6―16 グランギニョール④
教室に飛び込んできた黒の道着を着込んだ男は刀を背に錫杖を腰に、受け身を取りながら鞘を手に持ち替え、流れのままに抜刀した。
強襲する生殖の死魔を無駄のない動きで斬りつけ祓う。
「日中堂々、随分とまあ、派手にやってくれたものだな」
「一夜、そいつらに触れるな。理性をかき乱されるぞ」
「そうか」
圧倒的な数。触れれば他者の本能を煽り立たせて、本能のままに人を狂わせるシャーデンフロイデの異能。それは感染病のように触れられた者から新たに触れられた者へと伝染し、共通個体として存在する生殖の死魔すべてにその能力が孕んでいる。
「一時的退却が妥当か……否、退けるわけでもなさそうだ」
今なお教室に入り込んでくる死魔の群衆に一度抜いた刀を鞘に戻した。刹那、刀は確かな霊力を帯びて再び振り抜かれ、明らかな殺意を持って納刀される。
「終いだ」
刀の鍔が鞘の縁にガチンと当たる音がした時、一夜はその場から動くことなく教室に蔓延る死魔すべてを一網打尽にした。
抜刀の勢いで鞘に内包した霊符を散布させ、霊符が貼りついた箇所が納刀と同時に切り裂かれる呪詛のメカニズム。星宮(死魔)の身体が切り離される中、一枚の赤い呪縛符が廊下側の壁に貼り付けられた。
「これで邪魔は入らない。後はそこの蛾者、お前だけだ」
「これハこれハ刀童ノ退魔師。追い詰めたト思いきヤこちらガ出し抜かれるトハ、どうしたものカ」
教卓に座るシャーデンフロイデの指が微かに動いた瞬間、一夜は腰に巻き付けてある二本の錫杖を投げ飛ばす。
「おや」
黒板に突き刺さった二本の錫杖。頭部の輪形に通した遊環が突き刺さった反動でシャランと音を出す。
「うーむ、何とも骨二響く耳障りナ音ダ」
シャーデンフロイデの動きが緩慢になる中、一夜が鞘に戻した刀を振り抜けば、鞘からは大量の霊符が吹き荒れた。シャーデンフロイデは嗤う。躱す素振りも見せずその奔流へ、シャーデンフロイデの身体には幾枚もの霊符が貼りつき、ガチり――呪詛を為す音が鳴った。
異様に長い手足と胴体――異人じみたそのシルエットに鏡が割れたような亀裂が走る。
「劈」
呪いのフレーズは受けた傷を皮切りにその傷口を広げ、引き裂くもの。腐敗色の血肉と共にブチチチチチと肉の繊維が裂けるような音を鳴らしてシャーデンフロイデの全身が砕け散る。見境なく千切れ跳ぶ人体の各部位を見てなお、能面のようなシャーデンフロイデの顔は口元だけ不自然に嗤ったまま……「ポキリ」指の骨が折れる音がした。
「なに」
一夜が困惑したのはきっと自身の指をへし折ったシャーデンフロイデの自傷行為に対してではなく、その行為が結果としてシャーデンフロイデにもたらしたものに対してだろう。何故ならそんなことはあってはならないほどに度を越しているからだ。
「あの状態から修復したというのか」
超速の再生という枠を超えた復元はもはや事象の改竄。バラバラに斬り刻まれた事象そのものを無くしたかのようにシャーデンフロイデの肉体は元の姿へ舞い戻る。だが折れた指はそのままの状態だ。
「ならばその贄、尽き果たすまで」
俊敏な脚運び。華麗なる抜刀術でシャーデンフロイデの間合いに入った一夜が鞘から刀を抜き放つ時、「フェ=ア=グライヒ」異国の地の呪文が紡がれた。
「くっ」
苦悶を漏らした一夜の手から刀が抜ける。振り抜いた勢いですっぽ抜けた刀が空を飛ぶ中、シャーデンフロイデの両手が伸びゆく。
「者・前」
黒板に刺し込まれた二本の錫杖――、一夜の霊力が練り込まれた持物が直伸し、シャーデンフロイデの両の掌に突き刺さる。
「うーむ」
磔のように動きを固定されたシャーデンフロイデから距離を取った一夜は舌打ちをする。
「ちっ」
「おい、何された」
「何の小細工か知らんが、俺の薬指がなくなった代わりにあいつの折れた薬指が完治した。そのせいで手に力が入らなくなった」
「……勝つ算段はあるのか」
「いいや、今は勝つことよりもこの状況を脱するのが先決だろう――時間稼ぎはもう済んだ。解――」
廊下側を堰き止めていた赤い霊符が消える。
「あ⁉」
俺の襟を掴んだ一夜は常人とは思えないほどの力で割れた窓へ俺を投げ飛ばした。窓から外へ落下する。そんな俺をタイミングよくチャッチしたのはヘレナ・シフォンティーヌ。大きな胸がクッションになる。続けて一夜が窓から飛び降りながら「臨」「兵」「闘」「者」「皆」「陣」「列」「在」「前」校舎に蔓延るすべての悪霊をここで一掃するべく、九字の真言と共に手慣れた指の動きで印を結び――地面に着地すればその掌を地につけた。
「還魂破邪呪縛印」
教室内に残された鞘の栓が開けられ、中から悍ましいほどの種々異なる呪縛符が解き放たれるのが見えた。
校舎内に放出された霊符は舞い狂いながら建物内を遍く駆け巡り、有象無象に蠢く生殖の死魔に張り付き、外から見える教室のガラスは一瞬にして霊符で埋め尽くされる。
午前十時三十二分。
呪縛符による霊的遮断の効力だろう。建物内にて観測できる霊気は消失し、校庭にはパトカーとは別に霊柩車のような漆黒の車が複数到着する。
「あれは」
「官寺下で構成された霊媒組織だ。冥府の女主人……さっさと立ち去った方がいいんじゃないか」
「そんなこと言われなくたって分かっているわよ」
言うとヘレナは俺を抱きかかえたまま颯爽とその場を後にした。一夜はというと事情を説明するためだろう、その場から動くことはなかった。




