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9 五百円玉

「ただいま」

 部活が終わって家に帰る。部屋の中から『お帰り』という声はなく、薄暗いキッチンに母が一人座っていた。

「お母さん、ただいま」

「ああ……優衣」

「ご飯は?」

 母がテーブルの上のバッグから財布を取り出し、五百円玉を優衣の前にすべらせる。

「これで買ってきて」

「麻衣の分は?」

「あの子は友達の家で食べてくるって」

 母は生気のない声でそう言って立ち上がると、奥の部屋へ入っていった。

 優衣は五百円玉を握って靴を履く。母が夕飯の支度をしなくなったのはいつからだろう。あんなに好きだった料理も部屋の片付けも……母は家事のすべてを放棄して、毎日をぼんやりと過ごす。

 ――お父さんのせいだ。

 父に女がいることを、優衣は知っていた。父と母の口論を何度も聞いていたから。何年か前のような温かな家庭は、もうこの家にはない。いや、もしかしたらあの家庭も、すでに作り物だったのかもしれない。


 優衣は自転車に乗って走った。近所のコンビニで毎日弁当を買うのは恥ずかしかったから、わざわざ遠くの店を何件か回るのが、いつの間にか習慣になっていた。

 今夜は駅の近くにあるコンビニに入り、弁当を手に取った。そして何気なく、お菓子売り場に目を向ける。そこでは五歳くらいの男の子が店内をきょろきょろと見回していて、やがてひとつのお菓子を服の中に隠し、走り出した。

「あ!」

 男の子の顔に見覚えがあった。不審な動きをしていたその子を、店員が呼び止めようとする。

「あ、あのっ、ごめんなさい! あの子私の弟なんです。お金払うの忘れちゃったみたいなんで……私が払いますっ」

 優衣は怪訝な顔をしている店員の前に五百円玉を置くと、店を飛び出し男の子の後を追った。


 店を出てあたりを見回す。優衣の目に、住宅街のほうへ走っていく男の子の姿が見える。

「ちょっと待って!」

 優衣の声に気づいているのかいないのか、男の子は振り向かずにどんどん走る。

 ――あの子、見たことある。

 優衣が男の子を追いかける。その子は住宅街を抜け、小さな公園へ駆け込んだ。


「ゆうちゃん! とってきた!」

 息を切らしながら、男の子がベンチの前で止まった。そして、ベンチに座っている『ゆうちゃん』にお菓子を差し出す。

「これだけかよ? ヘタクソがっ」

「だって……見つかっちゃうよ……」

 ――やっぱりそうだ。

 優衣が黙ってベンチに近寄る。男の子が振り向き、ベンチに座っている少年が顔を上げる。優衣はその顔を思いっきりひっぱたいた。

「いてっ」

「裕也っ! あんた、弟になんてことさせてんのよっ!」

 優衣の声があまりにも大きかったので、裕也の弟が驚いて泣きそうな顔をした。

「暴力はいけないんだろ?」

「話そらさないでよっ! それ万引きでしょ!?」

 裕也が黙って優衣を見た。優衣はぎゅっと両手を握りしめる。

「慎吾。もう帰っていいぞ」

「う、うん」

 裕也の声に弟が逃げるように公園を出て行く。誰もいない薄暗くなった公園に、優衣と裕也だけが残った。

「まったく、あいかわらずうるさいんだから、お前は」

 裕也が優衣の前にお菓子をちらつかせる。

「わかったよ。もうやらないし、やらせない」

「本当にわかってるの!? 自分のしたことが」

「わかってるって」

 公園の切れかけた外灯の下で、裕也が優衣の顔を見た。優衣の瞳にあの懐かしい裕也の顔が映る。優衣がひっぱたいたのとは反対の頬に、恵美が言っていた傷がついているのがわかった。

「なんだよ?」

「え?」

「まだ他になんかあるのかよ?」

 裕也が面倒くさそうに言う。優衣は言おうかどうか迷いながらも、裕也の頬を指さした。

「それ、どうしたの?」

 裕也は少し不思議そうな顔をしたあと、小さく笑って優衣に答えた。

「昨日うちのばばあがキレてさ。俺に皿投げつけんの。最近は素手だと俺にかなわないと思って、物投げてくんだよな。まあ、いつものことだけど」

 優衣は裕也の笑顔から目をそらす。そして裕也の座っているベンチに、ひとり分くらい隙間をあけて、遠慮がちに座った。

 ふたりはそれから何も言わなかった。空に残った夕日のかすかな明るさも消えて、あたりはすっかり暗くなっていた。

『好きな人いるか、三浦に聞いて?』

 優衣の頭の中に、千夏の声が聞こえてくる。

 ――聞かなきゃ……

 今聞くしかないと思った。学校でふたりきりで話せる機会なんてないと思うし……顔をひっぱたいた後に聞くのもどうかと思うけど……しかし優衣の口から出た声は、全く別の言葉だった。

「シロ、元気?」

 優衣が前を見つめたままつぶやく。裕也はいつものように軽く笑って優衣に言う。

「死んだよ」

「え?」

 驚いて隣に座る裕也を見た。

「俺がいない間に処分場につれていかれた。殺されたんだ」

 優衣は何も言えなかった。シロに顔を寄せて笑った、あの日の裕也が忘れられなかったのに……

「七瀬?」

 裕也の昔と少し違う、でもやっぱり変わっていない、かすれた声が聞こえてくる。

「泣いてんの?」

 優衣は思い切り首を振る。だけど涙が後から後からあふれてきて、制服のスカートにぽたぽたと落ちる。

 ――五百円玉使っちゃった……今日はお弁当買えないな……

 そんなことを思いながら、優衣は涙が止まらなかった。裕也はそんな優衣の隣で、何も言わずにずっと、暗くなった空を見上げていた。

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