約束
中学生の時に執筆した作品です。稚拙な文章ですが、読んでいただけると跳ねて喜びます。
ある日の夕方、紗綾の元に一本の電話がかけられた。彼女が連絡先の名前を確認すれば、はぁと呆れの混じる溜め息をつく。どうして連絡をしてきたのか予想は出来ているはずだが、彼女は律儀に電話を取った。通話先からは能天気な尚哉の声が。トンネルの中を歩いているのかと問いたくなる反響交じりに、彼はいつもの調子で笑ってみせた。
「どうかしましたか?」
紗綾の面倒くさそうな声色が聞こえているはずなのに、尚哉は全く調子を崩さない。
「ごめん。ごめん。また拉致られた。」
重大ごとであるにも関わらず、彼はなんてことはないとまた笑う。
巨大企業の御曹司である尚哉は周りの企業からよく狙われる。競合他社からは特にその傾向があった。彼自身は会社を継ぐ意思がなく我関せずと日頃からのほほんとしている。けれども、彼の父親から受けた市場流通の圧迫に怒りを露わにした企業が増え、彼はしばしば攫われることがあった。
今回もその類なのだろう。
「今回スマホなどは盗られていないんですね?」
「そう、そう。あいつら何も取らずに閉じ込めるだけ閉じ込めてどこかに行ったっぽい。」
幸か不幸か、攫った犯人は間抜けらしい。電話を取れているということは、縛りもしなかったのか…。いや、彼なら力業で抜け出しそうだなと紗綾は一人納得した。
「分かりました。迎えに行くので場所の詳細を下さい。そこが何処か分かりますか?」
見つけるにしても場所が分からなければ見つけようがない。紗綾は尚哉に場所の詳細を聞いた。
「いや、分からん。こんな所見たことないわ。」
ならば市内は候補に挙がらなさそうだ。県内であってくれると嬉しいと考えながら彼女は話を続けた。
「それでは、外の様子は分かりますか?」
「外なら見える。隣に高いビルがあって、青いタワーがあるかな。」
大きなヒントが紗綾の中に舞い込んできた。青いタワーという象徴的な建造物があれば候補を絞ることができる。
「わかりました。少し調べます。」
先程までデスクで作業をしていた紗綾は閉じたばかりのパソコンを開き、尚哉が見えていた青いタワーを探す。流石インターネット社会。検索結果で青いタワーは国内に一つだけ存在するということが明らかになった。しかし残念なことに―
「先輩、そこ県外ですね。」
「マジかぁ…」
生憎、場所が場所なだけあってすぐに迎えに行くことは難しそうだ。
「ちなみに、今どんな所に監禁されていますか?」
「工場内じゃないかなぁ?金属部品とかが結構あるし、油臭いから。」
紗綾は携帯電話を左手から離さず、もう一度右手を動かし、青いタワー近くにビルがないか探す。だが、該当するものが四つも。そこから、そのビルの付近に金属を取り扱う工場がないかと探す。と―当てはまるものがたった一つ。紗綾はそこだと確信を持てたが、一応の確認を取る。
「先輩。さっき言ってたビルって、もしかしてミラーガラスですか?」
「さすが紗綾!よくわかったなぁ。その通りミラーガラスが特徴的なビルやね。」
場所は特定でき、あとは尚哉の救出のみ。紗綾が向かうにはやはり距離が欠点となる。
「そうですか、なら後は警察に任せるんで、パトカーででも帰ってきて下さい。」
投げやりな紗綾の物言いに尚哉は透かさず異議を唱えた。
「紗綾、さっき迎えに来るって言ったよな?」
能天気に笑っていた彼はどこに行ったのか、凄む尚哉の声色に紗綾は若干委縮する。
「言いましたねぇ。」
「そんなら紗綾が迎えに来るべきじゃないか?」
通話先でこの人はすごく笑顔なんだろうなと、痛い所をつかれたことに対するせめてもの抵抗として嫌味交じりに思考する。そのせいで彼の言葉に少し遅れて反応を示した。
「は?なに言ってるんですか?その場所まで今から頑張っても八時間は絶対かかるんですよ!」
紗綾の焦りなど気にも留めず尚哉は自分の意思だけを伝える。
「待ってるぞ!」
そう言うと彼は一方的に電話を切った。唖然としてしばらく携帯電話の途切れた通話画面を見れば、再び溜め息を零し立ち上がる。紗綾は面倒くさそうにしながらも、一階の自宅ガレージに向かった。ガレージには愛車のバイクが一台。紗綾はジャケットを羽織り、ヘルメットを被って、バイクに跨がる。もう一つのヘルメットも忘れずに。
道を走りながら、紗綾は昔のことを思い出していた。それは、尚哉が両親から関心を持たれずに家出をしていた時のこと。彼は寒い中、半袖短パンでブランコに座っていた。日も沈み暗い公園に一人で。当時の紗綾はその尚哉を見て母親の手を離し、彼に近寄った。
「帰らないの?」
無垢な紗綾は、初対面の少年が保護者も連れず、夜の公園に何もすることなく座っている光景に違和感を覚えた。
「帰りたくない。」
少年は捻り出したか細い声で答えた。それを聞いた紗綾は、決して憐情を持ち合わせていた訳ではない。
「じゃあ一緒に帰ろ?」
ただ、一人が寂しいと知っていたのだ。紗綾は尚哉に手を差し出した。
しかし、幼い紗綾は分かっていなかった。尚哉が親にちゃんと自分を見て欲しくて家出をしていたことを。
「イヤだ。帰りたくない。」
駄々をこねてブランコのチェーンを握る手に力が入る。紗綾はその行動の真意が分からず小首を傾げた。そして、何を閃いたのか、パッと顔を明るくさせ、勢いよく少年の隣のブランコに座る。
「なら、私も帰らない!」
残念なことに我儘は一人ではなかった。彼女の行動に未だ深い意図は見られず、彼のすることの意味を分かってはいなかったが、彼女は彼と一緒に居ることを選んだのだった。
紗綾の突拍子もない行動に驚きを露わにしていたのは母親ではなく尚哉の方だ。母親は横で頭を抱えていた。
「またとんでもないものを拾ってきて…」
母親の呟きを都合が悪いために紗綾は無視する。
そんなことなどよりも『帰らない』と断言した紗綾の言葉を、真摯に受け止めた尚哉は途端に焦りだした。
「帰らないなんて…。そ、それじゃ、君のママやパパが心配する…。」
吃音りながらも尚哉は不安を口にした。それを聞いて紗綾は余計に首を傾げる。
「じゃあ、君のママやパパも心配してるよ?」
紗綾に悪気はなく、自分と彼の境遇が同じだと、幼さ故の愚かさに口は思うがままを発していた。尚哉は彼女の言葉に強く反発を示し、語気を荒げてしまう。
「そんなのしてない。してるはずない!」
彼が抱く両親への懐疑心と、未だに迎えに来てくれると淡い期待を抱く自分自身へ放った言葉だった。初対面の少女を怯えさせたかったのではない。歯を食いしばり眉をひそめて落としていた顔を、自分の方が泣きそうになりながら紗綾の方へと向ける。幸い、彼女は彼の言葉に怯えるどころか疑問を抱いていた。
「でも、私は心配だよ?」
純粋さが胸にしみる。その言葉は尚哉が最も欲した言葉だった。ぽかぽかとした想いが身体を巡り、彼は思いがけず涙を流してしまう。次に焦り始めたのは紗綾の方だ。
「えっ!大丈夫?どこか痛いの?」
当然紗綾は心配する。その当然の行いによって尚哉の心を蝕んでいた何かがまたも癒えたような気がした。
「大丈夫。ありがとう。一緒に帰ろ!」
尚哉は涙を拭い、ブランコから勢いよく飛び降りると、笑顔を見せて今度は彼が紗綾に手を差し出した。
何故感謝されたのか分からなかったが、彼に笑顔が戻って嬉しくなり、紗綾も笑って手を取り、一緒に帰った。自宅は紗綾の家からほど近く、最後まで彼を見送り自身も母親と帰路に就いた。
その日から尚哉は紗綾の迎えを待ち続けた。何時間かかっても、何年かかっても、待っているから迎えに来てと、尚哉は紗綾と約束させた。紗綾は意味が分からなかったが、必ず迎えに行くと。子供同士の小さな約束だった。
昔を振り返り、紗綾は今日何度目かの溜め息を吐く。いい歳した大人が迎えに来いと指名をしていることもだが、子供の頃の約束を今も尚律儀に守っている自分にも呆れていた。
けれど、紗綾は迎えに行った時の彼の輝く笑顔を絶やさないため、夜中の閑静な高速道路でバイクを走らせる。周りに車両が殆ど見えなくなった際、一台の夜間運送のトラックが真横を通り過ぎた。その音に搔き消されるように紗綾は微笑と共に呟く。
「私に笑うことを教えてくれた貴方を、裏切れる訳、ないんですけどね。」
「紗綾がいてくれるなら、もう何もいらないから。」
尚哉もまた、反響する工場の中で独り言ちる。