6―2 直感①
教室に入るとクラスメイトの視線は、一瞬にして犯罪者を見るような軽蔑の眼差しへと変わった。俺が自分の席に着くまでにどこからか聞こえてくる陰口は俺をこの教室から排除したい意思の表れなのだろう。けれど、俺に対して陰湿ないじめを仕掛けてくる奴はいない。それは単に下手にちょっかいを出せば、俺に殺されるとでも思っているからだろう。要するにクラスメイト全員、そこら中にいる小心者と変わらないということだ。だからこその静かなる抵抗。その場が作り出す雰囲気で俺を追い出そうとしている。
俺が来るまで賑やかだった教室内は一変し、俺という異物が入り込んだことですっかり重苦しい雰囲気が漂っていた。
朝のHRの鐘が鳴って、教室の扉が開く。
クラスメイトの意識は先生と一緒に入ってきた一人の少女に向けられた。
「皆、席につけ。今日からこのクラスの仲間になる諸星ミクルさんだ。諸星さん、自己紹介をお願いします」
「はいっ。皆さん、おはようございます。諸星ミクルです。見かけからして外国人っぽく思われるかもしれませんが、名古屋生まれの日本人です。前の学校ではミクちゃんと呼ばれていたので皆さんも気兼ねなくそう呼んでもらえると嬉しいですっ。よろしくお願いします!」
にこりと微笑んだ顔は今朝屋上から降り注がれていた微笑と同じものだった。笑顔が板についた、自分の可愛さに自信があるような、誰にでも隔てなく笑顔を振りまいてきそうな八方美人。雰囲気的には少し星宮に似ているが、容姿はやっぱり星宮じゃない。当たり前の話だが。
「……」
横に流れるように編み込まれたミルクティー色の髪。信じられないほど華奢で、儚げで、たおやかな目元をしていて、優しい面持ちを受ける。直感的に見ればそう、自慰もしたことがなければ、その行為も知らない純真無垢な感じの女子高生。自分でもひどい偏見だと思うが、男の加虐心をくすぐるようなたおやかな少女の身体をしている。
「じゃあ、諸星さん。そこの空いている席があなたの席だから……おい、夜月、席が隣なんだから頼んだぞ。他の皆もよろしく頼むぞ。分かったな?」
先生の呼びかけにクラスメイトが返事をする中、俺は机に突っ伏して寝たふりをする。突然の転校生に教室内は授業中でもざわざわと騒がしい。どうやら皆、諸星さんと話をしたくて仕方ないようだが、俺は一切関わりたくなかった。
俺の隣。空白の席は星宮小夜の席だったはずなのに、今はもう別の女の席になっている。それが何だか気に入らないのは星宮小夜という存在がこの教室内で薄れた気がするからだ。それはクラスメイトが星宮小夜という存在を悲しい記憶として結び付けているからで、その記憶を転校生という嬉しい出来事で忘れ去ろうとしている気がしてならなかった。
俺という異物とは対照的に諸星ミクルは闇に沈んだ教室内を照らす星のように笑顔を振りまく。まるでアイドルみたいだ。でも誰にでも振りまく笑顔は俺から見れば安っぽい。まるで何度も身体を重ねていくうちにマンネリ化したセックスみたいだ。それは殺人も同じ。初めてヤッた時の高揚感も多幸感も最初の特別感にはきっと勝らない。本物のセックスも殺人も体験したことがないからこそ変に特別視しているだけかもしれないが、咎めと倫理の枷、常識なんて糞みたいものがなければ殺した後に死姦してみたいものだって……一体、俺は何をネクロフィリア的思考に陥っているんだろう。そして何を俺は授業中に勃起しそうになっているんだろうか。
「……」
本当の俺はこんなんじゃなかった?
いいや、この異常性こそが、俺だ。生まれ備わった俺の嗜好、執着、衝動――、赦されるなら隣に座る女を手元にあるナイフで解体して、母性と神秘の象徴である乳房と子宮を摘出してやりたい。そうすれば消える。星宮の居場所を守ってやれる……ってなんて都合のいい絵空事。その思考の帰結には何一つ正当性がない、異常者的愛着だ。
「あの、よ、夜月くん……だよね、お、起きて……」
呼びかけられて我に返った。右隣から囁いてくる少女の声に促されて、重い顔を上げた。
「なに、呼んだ?」
「あ、うん。あの、教科書忘れちゃったから見せてほしいなぁ……ってごめんね」
「あー、そういうこと」
黒板を見て、何の授業をしているのか確認する。どうやら四限目は現代社会のようだ。机の引き出しから教科書を取り出して、諸星さんに手渡した。
「ありがとう、夜月くん」
「ああ」
適当に返事して再び微睡みに戻ろうとした矢先、諸星さんが席をくっつけてきた。
「は? 何してんだよ」
「え、何って私一人だけ使ったら夜月くんが見えないでしょ?」
「いいよ俺は。この通り眠っているから必要ない」
「駄目だよ。居眠りしたら授業についていけなくなっちゃうよ」
真面目な奴だ。こんなろくでもない奴、放っておいた方が身のためだって言うのに。
「ね?」
「……はぁ、分かったよ」
見かけによらず、お節介な女だと思いつつ、上体を起こした俺は目蓋を瞑りながら授業に参加する。その時、隣の女のくすくす笑いが聞こえて、すぐにその瞼を開けた。彼女が笑っていた理由は不覚にもヘレナの落書きを見たからだった。はっきり言って最悪だ。あいつのいたずらがここに来て尾を引くなんて。
「もうっ、夜月くん、何してんの……」
ふふふと肩をすくめながら小声で喋る諸星さんは、呆れながらも楽しそうな笑顔を俺に向けてくる。
「違う、これは俺がやったんじゃない」
「え~、じゃあ誰がこんなことするの」
「それはどこぞのバカ女がやったんだよ」
「どこぞのって、あ、もしかして妹さん?」
「いや、妹はいるけど妹の仕業じゃない」
「え~、じゃあだれ、クラスメイト?」
「違う、単にばかな女だよ」
「あ、分かった、夜月くんの彼女さんだ」
「……違うけど、まあもうそれでいいよ」
「あーはぐらかされたぁ~。ふふ、変なの」
そう言ってにこやかに笑っている諸星さんを横目で見た。久しぶりに隣で誰かが笑っているのを見て、星宮を思い出す。
星宮だったらどんな反応をするだろうか、彼女の笑った顔と声を思い出す。なんて想像したところで虚しいだけだと記憶に蓋をした。
諸星さんが俺に気兼ねなく接してくるのは俺がどんな人間か知らないから。俺がクラスで浮いていることも、俺が置かれている立場も生い立ちも背景も、きっと知れば俺を遠ざけるようになるだろう。
「……」
案の定、昼間になって俺がトイレから教室に戻ると、諸星さんの周りに集っていたクラスメイトが助言というよりは忠告するようにありもしないことを俺が仕出かしたように伝えていた。
「ミクちゃん、夜月くんには関わらない方がいいよ」
「え、どうして?」
「だってあいつと関わるとろくでもないことが起こるし、関わった人みんな不幸になるんだよ」
「……え、へえ、そうなんだ」
「星宮さんっていう子もね、夜月くんと仲が良かったんだけど、行方不明になったままだし、たぶんあいつが死体を何処かに埋めたんだって噂になっている。それにね、音無くんっていう子もあいつと関わったせいで亡くなったし、だからもう喋らない方がいいよ」
「ふーん……分かった。気を付けるね」
クラスメイトの一方的な噂話を鵜呑みにするように返事した諸星さんは、午後の授業から話しかけてくることはなかった。と思ったが、何事もなかったかのように俺に話しかけてきた。
「夜月くん、お昼休み、どこ行ってたの?」
「……。誰も使わなくなった旧校舎で寝てた」
「へえ、旧校舎なんかあるんだ。え、じゃあさ、放課後、暇?」
「…………暇ではあるけど」
「じゃあ旧校舎行ってみたい。案内してよ、一人じゃ怖いし」
「……お前」
「お前じゃない、諸星ミクル。ちゃんと名前で言って」
周囲の視線を感じて、嫌気が差してくる。
「……諸星さん、このままだとクラスから除け者扱いされちゃうよ」
「え、どうして?」
「どうしてって、昼間、クラスメイトから聞かされただろ?」
「あー、そういえばそうだった、夜月くんが人殺しだとか変なこと言ってたなぁ」
「言ってたなぁって、ちゃっかり頷いてただろ」
「それはだって頷いておかないと食い下がってくれなさそうだったから面倒くさくてつい。……それに私は、まだ出会って間もないクラスメイトの噂や言葉よりも私の直感を信じているの。そして私の直感は正しかった。夜月くんは優しい人だって」
「ふっ」
聞いていて吹き出しそうになる直感だ。そしてその直感通り優しい人間だと認識したこの女の観察眼にもお手上げだ。人を見る目が全くない。
「別に諸星さんが俺のことをどう捉えようと勝手だけどさ……きっとその直感は外れることになるよ」