第9話 罵詈雑言
部屋にはベアトリスはいなかった。俺はヘッドセットを身につけて、仕事に取りかかる。
「ヴァージル、劣等感だ。劣等感を操作する」
「了解です。マップを出します。あと、坂本様からコールです」
「繋ぎっぱなしでいい」
「おい、北浜、正気か? 早く計画を政府にゲロして、ズラかろう。行幸の日のデモまで3日しかない」
「3日あれば社会は変わる。俺に時間をくれ」
「3日はダメだ。1日だ。最初の24時間で効果が確認できなければ、俺から報告をあげるからな」
「分かった。1日で変えてやる」
坂本の通信は切れた。
計画は2ステップだ。
デモに関わる奴を中心に、ネット上で罵詈雑言を浴びせる。匿名アカウントやHHICの噂話、あらゆる所で、自分がこの特区の住人であるべき、劣った種であると植え付ける。徹底的に自尊心を破壊して、地面が揺れるほどの感覚を味わってもらう。
そして、彼らに随伴するパートナーや同僚などの発言を操作して、そこから呼び戻す。近くのHHICが彼を慰め、ここにしか居場所がないと確信させる。今この状況を変えるべきでなく、少しだけバカにされることに耐えればいいのだ。そう思えるだけのギリギリの自尊心を取り戻させる。
新興宗教の使う通過儀礼やアウェアネス・トレーニングがベースだ。このプロセスを何度も何度も繰り返して、住民を調教する。
「定型の抽象プログラムを組んだ。継承してばら撒くぞ」
「承知しました。適用が容易なのは、パートナーAIのいるターゲットです。パートナーの発言を全て操作できます」
「それが優先だ。そいつらがパートナーと夜を越えなきゃ意味がない。24時間の期限で助かった」
「坂本様への報告はどうしますか?」
「社会全体のルサンチマンの想定値のマップを時系列で報告する。彼らが、HHDSでいいんだと思えるような位置を青色で塗る。青色が増えていれば説得できる」
「そうしましょう。プログラムを実行します」
大量のデータが送信され始める。俺は流れてくる言葉と反応をつぶさにチェックする。
……お前たちは、俺たちは、くだらない男性なんだ。人間以下の扱いを受けても仕方ないんだ。その居場所に、もう少し留まって耐えてくれ。報酬なら与える。性的快楽も充分に与える。多少バカにされたって、それでいいじゃないか。俺たちは、ホミニナ・ホモ・デソランスなんだ。
ネット上に書き込まれる大量の罵り合い、噂話、それを見て崩壊していく個々人の自尊心のカラーマップを見ながら、俺は自分自分も宙に浮くような感覚を味わっていた。涙を流していたかもしれない。
「バイタルサインが乱れています。実行を継続しますので、休まれてはどうですか」
「ああ。すまない。コーヒーを淹れてくれ」
ヘッドセットを外す。俺が椅子から立ち上がると、部屋の明かりがつく。
そして、床一面の生体パーツの向こう、扉の前に、彼女が立っていた。
「ベアトリス……」