6―17 白昼夢①
ヘレナは俺を背負いながら一目のつかない路地裏を走る。
「琉倭、怪我は?」
「怪我はない。ただ……間接的にだがシャーデンフロイデによる精神的干渉を受けた。霊眼でどうにかその干渉を退けたつもりだが……」
どくん。
「琉倭?」
情欲をそそる女の甘い匂い。舐めたくなるようなその白くて細い首筋。白魚のようにすらりとした腕に包まれる温もり。そして柔らかな胸の感触が今も名残惜しそうに俺の身体にこびりついている。
「ヘレナ、もういい、降ろしてくれ」
「大丈夫なの?」
「ああ」
「分かったわ」
ヘレナは腰を下ろす。彼女の背中から降りた俺は路地裏の壁に寄り掛かった。
「琉倭、やっぱりどこか具合が悪いんじゃない」
「別にそんなんじゃ、ない……」
はぁ、はぁ、はぁ。
酷い発作だ。
息が苦しい。生き苦しい。地面に手を置き、深呼吸を繰り返すが自身の情欲をどうにも宥めることができない。
「どうして、収まらない。奴の魔の手はこの眼で凌いだはずなのに」
発現し続けてきた霊眼が掠れ始めていくうちに抑え込んでいた衝動が息を吹き返す。どくん、心臓が脈打つ。どくんどくんどくんどくん。冷ました全神経が細胞が一方通行に目的を遂行しようと躍起になる感じ。例えるならそう、あと一歩のところで脳内のドーパミンを撒き散らせるのにそれが叶わないもどかしさに苛まれている感じ。だけどここで自制しなければまた昔と同じように……目の前の女を殺(犯)したい。殺(犯)せばきっとこの上ないほどの享楽に浸れるだろう。
「く、そ」
霊力切れで閉じた霊眼を無理やり開眼させ直そうとするが、無駄な足掻きだった。暴走する本能に理性はもう追い付けなくなってきている。ならやることは幼い頃から何も変わらない。俺がまともに生きるために取得した処世術。致命傷にならない程度に俺は今持っているナイフを手首に当てた。
この眼を手にしてからというよりはヘレナと出会ってから殺人衝動に駆られることも少なくなってきていたが、やっぱり傷をつけている時だけ楽になれるのは確かだ。心の苦しみを身体の痛みに置き換えて脳内麻薬で精神を落ち着かすことができる。
「琉倭、やめなさいっ。そのナイフはそんな風に使うものじゃないわ」
それなのにどうしてあともう少しで手首の血管を掻き切れたのにヘレナは俺の手を掴むんだ。
どくんどくんどくん。早く壊さないとまた間違える。これは別に自分を傷つけているんじゃない。壊れているからメスを入れて治しているだけなのだ。
間違いは正さなければならない。
壊れたものは直さなければならない。
『清く正しく。
誰も悲しませず傷つけず。
例外として逸れることなく全うに。
間違わないように己を騙し続けなさい』
俺は母に言われた教えが何一つ守れない。母が望んだ人物像にもとてもじゃないがなれる気がしない。そんな欠陥品の俺に価値はない。価値がないからこそ、俺は俺の知り合う人間を守ることができないし、俺が知り合った人間は皆、不幸な目に遭う。
「離せっ! じゃないと俺はまた間違いを犯す」
「間違いって何よ。間違いは自分を傷つけようとしている琉倭の心でしょ」
「違う。間違いは俺が衝動に負けて、ヘレナを傷つけることだ」
「だからって自分で自分を痛めつけるのはどうかと思うわ」
「じゃあどうすりゃあいいんだよ。俺にはもうどうすることも、できねえんだよ」
「だったら私を頼りなさい。私が全部受け止めてあげるから」
「受け止めるって、何を――」
する気だと言いかけたところでヘレナに抱きしめられた。遠ざけたのにそっちから寄ってくるなんて何もかも逆効果なのに。
「やめろ、離せ、これ以上構うな、くっつくな……殺し、たく、なる」
こみ上げてくる殺意が手元を狂わせて、ヘレナの抱擁を振り払うようにナイフを振り上げた。鮮血が飛び散る。彼女の親指と人差し指の間からだらだらと血が流れ出るのを見て、興奮の坩堝に脳が震える。その情動のままにヘレナの背中にナイフを突き立てた。
「っぅ――」
ヘレナの苦悶が俺の耳元で漏れる。なおもヘレナは俺を引き止め離さない。彼女の背中を濡らす温かな血の香りが俺をさらに狂わせる。今はもう彼女の一挙手一投足が俺の本能を掻き立たせる活性剤でしかない。だが間もなくして、快美感の泥沼に嵌った意識は首筋に走る鮮烈な痛みでクリアになった。手首を切った時の痛みに比べれば大したことではない痛みだが、意識はそれでも引っ張られ、俺の首筋には今なお痛みが続いている。
「お前、何して……」
首筋から流れ出る血を吸われている感覚。鈍痛のような痺れが衝動の発作をゆっくりと慰めていくのが分かる。俺の首に歯を立てていたヘレナが口を離す。八重歯に残る俺の血がヘレナの唾液で艶めかしく映っていた。
「傷つけることでしか琉倭が楽になれないのなら私が代わりにあなたを傷つけるわ。それで血と一緒にあなたの中にある毒素も吸ってあげる。だから琉倭、楽になりなさい」
「……っ」
歯形がついた首筋に再び口を這わせたヘレナは吸血鬼のように俺の血を吸いながら、血塗れになった左手で俺の背中をさする、まるで夜泣きのうるさい赤ん坊をあやすように。
俺は何をされているのか、白昼夢みたいな非現実さに不思議と力は抜けて、俺は手に持っていたナイフを落とした。彼女はいつまで俺の血を吸っているのか。声に出したつもりだが声が出ているのか自分でも分からない。時間の感覚もよく分からない。自分の脚で立っているのかさえ分からない。痛みも苦しみも分からない。ただ分かっていることは温かいということだけだった。




