のようなもの。その上下を真鍮の蓋が覆っている。オイルランプにも似ているが、少し違う。
ガス灯の弱い明かりが、その蓋に微かに弾かれていた。
青年は、蓋の上に描かれた円のような線に、手を翳す。
水が跳ねるような小さな音が生まれ、それから、空気が震える低い音。
ガラス壺の下から上へ、青白い光が走った。
エイルの肌が、粟立つ。
その光は壺全体をじんわりと満たしていき、どんどん強くなる。
やがて、ガラス壺は、まっすぐ見ていられないほどに、輝いた。
エイルが青年を見ると、彼は柔らかく笑っていた。
以前は見えなかった彼の髪色や、丁寧に磨かれたブーツまではっきりと見える。
「エイル、君の瞳の色は、魔導ランプと同じ青色だったんだね」
「……魔導ランプ?」
青年は、手で光るガラス壺を示した。
「君が分けてくれた石で作ったランプさ。
ほんの少しの欠片で、こんなに眩しい」
エイルはそっと手を伸ばしてガラスに触れてみた。
――ひやりと冷たい。
静かなのに、力のある灯りだった。
エイルは青年の瞳を見る。
それは、魔導ランプの光を映して、強く揺れていた。
「本当にあなたが……“光に変えられる人”だったんだ……」
青年は、首を振った。
「エイル、君が光を与えてくれたんだ」
エイルはポケットの中の石に触れる。
「僕の石が……」
青年は、エイルに手を差し出した。
「エイル、私と共に研究をしないか。
この石は、もっと、世界に光を与えられる」
エイルはその手を見て、つばを飲み込んだ。
後ろにいる老婆を振り返る。
彼女は、柔らかく微笑んでいた。
「……好きにおし」
しゃがれた声。
いつもの、つつみ込んでくれるような、優しい声。
エイルは息を吐き、服で手を拭いた。
そして、青年の瞳を見つめ、彼の手を取る。
大きくて、温かくて、力強い手。
反対の手で握っていたエイルの石も、じんわりと温かくなっていた。
---
エイルは、青年の小さな研究室に移り、生活するための部屋も貰った。
数日かけて部屋を整えたある日、彼は石畳の広場に老婆を迎えに帰ってきた。
昼の広場は、市場の喧騒に満ちていた。
だが、老婆の姿は、そこにはなかった。
日が暮れるまでそこで待ったが、やはり彼女は現れなかった。
「僕が歌ってないから、ここには来ないのかな……。
また明日来よう……」
エイルは研究室に戻った。
日が落ちても、青年は実験を続けていた。その横顔を眺めながら、エイルも椅子に座る。
「ばあちゃんも、ここに呼べたらいいと思って迎えに行ったんだ。
だけど、会えなかった。
明日も見てくる」
青年が顔を上げる。
「ばあちゃん?
君は一人で王都に来たんじゃなかったか?」
「え?」
青年は不思議そうにエイルの顔を見つめた後、また手元へ視線を戻した。
エイルは呆然と、青年を見つめた。
次の日も、エイルは石畳の広場にやってきた。
借りていた安宿に顔を出すが、老婆などいないと言われる。
とぼとぼと街を歩いていると、よくエイルの歌を聴きに来てくれた靴磨きの少年を見つけた。
「やぁ。君は青い石の歌の少年じゃないか。
もう歌わないのかい?」
「こんにちは。
ねぇ、ばあちゃん、どこに行ったか知らない?」
「……ばあちゃん?」
「いつも僕と一緒にいた……」
「……残念だけど、俺は君のことしか覚えていないよ。
気が向いたらまた歌ってくれよ。聴きに行くから」
「……うん。ありがとう!」
エイルは、見世物小屋に足を向けた。
薄暗い入口の扉を開けると、かつてエイルに話しかけてきた店主が、退屈そうに椅子に座っていた。
「お、坊主じゃないか。
うちで働く気になったかい?」
「ねぇ、僕と一緒にいたばあちゃん、どこに行ったか知ってる?」
「婆さんだって?
坊主はずっと一人だっただろう?」「え?」
見世物小屋を出て、エイルは街中を走った。
よくパンを買っていたパン屋の女将。
雑貨屋の店主。
煙草売の少年。
「……どうして?」
誰も、老婆のことを覚えていなかった。
人が行き交う広場。
薄暗いガス灯の下で、エイルは立ち尽くした。
エイルはハッとして、ポケットの中の石を取り出す。
今は、灰色の欠けた石。
エイルが歌えば青白く光る。
その色は、老婆の瞳と同じ色だったはずだ。
――だが、
「僕も……。
――僕も、ばあちゃんの名前を知らない……」
エイルは、石を抱きしめた。
それは、ほんのりと温かく、老婆のしゃがれた声に似ていた。
喉の奥が熱くなり、エイルは一雫だけ、涙を落とした。
エイルは石をポケットにしまうと、石畳を駆け出す。
小さな空に浮かぶ丸い月は、彼を静かに、柔らかく見つめていた。
---
あれから、数十年の時が経った。
王都の尖塔群から、灰色の煙が吐き出されている。
整った石畳には、等間隔に並ぶ青白い魔導街灯。
大通りでは魔導動力で走る馬車が、いくつもすれ違う。
空には魔導飛行船が悠々と飛んでいた。
この世界には、魔導が、どこにでもあった。
石畳の広場。
ベンチに腰掛け、魔導飛行船を眺めている老人がいる。
彼は、ジャケットのポケットに手を入れた。
取り出した手のひらの中には、欠けた灰色の石。
老人は鼻歌を歌う。
誰のための歌なのか、それは誰も知らない。
歌詞もなく、メロディもめちゃくちゃの自由な歌。
彼の手のひらの石が、淡く、青白く光っている。
誰も彼に目を留めなかった。
彼もまた、それを望んでいなかった。
だけど、今日も、魔導の唸りが王都に小さく響いている。
あの石の欠片は、今もどこかで灯っているのかもしれない。




