16 どこにも行けない
「キャー! 裕也っ、スピード出しすぎだよぉ!」
「だいじょうぶだって! ビビりだなぁ、七瀬は」
雨で濡れた街を裕也の自転車で走る。渋滞の車のライトを、街に灯った灯りを、自転車でぐんぐん追い越していく。いつの間にか空から落ちていた雨はやんでいた。
「あぶないよっ! こわいってば!」
「じゃあ、しっかりつかまってろ!」
裕也の右手が優衣の腕をつかみ、ぎゅっと自分の腰に巻きつける。優衣の濡れた体が裕也の背中にぴたっと張り付く。優衣は思わず目を閉じて、その体のぬくもりを感じ取る。
そしてその時ふと、小学生の頃の裕也の姿が目に浮かんだ。
――『殴られたんだ、お母さんに』
あの雨の日。裕也は傘もささないで、ひとりで水溜りを蹴飛ばしていた。さっき、雨に涙を洗い流してもらった優衣のように……
――もしかしたら、裕也も泣いてたかもしれない。
『裕也は、強いよね?』
『強い? 俺が?』
『うん。裕也は泣かないもん。いつも』
優衣の胸にいつかの会話がよみがえる。
「どこ行きたい?」
風に流れて裕也の声が聞こえてきた。優衣は少し考えて答える。
「……どこでも」
――このまま、裕也と一緒なら……
背中を向けた裕也が小さく笑って、自転車のペダルをぐんっと踏み込んだ。
本当は優衣もわかってた。自分たちはまだ中学生で、大人がいなければ生きていけなくて……本当はどこにもいけないってこと。鳥みたいに飛んでいくことなんて、できないってこと。
「腹減ったー」
川沿いの土手に自転車を止めて、裕也がごろんっと草むらに寝転ぶ。優衣は隣にしゃがみこんで、そんな裕也の顔をのぞきこむ。
「ご飯食べてないの?」
「うん。お前は?」
「あたしも」
優衣はそう言うと、ごそごそと制服のスカートのポケットをあさって、小さなキャンディーをふたつ取り出した。
「さっきもらったんだ。亜紀ちゃんに」
「亜紀? お前あいつと最近しゃべってないだろ?」
「でも今日一緒に帰ったの。久しぶりに」
優衣はキャンディーのひとつを裕也に差し出す。
「あげる」
裕也は「サンキュー」と笑って、優衣の手からキャンディーを受け取った。
空には、さっきの夕立が嘘のように、こぼれ落ちそうな星空が広がっている。川から吹いてくる風が、なんとなく気持ちいい。
優衣はキャンディーの包みを開けて、口に放り込む。そして濡れた草むらの上に座って、裕也に言った。
「けど裕也。どうしてあたしが亜紀ちゃんとしゃべってないとか、女の子たちにハブかれてるとか、知ってるのよ?」
裕也は寝転んだまま、キャンディーを口に入れる。
「どうでもいいだろ? そんなの」
「よくないよっ。どこであたしのこと見てるのよ? やらしー」
裕也がおかしそうに笑って、草むらの上に起き上がる。横を見ていた優衣の目が、ちょうど裕也の目と合った。
「うるせーな。誰だって好きなやつのことは気になるだろ?」
――好きなやつ?
裕也は優衣から目をそらすと、立ち上がって大きく伸びをした。
「あーあっ! 飴玉一個じゃ、足りないっつーのっ!」
――好きなやつって、好きなやつって……もしかしてあたしのこと?
「行く?」
「え?」
裕也が優衣のことを見下ろして言う。
「もっと遠くに行く?」
優衣は黙って顔を上げる。薄暗い中で裕也の真っ直ぐな目を見たら、心臓がおかしいほどドキドキしてきた。
「……もういい」
そうつぶやく優衣の髪を、風がそっと揺らす。
「もう……帰らなきゃ……」
父親と知らない女がいるあの家に。母と妹のいないあの家に。
――そしてあたしはあの家を出て、北海道に行かなきゃいけないの……
「ごめんね……裕也」
優衣はそう言って立ち上がる。雨で濡れた制服がずしりと重い。
顔を上げて裕也を見た。裕也は何も言わずに優衣のことを見ている。
「裕也……あたし……」
その時、ふたりの姿をまぶしいライトが照らした。
「君たち! そんなところで何をしているんだ!?」
土手の上からパトロール中の警官が、優衣たちのことを見下ろしていた。
駅前の交番を出て、優衣は父親と一緒に歩いた。
『中学生がこんな時間に、こんな川原で何をしていたんだ?』
優衣と裕也は警官に問い詰められて、交番まで連れて行かれた。すぐに親に連絡されて『迎えにくるように』と伝えられた。
十分もすると優衣の父が迎えに来て、優衣はすぐに帰されたけれど、裕也の親が来る気配はなかった。
「優衣」
隣を歩く父がつぶやく。
「悪いのは全部父さんだよな」
優衣は何も言わずに、ぼんやりその声を聞いていた。低くて頼もしいと思っていた父の声。でも今はその声を聞きたいとは思わなかった。
「もし北海道に行くのが嫌なら……」
「嫌じゃないよ」
優衣がつぶやく。
「あたし嫌じゃないよ?」
父が自分を見ているのがわかる。
「あたしおばあちゃんちに行く」
自分はまだ中学生で、少し遠くに行っただけで、すぐに連れ戻されてしまう子供で……大人がいなければ生きていけない。
――鳥になんて、なれるわけない……
優衣は顔を上げて星空を見る。そして、交番を出る自分の姿を見つめていた裕也の目を思い出し、そっとまぶたを閉じた。