5 鳥になれたら
その日は日曜日だった。優衣は家族と一緒にショッピングセンターへ買い物に出かけた。
「パパー、これ買ってぇ」
おねだり上手の麻衣が、新しいサンダルをねだっている。
「しょうがないなぁ。優衣はなにか欲しいものないのか?」
「あたしは……ないよ」
「優衣はしっかりしてるからね。麻衣みたいになんでもかんでも欲しがったりしないのよ」
母がそう言って笑う。
――しっかりしてる? そんなことない。ほんとはあたしも甘えたい。だけどそれより先に、麻衣が甘えちゃうから……
「パパー、お腹すいたぁ」
「じゃあレストランでも寄ってくか?」
「あたしハンバーグ食べたーい!」
「またハンバーグ? 麻衣はそればっかりだな」
麻衣が父と手をつないで歩いていく。母もその隣に並んで歩く。優衣はぼんやりと、そんな三人の背中を見つめていた。
「もうお腹いっぱいだよー」
「麻衣、よくあんなでかいパフェ食べれたなぁ」
ファミレスで食事をして、父と麻衣が店を出て行く。会計をしている母の後ろで、優衣は黙って立っていた。そしてそんな母の向こうに、優衣は偶然見てしまった。
若い母親が「こぼさないで食べなさい」などと言って、小さな男の子の口に料理を運んでいる。短髪で体格がよくて、ちょっと怖そうな父親は、なにも言わずに昼間からビールを飲んでいる。
楽しそうとは言えないけれど、普通といえば普通の、家族の風景。だけどそこに裕也の姿がない。それに気づいたのは優衣だけなのだ。
「どうしたの? 帰るわよ、優衣」
「う、うん」
会計を済ませた母が店を出て行く。優衣はもう一度あの家族の席を見たあと、急いで母の背中を追いかけた。
車が家のガレージに着いた。父と麻衣が笑いながら、荷物を持って家に入る。だが優衣は家へは入らず母に言った。
「あたしちょっと出かけてくるね」
「あら、どこに?」
「友達の家。すぐ帰るから」
駆け出す優衣の背中を母が見つめたが、気にも留めずに、すぐ家の中へ入っていった。
セミの鳴き声が耳に響く。坂を駆け上がる優衣の額に、じんわりと汗がにじむ。やがて優衣は見慣れた家の前で立ち止まり、門を開けて庭へ入った。
夏になってさらに草が生い茂った庭の中から、シロがワンワンと吠えてくる。激しく振っているシロのしっぽの先は、やっぱり白い。優衣はあの日の裕也の笑顔を思い出しながら、息を整え玄関の前に立つ。するとそんな優衣の頭上から、聞きなれた声が聞こえた。
「ななせー!」
優衣が顔を上げる。ベランダから体を乗り出すようにして、裕也が優衣を見ている。
「上がってこいよ? 鍵開いてるから」
優衣は黙ってうなずくと、裕也の言うとおり玄関のドアを開けた。
裕也の家の階段をゆっくりと上る。狭い階段には何やら荷物がいっぱい置かれていて、すごく上りにくかった。
――裕也のお母さん、片付けしないのかな……
人の家のことをとやかくいうものではないと思うけど、どう見ても優衣の家とは違いすぎた。優衣の家は母がきちんと掃除も片付けもしてくれるから、家の中がこんなに散らかることはない。庭の草だって、伸びれば父が刈ってくれるし……つまり『お化け屋敷』などとからかわれるのは、裕也のせいではないはずなのだ。
二階に上って裕也の部屋をのぞいた。裕也はベランダの手すりにもたれて、背中を向けている。そしてその向こう側には、広々とした景色が広がっていた。
「わあ、すごい、景色いいっ」
「だろ?」
思わずベランダに駆け寄った優衣に、裕也が自慢げにそう言った。
高台に建つこの家のベランダからは、優衣の住む街が見渡せた。地方にある、なんにもないこの街。住宅街の向こうに小学校が見えて、もっと向こうに駅と線路が見える。そしてその先には緑の山々が連なり、顔を上げれば青い空がどこまでも広がっていた。
「気持ちいいねー」
いつの間にか優衣は裕也の隣で、景色を眺めていた。蒸し暑い風は、決して爽やかとは言えないけれど、優衣はその風を全身で受けとめた。裕也と一緒に見上げた夏空に、一羽の鳥がすうっと飛んでゆく。
「ねえ、今日は弟いないの?」
優衣が空を見ながらつぶやいた。
「親と飯食いに行ってるよ。あいつは本当の子供だから、優しくされてんだ、わりと」
そう言って、裕也がふっと笑う。優衣はそれきり何も聞かなかった。
『あんたは一緒に行かないの?』
その質問の答えは、聞かなくてもなんとなくわかったから。きっと、裕也はこう言うだろう。
『俺は連れて行ってもらえないんだ。本当の子供じゃないから』
二人はしばらく何も言わずに景色を眺めていた。やがて裕也が独り言のようにつぶやく。
「鳥になれたらいいのになぁ……」
優衣が裕也の横顔を見つめる。
「鳥になれたら、こんな街すぐに出て行けるのに……」
裕也のかすれた声が、優衣の胸に染み込んでいく。深く、深く……
――あたしも鳥になれたら……
学校のことも、友達のことも、家族のことも、全部忘れて……
――裕也と一緒に飛んで行くのに……
「あー、腹減ったぁ」
裕也がベランダの手すりをつかんで両手を伸ばす。
「あたし、チョコなら持ってるよ」
ポケットの中をごそごそあさって、キャンディーみたいに結んである、二つのチョコレートを取り出した。そしてそれを裕也の手のひらに握らせる。
「あげる」
裕也はそんな優衣に笑いかけると、ひとつを優衣の手の中にもどし、ひとつを口の中に放り込んだ。
「うっめー!」
裕也が嬉しそうに笑っている。優衣もチョコレートを開けて口に入れる。
甘いミルクチョコレートのはずだったのに、その日のチョコは、なぜかほろ苦い味がした。




