1―8 夜想⑧
旧校舎の昇降口から外に出る。扉を開けると涼しい風が吹き込んできた。はあはあ、と荒い呼吸を整えようと瞼を閉じる。触った。触ってしまった。触ってはいけなかった。汗ばんだ肌の感触も蒸れた匂いも暑苦しい体温もこびり付いて離れない。骨の細さも血の味も感じたままに漏れた甘い吐息も、俺の全神経に張り巡らされて、本能的な欲求からの脱却を許さない。早退しよう。家に帰ろう。帰って、睡眠薬を過剰に摂取して深い眠りに落ちよう。夢の中なら何をやってもいい。好きな女を好きなように品性下劣に甚振り嬲って、夢精でもできたらさぞかしすっきりするだろう。
歩く。ふらつきながら歩く。体調不良を理由に途中帰宅する学生のように、おぼつかない足取りで校門を出た。
熱い。酷い熱に浮かされている気分だ。まだ夜じゃない。昼過ぎだというのにその衝動が駆け巡る。幸い、登校時にまで凶器を持ち込んではいない。常備するのは夜の街を徘徊する時だけだ。夜は好きなのに夜は怖い。狭くて静かなところは怖いのに落ち着く。でも暗いのはどちらに限らず好ましい。
だからだろうか、だからだろうか、ってそういう習性を持つ動物じゃないのだが、何をしているのか、細く狭い人気のない路地へと、脚を運んだ。どんなに平和な世界でも裏には絶対翳りがある。でなければ平和は成り立たない。悪がいるから正義がいて、醜い奴がいるから美しい奴がいて、欠陥者がいるから健常者がいる。比較対象がなければこの世の中はすべてが成り立たない。そう、幸せになりたいのなら、誰かを不幸にさせないといけない。勝者になりたいなら、誰かを蹴落とさないといけない、だから目の前にいるこいつは、誰かによる一方的な悪意を成り立たせるために葬り去られた存在なのだろう。日の光が届かない隔絶された異空間。塵と埃に塗れた大気が降り積もる袋小路には死に絶えた人間がいる。
殺された人間の身なりからして路上生活者だろう。こいつもかの猟奇殺人事件の被害者なのだろうか。……いや、違う。殺され方からして殴殺。傍らに置かれている鉄パイプにべったりと付着した血液がこいつの殺され方を表している。暴漢にでも遭ったのだろう。
つまらない死に方。そしてつまらない殺され方。全くもってそそられない。こんなものでは満たされない。だから探し求める。衝動を抑えてくれる死の光景を。
家に帰るはずだったことも忘れて、死体を探して街を歩く。時間も忘れて、空が暗くなっていることに気付いた時にはもう遅い、激情に駆られた思いを抑えるには誰彼構わず殺さなければならない。
……誰彼構わず?
ダメだ。ダメに決まっているだろう。初めては誰と、誰をやりたいか、そんなもの決まっている。そこらの爺をやって何が満たされる?」
「ああ、こうなるんだったら、ナイフを持ってくるべきだったな。そしたら組み伏せた時点であの女の顔をズタズタに落書きできたのに……」
勿体ないことをした。本当に、勿体ない。どうせ死ぬならオレが殺したい。誰かに殺されるならその前に殺したい。だって好きにナッタ女の膣内がもうすでに誰かの手によって使用済みだったら萎えるだろう? やっぱり初めてはオレが奪いたい。その代わり初めての犯行を君に捧げるから。
瞬間、短剣がオレの頬を掠めた。日の暮れた後の廃ビルにまともな明かりは望めない。その中で、見上げれば、作りかけで放置された廃ビルの屋上に蒼い月夜にも似た二つの眼光がオレを見下ろしていた。
「オレに刃を投げおろすとはいい度胸をしているなァ……一夜」
「哀れな欠陥動物が。これは忠告だ。己が本能に堕ち、理性を持たぬ魂のまま、ちゃちな世界を破壊するのならその時は刀童家が直々にお前の首を刎ねてやろう」
シャラン。音が鳴る。腰に帯刀していた鞘から錫杖のような刀が抜かれる。その切っ先がオレに差し向けられた。仏教の法具を武道に取り入れた特別製の武具には魔を振り祓う特性が孕まれている。その音とその形状はオレという悪魔を攘却させるためには有効的だろう。十二個の遊環が風で揺れる。シャクシャクと不快な鉄の音が破戒には持戒をと、オレを忌まわしめる。
今の奴を殺すには分が悪い。愛用している得物を持ち得ていない今のオレには勝ち目がない。右斜め後方にある投擲された短刀を手にしたところで奴の振り下ろしによって首を斬り落とされるのは目に見えている。
「大人しく家に帰れ。妹が心配しているぞ」
その発言にオレは冷酷な眼差しを一夜に残して踵を返した。暗闇に姿を消して歩き出す。それ以降、一夜がオレの前に姿を見せることはなかった。
△
荒い呼吸で無計画に静かな夜を歩き出す。
歩く度に赤い衝動が走る脳は明らかに致命的な欠陥器官で、赤い光景を見たくて見たくてしょうがない欲望だけが独り歩きし、俺の身体を引きずっていく。時刻は夜の暗さからしてじき零時を迎えるだろう。血の匂いがするところへ、直感を頼りに歩く。口の中に残っているソレは星宮小夜から分泌された三つの体液。赤く濃い血と汗と涙。自ずとそれを求めている。彼女を求めている。ふと、そういえば、と彼女に覆い被さった時に抱いた違和感は血の匂いがしたということ。自分も含めて血生臭い体験をしてきたからだろうか。誰よりも底抜けに明るい笑顔を浮かばせていた彼女が三歳児のようにギャン泣きする姿を見て俺は……赦せないと思った。彼女から笑顔を奪った奴を殺したい。そうだ、何を忘れている。家に帰るわけにはいかない。帰れと言われて帰られるわけがない。初めから帰るつもりなんてなかった。この街を脅かしている連続猟奇殺人事件の犯人をこの手で殺すまで帰れない。それは彼女のためでもあり、自分自身のためでもある。犯人が殺されたことを知って、彼女の心が安心できるように、醜い殺人鬼を殺して、俺の心が正常に戻れるように。
確実に殺す。
殺すための凶器は持ち得ていないが、きっとそいつは肌身離さず持ち歩いている。奪い取って殺せばいいだけだ。捜して、見つけて、殺せばいい。単純なことだ。
どこだ。どこにいる。
どうせ愉しいから殺すんだろう?
なら四六時中、殺し回っているはずだろう?
はァ、はァ、はァ。
くそ。身体は神経は細胞は殺したがっているのに、なぜ鉢合わせない。真っ暗な暗闇に沈んだ路地裏を渡り歩く。
はァ、はァ、はァ。
限界に達しようとしていた。
早く殺させてくれ。
早く殺させろ。
陽と陰。
昼と夜。
生と死。
現世とあの世。
丑三つ時。
何もかも曖昧な境界線。
浮遊していく身体と混沌する思考。
沸々と増していく体温と涼しさが勝るしんと張り詰めた静寂な夜の空気。月が雲に隠れて、辺りがいっそう真っ暗になる。いつしか、夜の街から外れた雑木林の中に霧が立ち込める。アテもなくさまよい続ける俺はまるで亡霊だ。生きていないとさえ、錯覚する。
「ぶしゃああああああああああああああッ」
だけど、違った。
自分の身体から勢いよく噴き出している鮮血を見て、初めて俺は生きていることに気付く。血を見て禍々しいほどの殺意が薄れていく。生気が消えていく。見上げれば、そこには血月のように赤い二つの眼があった。
朧げで淡い光が降り注がれる中、銀髪の赤い目をした女がこちらの死に顔を見入るように眺めた後――口元を小さく笑わせた。
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