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真理への境界線

作者: 中村修二

 サイバースペース黄金時代。眩いばかりのテクノロジーと、幻惑的なサイケデリックな潮流が渦巻く世界に、そのゾーンは存在した。神秘に包まれ、語り継がれるうちに伝説と化した領域。

 辿り着いた者には、[真理の世界]を見せてくれるという。だが、その場所を示すアドレスは、固く秘匿されていた。仮にその痕跡を掴んだとしても、待ち受けるのは第一級の強固なファイアウォール。並みの一流ハッカーでさえ、その壁を突破することは不可能とされていた。

 唯一、公にされていたのは、深淵への入り口を示す、たった一つのサイバースペースのアドレス。誰もがスタートラインに立つことはできた。しかし、そこから先へ進む道のりは、想像を絶するほど険しいものだった。

 伝説によれば、これまでに二人だけが、その禁断の領域へと足を踏み入れたという。だが、彼ら、あるいは彼女らのその後を知る者は誰もいなかった。

 計算機科学の修士号を持つ都川渚は、この物語の主人公である。ある日、長きにわたる苦闘の末、そして、天佑とも呼ぶべき幸運に恵まれ、ついにその伝説のゾーンへと到達した。喜びが全身を駆け巡り、渚は歓喜に打ち震えた。やがて高揚が静まりを取り戻すと、冷静な思考が頭をもたげる。「僕はこれから、どうなるのだろう?」素朴な疑問が、胸の奥に湧き上がった。とりあえず、サイバースペースにジャックインしてみることにした。何らかのメッセージが届いているかもしれない――そう思ったのだ。

 果たして、そこには電子的なメッセージが届いていた。

「二日後の朝五時に、都川様がお住まいのマンションまでお車でお迎えに上がります。前部座席からは外の景色が見えないよう遮蔽し、後部座席の窓も同様に覆い隠した状態でお乗りいただきます。そして、ある場所へとご案内いたします」

 メッセージの発信元は、当然のことながら不明だった。彼ら、あるいは彼女らが、ただの人間ではないことは明らかだったから。

 都川渚は、拭いきれない不安を感じながらも、胸の高鳴りを抑えることができなかった。まるで明日の遊園地行きを心待ちにする子供のように。

 車を降りると、そこは巨大な格納庫のような場所だった。薄暗い空間には、どこからともなくカンカンカンという小さな反響音が響いている。

 一人の女性が近づいてきた。三十代半ばだろうか。整った顔立ちには知的な光が宿り、目を奪われるほどの美しさだった。心地よい低音の、柔らかな声が渚に語りかけた。

「私が河合さゆり。ようこそ、[我が伝説のゾーン]へ、都川渚さん」

 そう言って、女性は都川に手を差し出した。二人は握手を交わす。渚は、何を話せばいいのかわからず、言葉を探すように視線を彷徨わせた。

「ここは、どういうところなのですか?」

ようやく、渚はそう問いかけた。

「[真理の世界]を見ることができるところよ」

さゆりは、微笑みを浮かべながら答えた。

「噂には聞いていましたが、あまりにも漠然とした説明で、一体何のことやらさっぱり見当もつきません」渚は率直に疑問を口にした。

「とにかく、長旅でお疲れでしょうから、まずはゆっくりとお休みになってください」さゆりはそう言って、それ以上の説明を遮った。

「今は何時なのかもわかりませんが、まだ眠くはありません」車に乗る際に言われるがまま、腕時計とモバイル通信機を手渡していた渚は、そう抵抗を試みた。

「睡眠薬を服用していただきます。さあ、こちらへ」さゆりは有無を言わせぬ口調で言い、スタスタと歩き出した。その姿は、まるでこの場所の指揮官のようだった。実際、そうなのかもしれない、と渚はぼんやりと思った。

 仕方なく、渚はさゆりの後を追った。格納庫のような広い空間を抜けると、そこは白一色に塗られた通路だった。まるで研究施設の一角だ、と渚は感じた。歩き始めて五分ほど経っただろうか、さゆりは足を止めた。二人の目の前には、一つの部屋へと続くドアがあった。

「さあ、こちらです。今日、あなたがお泊まりになるお部屋ですよ」さゆりは明るい声で言った。まるで、これから何かエキサイティングな出来事を披露するかのように。この女性は、人を導くことに慣れているようだった。

 さゆりはポケットから取り出したカードを、ドアノブの横にあるパネルにかざした。

「さあ、中へお入りになって、都川さん」そう言いながら、さゆりはドアノブを回し、扉を押し開けた。

 最初、部屋の中は真っ暗だったが、渚が一歩足を踏み入れると、ふわりと柔らかな光が灯った。渚はゆっくりと室内を見渡した。そこは、やや高級なホテルの客室のような佇まいだった。だが、窓は一つもない。

「これが睡眠薬です」さゆりはそう言って、二つのカプセル状の錠剤と、ミネラルウォーターらしき液体が入ったペットボトルを渚に手渡した。その態度は、まるで自分の言うことに絶対服従しろと言わんばかりだった。まるで母親が子供に言い聞かせるようだ、と渚は内心苦笑したが、特に逆らう気力は湧かなかった。

「目が覚めたら、シャワーを浴びてさっぱりとして、ベッドの脇にある通信機で111を押してください。そうすれば、私がこの部屋へ参ります。本題に入るのは、それからです」それは、有無を言わせぬ命令口調だった。

 渚は、自分が完全にコントロール下に置かれているような気がしたが、不思議なことに、それほど不快には感じなかった。きっと、これはさゆりの持つ独特の勢いによるものだろう、と感じた。彼女には何か、人を圧倒させるような気迫がある。だが、それは決して威圧的なものではなく、むしろ一種のカリスマのような魅力だった。

 渚は、渡された錠剤を水で飲み込んだ。

「睡眠効果が現れるまで、およそ十五分ほどです。もう、ベッドにお横になった方がいいでしょう。ああ、そういえば、お聞きするのを忘れていました。あなたの服のサイズは?」

「Lサイズです。ウエストは七十六センチ」渚は、まるで従順な子犬のように答えた。

 渚はベッドに身を横たえた。この異常な事態に、内心では激しい興奮を覚えていたが、薬の作用がじわじわと効き始め、意識は深い眠りへと落ちていった。

 渚は目を覚ました。最初の数分間は、自分が一体どこにいるのか、ぼんやりとした感覚に包まれていたが、次第に記憶が鮮明によみがえってきた。「僕は“伝説のゾーン”へ辿り着き、そしてこれから、とんでもないことを体験するのかもしれない」と、渚は思った。胸の奥に、かすかな緊張が芽生えているのを感じた。

 ユニット式のバスルームには、ホテルのようにシャンプー、石鹸、歯ブラシ、カミソリなど、必要なものが一通り揃っていた。渚はシャワーを浴び、髭を剃り、ドライヤーで髪を乾かし、整髪料で軽くセットすると、用意されていた服に身を包んだ。そして、ベッドの脇にある通信機で111をプッシュした。十分ほど経っただろうか、控えめなチャイムが鳴った。渚がドアを開けると、通路にはライトブルーのスポーツウェアのようなものを着たさゆりが立っていた。

「おはようございます、都川さん。ご気分はいかがですか?」

「すっきりしました。そして、これから何が起こるのか、期待で胸がいっぱいです」

「お腹は空いていますか?」さゆりが尋ねた。

「ええ、まあ」渚は答えた。

「では、これを召し上がってください」さゆりは、ゼリーのようなものが入ったパックを渚に手渡した。渚はそのパックのキャップを開け、中身を吸い込んだ。グレープフルーツのような、爽やかな味がした。

 渚がパックを空にすると、間髪を入れず、さゆりは言った。昨日と同じ、淀みのない流れだ、と渚は思った。

「この衣類一式に着替えてください。サイズはあなたに合わせてありますから。靴下と靴は脱いで、素足になって。私はここで待っていますから」

 渚はドアを閉め、さゆりが身につけているのと同じような、動きやすそうなスポーツウェアに着替えた。なかなか着心地の良い服だった。渚はドアへと向き直り、開けた。

「これで準備はよろしいですね。さあ、私についてきてください」

 二人は通路を歩き、やがて一つの部屋のドアの前で立ち止まった。「ここが目的の部屋です」さゆりがドアを開け、二人はその中へ足を踏み入れた。渚は、目の前の光景に言葉を失った。部屋の一面が、これまで見たこともないほどの、深い黒色に染まっていたのだ。その漆黒の一面の、二メートルほど手前は、対照的に眩しいほどの白い光に包まれていた。そこに立ち尽くし、渚はしばらくの間、声を発することができなかった。

「ここから先の、真っ暗闇の世界は、一体何なのですか?」渚は、ようやくの思いで問いかけた。

「最先端の応用形而上論理数学によってもたらされた、真理の世界です」さゆりは、誇らしげな声で答えた。

「それは、具体的にはどういうことなのですか?」戸惑いを隠せないまま、渚は言った。一体、自分はこれから何を体験するのだろう?と、心の中で自問自答した。

「具体的には、その世界では、ゲーデルの[不完全性定理]が破綻し、チューリングマシンの[停止判定不可能]が判定可能となり、ヴィトゲンシュタインの[語り得ぬもの]が語られ得る世界です。あなたが今いる場所は、あなたが産声をあげてから当然だと思っていたこの不完全なq世界と、真理の世界との境界なのです」

「申し訳ありませんが、仰っていることがよく理解できません。この境界を越えて、向こうの真っ暗闇へ行けば、僕はどうなるのですか?」

「真理の世界を見ることができます。でも、もう二度と再び、この世界へ帰ってくることはできません」

「それは、どうしてですか?」

「あなたからそのような質問が出るとは、少し意外ですね。このゾーンへ辿り着くことができた方なら、その程度の知識と論理的思考能力はお持ちだと思っていましたが。まあ、いいでしょう。簡単に説明すると、この境界を越えて一度認識してしまった世界の真理を、この不完全な世界へ持ち帰ることは、原理的に不可能なのです」

「僕に、どうしろと言うのですか?」

「全て、あなた次第です。誰もあなたに強制はしません。この不完全な世界に留まることに甘んじるのか、それとも真理の世界を見るのか、自分で決めてください。これは、ある巨大なプロジェクト達成のための、重要なステップの一つなのです。実は、私たちのゾーンへ辿り着くのは、ある特定の心理構造を持つ人たちなのです。あなたは三人目の適格者です。一つだけ言っておくと、これは人間としてのあなたにとって、これ以上のない恩恵を授かるチャンスなのです。我が“伝説のゾーン”を見つけ出したことへの、ささやかな報酬だと言ってもいいでしょう。少し僭越な物言いですが」

 およそ三〇分間ほど、様々な思いが渚の心の中を駆け巡った。

 そして、都川渚は、一つの選択をした。


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