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15 夕立

 授業の終わった教室は、たくさんの音であふれてかえっている。女の子たちの笑い声、男の子たちのふざけ声。机と椅子のぶつかり合う音、窓を閉める音、ドアを開ける音。そしてみんな思い思いの場所へ向かって、教室から出て行く。

 優衣も教科書をバッグに入れると、楽器を持って立ち上がった。恵美が千夏たちとくすくす笑っているのがわかる。

 ――へいき。こんなのへいき。あたしには好きな場所があるから。

 優衣は今日もひとりで音楽室へ向かう。窓からは梅雨明け間近の青い空が見えた。


「恵美、部活辞めるってー?」

「マジ? でもありえるかもー」

「あの子、やる気なさそうだったもんねぇ?」

 楽器の音に混じって、部員たちのおしゃべりが聞こえる。優衣はそんな声を聞きながら、フルートに唇を当てる。窓の下からは運動部の掛け声が今日も聞こえてきた。


 部活が終わって校舎を出た。空にはまだオレンジ色の光が残っている。

「優衣」

 突然声がかかって振り向いた。そこには久しぶりに見る亜紀の姿があった。

「亜紀ちゃん……」

「ひとり?」

「うん」

「一緒に帰らない?」

 亜紀がそう言って少し照れくさそうに笑う。

「……うん。いいよ」

 優衣の声に、スポーツバッグを肩にかけ直しながら、亜紀が並ぶ。そしてふたりはゆっくりと歩き出す。

 小学校以来だった。亜紀とこんなふうに並んで歩くのは……やがて亜紀がぽつりとつぶやく。

「ずっと、優衣と話したかったんだけど……いつも一緒にいる子がいたでしょ? だからなんとなく声かけにくくて」

「亜紀ちゃん」

 亜紀が優衣を見てにこっと笑う。優衣もいつの間にか亜紀の隣で笑顔を見せる。

「久しぶりだね。一緒に歩くの」

「そうだね。なんか懐かしいね」

 ふたりはそう言って笑った。夕焼け空の下、ふたりの影が長く伸びていた。


「ただいま」

 家には薄暗い灯りがついていた。この時間に父が帰っているのはめずらしい。

「お母さん?」

 優衣は思わずつぶやいていた。玄関に女性の靴が揃えてあったからだ。優衣は急いで靴を脱いで、真っ先にキッチンへ向かう。

 だけど……そこにいたのは母ではない女性だった。

「お帰り、優衣」

 冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら父が言う。知らない女性は椅子に座ったまま、優衣に向かってほんの少し会釈した。

「優衣、話があるんだ」

 父はテーブルにビールを置くと優衣に言う。優衣は突っ立ったまま、手に持っているバッグをぎゅっと握った。

「父さん、この人と一緒に暮らしたいと思ってる」

 父の声は優衣の耳を、右から左へすうっと通り過ぎる。

「優衣は嫌か? 嫌だったら、北海道のおばあちゃんが、おいでって言ってくれてる」

 優衣は黙っていた。

「どうする? 優衣」

 ――お父さんはずるい。そんなこと、あたしに聞くなんてずるい。

「あたし、おばあちゃんちに、行く」

「……そうか」

 父は心なしかほっとしたような表情をした。

 ――あたし、お父さんにも捨てられたんだ……

 優衣はちらりと女性の顔を見たあと、何も言わずに背中を向ける。そして今脱いだばかりの靴を履き、外へ飛び出した。


 外はもう薄暗かった。優衣はただひたすら通学路を走った。

 ライトをつけて走る車が優衣を追い越し、歩道沿いに立つ木が風に揺れる。蒸し暑い空気が、全身を膜みたいに覆っている。

 気がつくと優衣は、いつか裕也と会った公園に立ち止まっていた。息を大きく吐いて両手をひざにつく。

「裕也……」

 なぜか裕也に会いたかった。

「裕也ぁ……」

 いつもみたいに、ひょっこり自分の前に現れてほしかった。

 ――もう、裕也に会えなくなる……

 そう思ったら涙があふれた。後から後からあふれてきた。そしてそんな優衣の上から、雨がぽつりと落ちてくる。

 突然の夕立に、道路を歩く人たちが早足で通り過ぎる。優衣の足元がみるみるうちに湿っていく。

 だけど優衣はその場を動かなかった。自分の髪を顔を服を濡らしてゆく雨が、涙までを洗い流してくれる気がした。

「七瀬?」

 降りしきる雨音に混じって声が聞こえる。振り向かなくても優衣にはわかった。今一番聞きたいと思っていた彼の声。

「なにやってんだよ!? こんなところで」

 自転車を地面に倒して裕也が駆け寄ってくる。優衣は雨に濡れた顔で、そんな裕也のことを見る。

「七瀬? どうした?」

 優衣は黙って首を横に振る。

「なんでもない」

 裕也がじっと優衣のことを見つめる。雨は激しくふたりの上から降り続く。

 ――よかった、雨が降ってて……あたしの涙見られなくて……

 するとそんな優衣の手を、裕也がそっと握った。

「送ってやるよ、チャリで」

「え、いいよ」

「遠慮するなって」

 歩き出す裕也の手を優衣がそっと払う。

「いいの。うちになんて帰らなくて」

 裕也が振り返って優衣を見た。

「うちになんて……帰りたくない」

 ヘッドライトをつけた車が、水溜りを跳ね上げながら、公園脇を走り去る。遠くで救急車のサイレンが、寂しげに鳴り響く。

「じゃあ、どこか行こうか……」

 裕也の濡れた手が、もう一度優衣の手を握る。

「ふたりでどこか行っちゃおうか?」

 優衣が顔を上げて裕也を見る。裕也はいつものように少し笑って、握った手をひっぱった。

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