第2話 隔離区域
「電波妨害区域に入ります。 繰り返します。これより、電波妨害区域に入ります」
深夜の高速道路を走る自動運転車の中、繰り返される大袈裟なアナウンス。目の前には、先が見通せないトンネルが深く続いている。
そこに入るまで、まだ俺は完全にホモ・サピエンスだった。
視界が暗くなると、色々なことを勝手に思い出す。そのとき俺は、チョコミントアイスの味を思い出していた。数日前、娘と二人で食べたものだ。夜中に妻に秘密で分け合った。
「へへ。おいしいね。パパ、ありがとう」
「ああ。ママには内緒だぞ」
妻にしてみれば、離婚前に少しでも娘の愛着を調達するために画策された卑劣な行為だ。本当に娘の成長を思って様々なルールを課しているのは妻の方で、俺は無分別な幼女を珍しい食べ物で釣っただけだ。そんなことは分かってる。だからわざわざコンビニで同じものを買って誤魔化した。
娘が寝た後、薄暗いキッチンで、彼女が食べきれなかった残りを平らげた。その時は全く美味いとは思えなかった。溶けきった甘ったるい原色の液体は、その生活がもうすぐ終わることを感じさせた。
「クソ。喉が渇くな。ヴァージル、飲み物を買いたい」
車内を飛び回っていたハエに話しかける。すでにモバイルネットワークは圏外だが、ヴァージルは、ラップトップとのアドホック通信でも充分に機能する支援AIだ。
こいつの良いところは、目立たないことと、愛着が湧かないことだろう。着任に際して調達した。
「特区までの道路は隔離されています。残念ながら、途中に寄れる店は無いようです。少し辛抱してください」
返答は性別不明の機械音声だ。それにしても、やたら喉が渇く。体調が心配になってきた。
「放射線量はどうなってる」
「0.1μSv/h以下です。特区内の原発は厳重に管理されています。心配はいりません」
「そうは言ってもな。オンカロに入っていく気分だ」
「フィンランドの放射性廃棄物処分場のことですか? そのイメージは少し違います。青幡電力は優れたプルサーマル技術を持っています。中には街があり、人々が暮らしています」
「放射性廃棄物の再処理施設、兼、性犯罪者の隔離病棟だ。どっちにしろゴミ捨て場だ」
「彼らを管理する重要な仕事です。そのうちに慣れると思います」
仕事を引き受ける前には葛藤もあった。俺の専門はAIの集団管理で、学生時代の専攻はミーム戦による思想誘導だった。特区でも活かせる技術で、剣城テンソル解析のオファーは魅力的な額だった。
しかし、中に入れば同類扱いされる。そこから出てきて、以前の街で活躍している奴を知らない。
最終的には、壊れた家庭生活が俺の背中を押した。
この中の奴らは、外とは異なる法律が適用されている。言ってみれば、人間じゃない。離婚後の煩わしいやりとりに思いを馳せる必要もなくなりそうだ。
「バージル、ヴァージル、中についたらどうするんだ」
このハエには、ダンテの『神曲』から名をつけた。地獄巡りにはうってつけだが、日本人の俺はVの発音が得意ではなく、たまに言い直してしまう。
「社宅で荷物を整理し、剣城テンソル解析のマネージャーに会います。坂本至。あなたのスーパーバイザーです」
「仕事内容をもう一度確認させてくれ。システムの保守なんだな?」
「基本的にはクライアントからのインシデントコールへの応答です。ですが、かなり実験的な現場です。つど、会社の方針を確認する必要がありそうです。きっとキャリアにとっても有益な経験が得られますよ」
どうも応答が前向きすぎてむず痒い。もっと辛辣なことを言ってくれるように調整すべきだろうか。いや、今はこれでいいだろう。
「電波妨害区域を通過しました。ネットワークを再接続します。これより先、青幡行政特別区。新しい交通法規をダウンロードします」
長いトンネルの途中で、車内のアナウンスが告げる。出口の光が見えてきた。
「おいヴァージル、道路交通法まで違うのか?」
「いえ、ほぼ同じです。ただ、20年代に無かったものの規定は含まれていません。日常で心配することは無いでしょう。ダウンロードされた内容は、こちらの学習データにも反映されます。不明点があれば質問してください」
車はトンネルを抜けた。高速のインターチェンジから、特区を囲む環状線に入る。
「なるほど。……20年代の街並みを模倣してるって言ったな」
「はい。そう聞いています」
「コンビニもあるのか」
「外の企業のチェーン店はありません。ですが、ほぼ同じものを調達して揃えています。上下水道も通信・流通網も独自ですが、同じものを目指しているそうです」
「チョコミントアイスも売ってるか?」
「そのはずです」
ヴァージルは、その質問の理由は聞かなかった。こいつには俺の新しいデータしかインプットしていない。
そのことが俺にとって救いだったのかは分からない。