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幽暗奇譚――死神遣いのノクターン――  作者: たけのこ
六章 追憶のグランギニョール
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6―4 堕とし児の女霊①

 諸星の絶叫が聞こえる前に、彼女の姿は俺の視界から消えていた。急いで俺は諸星の行方を追う。階段を下りて、突き当りを右に曲がって長い廊下に出れば、彼女を捕らえた女の霊が立っていた。


「やだやだやだやだ――っ」


 声を上げる諸星の身体を引きずっていく鞭のような腕。そして彼女のしなやかな肢体を掴んでいる蜘蛛のように細長い女の手。その手にすっぽりと収まっている諸星は必死に抵抗するが、唯一の抵抗手段であった手を封じられている以上、成す術がなかった。廊下を這うように伸びていた全長十メートル程ある黒い腕はみるみる収縮して、女霊の顔まで諸星を手繰り寄せた。嬉しさに開く黒い口。瞳孔のない白い目から流れた血の跡は顎先まで続いていて、にひりと三日月型に目元が歪んだ。


「やぁっとぉ、みぃつぅけぇたぁ~。私の赤ちゃんンンンンン」

「赤ちゃん、じゃない……何度言えば分かるの……私はあなたの赤ちゃんじゃないっ」

「ンンンンン? 赤ちゃんだよ赤ちゃん。今度こそ私の赤ちゃん。私の大切な赤ちゃん」

「だから赤ちゃんじゃないって言ってるでしょ!」

「んーン……じゃあじゃあじゃあじゃあ、赤ちゃんじゃなくなったのなら赤ちゃんからまたやり直しましょう。さあ、私のお腹に戻りましょうね」

「え――?」


 くぱっと女霊の腹が縦一文字に開帳した。どちゃどちゃと汚い水音と一緒に垂れ落ちるは胃腸、その他諸々の臓器。それらとは別に男にはない赤い肉の管と膜に包まれた袋状の器官が露になった。


「いや、やだ。放して……やだ、死にたくないよ、やだやだやだいやぁ……っ」


 諸星をまた一から胎児として育てるために女霊がやろうとしていることは子宮送り。諸星を掴んでいる女霊の手が動く。ぱっくりと開いた腹へと彼女を運び出す。腹の奥の奥。ぬちゃりと赤い肉肉しい粘膜を滴らせた子宮がひくひくと痙攣し出した。


 死にたくない死にたくないと暴れる諸星を俺は遠目で眺めていた。正直言ってここで彼女があの悪霊に取り込まれようが知ったことではないと。むしろ、身動きできずにこのまま女の霊によって好き勝手に腹の中で作り変えられるのを見てみたいと思った。


「助けて……っ!」


 諸星が取り込まれる直前に俺の顔を見て泣きながら乞うた。


「……」


 そうやって都合が悪い時には救いの手を呼んで、お望み通りにその手を差し出せば手のひらを返したように感謝されるんだろう。ああ、人間はなんて自己中心的な生き物なんだ、反吐が出る。今もこうして彼女の助けに背を向けた自分自身にも。


「嘘……、やだやだやだよぉおおおおおおおおおお……っ!」


 諸星の泣き声は赤ん坊のように幼く喧しく、これから目の前の女霊に取り込まれる恐怖よりも俺に見捨てられた絶望感の方が強いように思えた。一瞥する。ああ、そんなに泣いて、綺麗な顔が台無しになるくらいに涙で顔をぐちゃぐちゃにさせて、ああ、この感情は善くない……この上なくぞくぞくした。


 だから助けようと思えた。


 赤い瞳を見開いて、廊下を這うように低い体勢で疾駆する。十五メートル以上ある間合いをコンマ二秒で詰め、飛び跳ねた勢いそのままに退魔の剣を振り上げた。


 女霊の長い指が断ち切れる。黒い血飛沫と汚い臓器の中で諸星を引っ張り出した。


「おい、走れるかってお前……」

「うぅ……」


 未知なる恐怖に襲われて、腰を抜かさない方がおかしいシチュエーションではあったが、まさか失禁しているなんて。涙と鼻水で汚れた顔。股の間から勢いよく放たれた小便でしっとりと濡れた太腿を抱えた。


「いい、口にするな。今はとにかく逃げる」

「でもどこに」

「いいから口を閉じてろ。舌を噛むぞ」


 長い廊下を駆けだして、旧校舎から外に出た。手入れされずに名も無き雑草の生えた校庭を走る。走る。走る。走りながら尻目に見た時、後方から醜悪なる肉の管が風を切って迫っていた。女の腹から飛び出た赤黒い大腸。本体よりも先に旧校舎の窓を突き破って背後の諸星に接近する。


「しっかり掴まってろ」


 言って俺は振り向き様に刃を薙いだ。弧を描くように刃を走らせ、ぶしゃりと赤い体液を纏った血肉の管を切り飛ばす。その時、女霊の怨嗟が校舎に響き渡った。


「どうして逃げるぅぅぅぅ! どうしてお母さんを遠ざけるぅぅぅ! あなたは私のお腹に宿った赤ちゃんなのにぃぃぃぃ!」


 校舎の壁が女霊の強行によって砕け飛ぶ。壁を突き破って出てきた女霊は鬼の形相で俺を追いかける。正確には俺の背にいる諸星を追って。


「赦さない。また私から大切なモノを奪う気かっ! 赦さない赦さない赦さないぃぃぃぃぃ!」


 腹から垂れ落ちた臓器を地面に零して引きずりながら蜘蛛のように四足歩行で追ってくる。女霊本体との追走であれば逃げ切れる自信があった。だが俺と女霊との間を瞬時に詰める肉の管によってその距離は徐々に縮まっていた。


 校庭を抜けて、街の中を疾走する。街を歩く周囲の人間は女霊の姿を認知していない。だが視えないだけで女霊が街の中を通れば、その風圧によって通行人は次々と吹き飛ばされていった。これでは見えない車が街中を暴走しているのと変わらない。


「ちっ」


 しつこい女だ。遮蔽物でごった返した街の中であればすぐに撒けると思ったが考えが甘かった。女霊は地上での追跡をやめ、雑居ビルの屋上から屋上へ飛び移りながら俺の動向を把握する。地上を歩く通行人への被害はこれで免れるが、このままでは逃げ切れない。いっそのこと電車に乗る考えも過ったが、住民への被害が甚大になることは目に見えていた。


「……」


 頼みの綱はやっぱりヘレナしかいない。

 頭上を気にしながら心の内でヘレナに呼びかける。


(おい、ヘレナ)

(……んぅ。なによ、琉倭)


 今目を覚ましたような寝起きの声は間抜けでしかない。


(厄介ごとに巻き込まれた。今とち狂った女の霊に追われている。負ぶった女と一緒に逃げてる。早く助けに来い)

(……。悪いけど今の私は本調子じゃないの)

(本調子じゃないって、調子が良くないと倒せない相手なのかよ)

(そんなわけないでしょ。そこらの近代幽霊なんて私の敵じゃないわ)

(なら早く来いっ)

(…………眠いわ)

(は? もう夜だぞ。お前の好きな時間帯だろ)

(うるさいわね。眠いものは眠いのよ。あなたこそ私の眷属ならそれくらいの窮地、一人で脱してみなさい。人一人抱えるぐらいどうってことないはずよ、その足で私の館まで逃げおおしてみなさい)


 なんでこっちが嗾けられているのか、意味が分からない。


(もういい。呑気に惰眠に耽てろ)

(ええ、そうさせてもらうわ)


「ちっ」こっちの気も知らないで。


 頭上から背後の諸星を目掛けて飛んでくる大腸。赤い蛇のように路地裏の壁と壁との間をすり抜け、それは諸星の首に巻きついた。


「きゃぁぁぁぁぁああ!」


 諸星の悲鳴。助けるというよりもあまりの煩わしさに咄嗟に俺は短剣を振り抜いていた。ギャーギャー喚いて暴れられる方が困るというものだ。


「騒ぐ前にやることがあるだろ。お前の手は何のためにある。掴まりたくないのなら加勢しろ」

「……わ、分かった」


 女霊の猛攻に耐えかねて路地裏から出た俺は入り組んだ道から人で行き交う大通りに出た。この際、周囲の人間が巻き込まれようがどうでもいい。俺には関係のない赤の他人だ。車に轢かれて酷い死に方をしようが何も感じないだろう。


 結果、建物から離れた場所に出たことで地上に降りてきた堕とし児の女霊によって街は蹂躙される。騒然となった街を置き去りに疾走する。正義感の強い諸星でさえ周囲の人間が死のうが気にも留めず指先に全神経を注いでいた。人間、自分の命が危うい立場に立たされれば、他人の命は二の次で自分の命が最優先になるのは生命として当然の反応。自分自身も守れやしないのに他人を守ろうとするのは烏滸がましいにも程があるというものだ。


 はぁはぁはぁ。


 流石に十分間以上全速力で走るのは疲れた。

 ここからヘレナの館まで全速力で走っても三、四十分はかかるだろう。その前に体力が尽きて掴まるのがオチだ。このまま逃げ切るのはどう考えても現実的ではない。


 だから街を出る前に堕とし児の女霊を戦闘不能にさせる。

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