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幽暗奇譚――死神遣いのノクターン――  作者: たけのこ
二章 初恋殺しのランデブー
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2―1 彼女に殺されたのならそれはそれで良かったのに①

 産まれた時から満たされるようなことなんてなかった。心に形があるのなら栓の抜かれた水槽だろう。いや、栓なんてもの初めから俺には備え付けられていなかった。空洞のままの心は何をやっても満たされない。心が満たされないということは幸せではないということ。では幸せとは何か? 自分にとっての幸せが何なのか……ワカラナイ。たくさんの愛情を注がれた。したいと思ったこと、欲しいと思ったこと、願ったモノはすべて母が叶えてくれた。だけど、どれもこれも心が満たされることはない。

 これをしてあげたら喜ぶだろうと、幸せになるだろうと思って、母がやってくれたことすべて、何も感じなかった。何がそんなに嬉しいのか、何がそんなに喜ばしいのか、何がそんなに愉しいのか、周りがみんな笑うから笑うふりをした。他人が喜んでいる瞬間が幸せだと言う母に真似て、母が喜ぶようなことをした。肩たたきをした俺に母は嬉しそうに喜んだ。だけど、それの何が嬉しいことなのか、母の笑った顔を見て俺の心が満たせることはやはりなかった。それを自覚したのが当時、五歳のことであり、自分の歪な幸せを享受したのも五歳のことだった。


 人の不幸は蜜の味。

 他人が悲しんだり、苦しんでいる姿を見ると、なぜか笑えた。好奇心でアリの巣穴に水を注いだり、トンボの翅を捥ぎ取ったり、カブトムシの骨格を細かく剥いだり、完成された何かが壊れていく過程を見るのが楽しかった。特に綺麗なモノをぐちゃぐちゃに汚した時の高揚感は凄まじいものだった。

 母はその行為をいけないことだと戒めた。幸せをくれようとした母は突然、俺の幸せを邪魔する存在になった。


 だから――というよりは産まれた時からずっとそうしたかったんだと思う。

 だって本当に、綺麗な女性だった。こんな美しい女の腹から自分が産まれてきただなんて、想像もできない。きっと何かの間違いで、きっと俺は別の誰かの子どもだったはずで、そうでなければ……こんなことするわけがない。

 嫌いだったからとか、憎んでいたからとか、そんな感情的な理由はなくて、単に綺麗だったから壊したくなった。

 だから、突発的にふと、気づけば母を傷つけていた。綺麗な寝顔をしていたから、その白い蛇のような首を絞めたくなった。綺麗な身体から飛び出る血がどんなに眩しいか確かめたくなって、凶器を振りかざしていた。


 どうやら俺の心が満たされる行為は普通の人間が持つ感性とはかけ離れているものらしい。当然、健常者が知っている幸せは健常者が理解できる範囲内のものであり、異質な存在には異質的なモノがお似合いであり、母は次第に俺の顔を見なくなった。俺から遠ざかるようになった。俺を恐れるようになった。


『清く正しく。誰も悲しませず傷つけず。例外として逸れることなく全うに。間違わないように己を騙し続けなさい』


 それが母の教えであり、どうやらありのままの俺は他人を不幸にさせるだけで、俺が近くにいると周りは不幸になるらしい。

 相手を不幸にしてはダメだと言う時点で、自分が幸せになることはない。

 でも厄介なことに他人を傷つけることがダメなことだと教えられれば、駄目なことなんだって理解できる俺もいた。たぶん、それが俺の心の中に残っていた微かな人間性なのだろう。吹っ切れてしまえば、目の前に映る者すべてを殺せるのに、半端な理性を持ち得ているせいで、それができない。できなくてできなくて、苦しくて苦しくて、夢の中でも殺意に魘される。


 異物は産まれた時から既に体内に入り込んでいて、その異物がオレを人でなしにする。だからそれを掻きだそうと自傷行為に走るが、掻きだそうにも掻きだせなくて、衝動に身を任せてしまえば楽になるけど、人間として大事な部分がなくなってしまうのは明白で……、だからあの女に殺されて良かったはずなのに、どうしてこんなに、これほどまでの異物感が押し寄せくるのか、分からない。だけどそれは優しかった。温かった。宥めるように、慰めるように、体内に入り込んでくる陽だまりのような血は、俺の空いたままの心の水槽に蓋をするように血の栓として固まっていく。どくん、と心臓が鼓動を再開させる音がして俺は目を覚ました。



 眩しい朝の光が俺を優しく迎え入れるように頭上に降り注ぐ。ここが何処なのか、あれからどうなったのか、記憶は混濁していて、意識ははっきりせず、視界に映るものは朧気で光の粒だけが感じ取れる状態だった。

 ベッドの上で横になっている俺の身体は鉛になったみたいに重たくて、起き上がれそうにない。例えるならそう、俺の身体に誰かが覆い被さっているような感覚に近い。というか、正しくそれであり、人肌のような温もりと微かな吐息に合わせて蛞蝓が這いずるような不快感が下腹部にある。


 眩しい光に少しだけ目が慣れた。どういうわけか、横たわっている俺は上半身、裸になっていて、その上に乗りかかっている見知らぬ女は一生懸命に俺の臍周りを舌で舐めている。こういう場合、普通だったら飛び起きて驚かないといけないはずなんだが、身体を起こす気力も生気もない。本当に目が覚めたのか、現実味がまるでない。まだ夢の中なのではないかと生きている感覚もまるでない。


 女が俺の目覚めに気が付いたのか、朝日でぬらりと光るいやらしい舌を離すと、白いキャミソールの中の豊かな胸が揺れた。今まで見てきた女性の中で、一番大きかった。黒いボロボロのローブ。白い下着のような襟からは、形の良い柔らかそうな胸の谷間が丸見えだった。その谷間から甘やかな肌の香りがほのかに立ち昇ってきて、俺の鼻を刺激する。何より刺激的だったのは、こちらの様子を真上から覗き込んでくる女が星宮小夜だったからだ。


 いや、そんなことは絶対にあり得ないことだと、あまりにも幻想的で非現実的で、俺は自分の顔を右腕で隠した。

 これは夢だ。死にゆく前の穏やかな夢だ。

 夢だったとしても全くもっておかしな話だが、今、俺は大人になった星宮小夜に馬乗りにされている。あの時とは真逆だ。今度は俺が彼女に襲われている。襲われたと言えば、俺は誰に殺されたんだろう。いや、そんなことを考えるよりも前に、謝らないといけないことがある。


「……ごめん、星宮」


 顔を隠しておいて良かった。今、自分がどんな顔をしているか、自分でも分からない。


「俺……お前に謝っても許されないことをした。お前が親を殺されて、精神的に弱っている時に、俺は自分の衝動に負けて、お前に酷いことをした。傷つけた。……清く、正しく、誰も悲しませず、傷つけず、例外として逸れることなく全うに、そう生きるために、必死に自分を欺いてきたけど、できなかった。……俺は何度言い聞かせても同じ過ちを繰り返す、どうしようもない人でなしで、死んだ方がいい人間で……この通り、呆気なく殺されたんだが、もし殺した人間がお前だったら、何の文句もない。何の未練もない。……死ぬ前にこんな話ができるとは思わなかった。…………嫌いだけど、お前のこと……星宮小夜が好きだった」


 長い沈黙に息が詰まる。瞬間、ぐいっと顔を隠していた右腕を掴まれて、両の手首を強い力で押さえつけられた。信じられない。男の俺でも抵抗できないほど、強い力だ。そんなこよりも信じられなかったのは――。


「星宮小夜……って誰のこと?」


 聞き逃せないことを言って、思わず女の顔を見上げた。黒い装いに映える色白の肌。見ればその女は星宮小夜ではなかった。顔は星宮と瓜二つだが、髪の毛は絹糸のように長い銀髪で、吸い込まれそうなほど大きく美しい瞳は紅いワイン色で、俺の顔を観察するようにじーっと見つめている。


「……誰だ、お前」

「私? 私はヘレナ・シフォンティーヌ。あなたを死魔だと間違えて殺してしまった女よ」

「……俺を殺した……」


 ああ、思い出した。間違いなくこいつだ。あの夜、背後から勢いよく鋭利な刃物で俺の胸を貫いたのは。でもじゃあ、どうして俺は生きていて、こいつはなぜ俺の上に跨っているのか。ワケが分からない。無意識なのか、いや、無意識だった、で済まされるような状況じゃないだろう。体勢が体勢だ。彼女の股の部分が俺のモノに当たって、柔らかな感触が俺の理性を麻痺させる。くそ、身体はがっしりと太腿に挟まれて、両手も押さえつけられて動けない。そもそもの話、どうして俺は上半身を脱がされていて、どうしてこいつは俺の身体を舐めていたのか。俺が寝ている間に、清純ぶったこの痴女は何をしていたというのか。


「ならなんで、俺は生きていて、お前は今、何をしているんだ」


 俺の質問に銀髪の赤い目をした女は嬉しそうに答えた。


「それは私があなたを生き返らせたから、人間だったあなたを誤って殺してしまったお詫びに、私が付きっきりで看病したのよ。ついでに悪いモノに憑りつかれているようだったから、全部じゃないけど、私ができる限り吸い上げてあげたからこれであなたは大丈夫っ!」


 何が大丈夫なのか、俺には全くもって分からないが、彼女は自信満々の笑みを俺に向けてくる。


「俺を殺した時は悪魔みたいに微笑んでいたくせに」

「それは……ごめんなさい。やっと追ってた奴を殺せたと思ってつい」

「ついって……いや、それは俺も同じか」

「同じ?」

「何でもない。それより早く退いてくれないか」

「はぁーい」


 こんな間の抜けた声で、こんなだらしない恰好をした女に俺は殺されたというのか。今でも信じられない。

 女が離れた後、ゆっくりと起き上がる。ベッドの上に放置された制服を手に取る前に、胸元の傷に手を当てた。胸部にはざっくりと大きな鎌で突き刺されたような傷跡が残されている。だが傷口は溶接されたかのように完全に塞がれている。でもどうやって治したというのか。殺すことは誰だってできる。だが致命的な壊れ方をしたモノを元に戻すのは殺すことよりも難しい。

 ちらりと一瞥する。女はベッドの端にちょこんと座っていて、俺の一挙手一投足を興味深そうに見ている。目が合うと猫のように首を傾げた。首を傾げたいのはこちらの方だ。こんな人畜無害な顔をした奴のどこにそんな超人的な力が眠っているというのか。


「なあ、お前」

「なになに~?」言葉を返すと嬉しそうに反応する正体不明の女。

「いや、何でもない」そう言うとしょんぼり残念そうにする。今はこいつのことなんかどうでもいい。早く家に戻らなくてはならない。

「え、どこ行くの?」

「どこって、帰るんだよ」

「駄目だよ。危ないよ。怖い虫がたくさん寄ってくるんだから」

「怖い虫ならすぐそこにいるだろ」

「え、どこ?」


 きょろきょろと辺りを見渡す女に俺は指を差した。


「え、私?」

「他に誰がいるんだよ」

「むっ、ひどい」

「酷いも何もないだろ。誰が殺した奴の傍にいたいと思うんだよ。外見だけを取り繕った悪魔が」

「――。こんな子なら死なせておくべきだった。もう、知らないからっ」


 むすっと不機嫌そうに口をへの字にして、突き放すような冷たい視線を向けてきた。むぅーと腕組みをしながらこちらを睨んでいる表情は本当に星宮小夜とそっくりだ。


「何よ、さっさと出ていきなさいよ」

「ああ。そうしてもらう」


 客室の扉を開ける。どこかも知らない廃れた屋敷の中を歩いて、外に出た。少し軽率だったかもしれないが、殺された女につき纏われる身にもなってほしいものだ。だいたいあの女が言っていたことの意味が分からない。あの女は一体何者なんだ? 殺して生かして、それが本当ならあの女は普通じゃない。人間が成せる業じゃない。星宮小夜に似た正体不明の女が俺の命を奪ったという事実が恐ろしい。あの女の傍にいたらまた殺されるのではないかという猜疑心が強い。……それと同時に同じくらいの恐怖心を小夜にも与えてしまったこと、俺という存在を恐れて、もしかしたら学校に行っても彼女とは会えないかもしれない。どの口で俺はあの女に言っているのだろうか。こんな男の傍に誰が近寄ろうとするのか。

 それでも会った時にはちゃんと謝らなくてはならない。会うためにはまず学校に行かなければならない。午前七時二十分。生憎、家に帰る余裕はなくて、俺はそのまま学校へ向かった。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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