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幽暗奇譚――死神遣いのノクターン――  作者: たけのこ
五章 愛玩のカルマ
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5―12 犬の幕切れ

 怒りに我を失った獣が跳躍する。


 炎を噴き散らかしながら美鈴に襲い掛かる犬神は既に損傷していた肉体を完全に修復させていた。負のエネルギーでは傷を癒すことが難しいという常識を自身の魂を削ることで覆す。それを可能にしているのは自身の中に1000体以上の魂を内包しているからだろう。その力業に対峙する美鈴はつまらなそうな表情を浮かべていて、自身の右手を手刀にして薙いだ。


 六本のうち、二本の腕が靡くイデアによって斬り落とされるが、犬神は直ぐさま体勢を四足歩行に立て直して、巨大な爪を振り下ろす。瞬間、美鈴の身体から溢れ出すイデアはその役割を変えた。


 物質の三態と言われる「気体」「液体」「固体」の状態変化。美鈴の緻密な加圧操作によって液体から固体に相変化したイデアは自由度を失う代わりに強固な障壁となって犬神の攻撃を弾いた。イデアによって旧校舎の壁まで弾き飛ばされた獣は理解する間もなく、胴体を真っ二つに両断される。だが魂の代償によって時間が遡行したかのように再び息を吹き返す。


「くどいね。雑魚を殺しても雑魚がまた生き返る。全くもって徒労だ」


 美鈴からは笑みが消え、周囲に散らばっているイデアの分子は霊力による加圧操作によって彼女の手元に集束していく。


「でもそれももうおしまい。あなたらの命は既に私の手にある」


 そう告げた時点で犬神の四肢は切断されていて、治癒する間もなく、犬神の頭上に浮遊していた美鈴は液状となったイデアをぶちまけた。穢すように汚すように。身体中にへばりついたイデアを拭おうと自身を燃やそうとするが、その炎は溶岩のように冷え固まっていく。怨念の炎を呑み込んだイデアによって身動きが取れなくなった犬神は成す術なく、その命はもはや美鈴の手中にあった。


 彼女の手がぐぎぎと首を絞めるように圧縮されていく。イデアによって塗り固められた犬神の咆哮が聞こえた瞬間、それは絶命の声となって風に流れる。躊躇なく美鈴が操るイデアによって圧し潰された犬神は跡形もなく黒い灰となって空中に舞い散ったのだ。


「終わったよ、夜月くん」


 何とも呆気ない幕切れだった。凄まじい怨念に駆られた犬の神霊が美鈴によって容易く祓われたことに思考が止まる。


 世界に見出された才覚の霊媒師がイデアという持ってはいけない武器を手にした感じ。鬼に金棒とはこのことだろう。


 犬神の残骸が灰のような黒い粒となって降りしきる。みるみるうちに黒い塵で染まった地面に一人立つ美鈴の姿は人間からかけ離れた存在に見えて畏怖の念を抱かせる。俺の心が彼女に不気味さを抱くのは自分にはどうすることもできない敵わない相手だと認識したからか。底の知れない霊力と得体の知れないイデアという概念物質。その概念物質の正体がチェルノボーグの娘から生成された呪いならその呪いをどこから彼女は抽出しているというのか、そもそも胡散臭い笑みの仮面を被った彼女の存在がどうしても不確実に映るのはなぜか、俺はその未知なるものに対して深い恐怖を感じているのだ。


「? どうしたの? 祓ったのに浮かない顔して、さ」

「あ、いや、助かったよ、ありがとう」


 俺が感謝を述べると、美鈴は嬉しそうに笑って、無駄に得意げな顔をヘレナに向けて、喋り出す。


「うふふ、ありがとうだって、シフォンティーヌ」


 最後の最後までヘレナを煽るような美鈴の物言いに、ヘレナは少し腹を立てながらも我慢して無視をする。


「あーん、無視された~」

「うるさいわね、今はあなたに構っている暇はないのよ」

「あーそ。じゃあ夜月くん、私先帰るけどさ、くれぐれも夜道には気を付けるんだよ。最近……いやずっとか、変なのがちょろちょろ動き回っているからね」

「変なのって何だよ」

「悪霊じゃない存在、死魔だよ。生前の恨み、嘆き、未練が理由で生者を呪おうとするのが悪霊なら死魔は人を呪い殺すためだけの存在」


 美鈴は振り向き際に言って闇夜に消えていく。一方ヘレナは黒い雪みたいに降り積もった犬神の残骸に手を這わせていた。強制的な祓いに伴う不確定要素の支障。それを危惧しているヘレナによって黒い灰は浄化するように光の粒となって正式に弔われる。


「ヘレナ……美鈴が言っていることは本当なのか?」

「ええ、巷で起きている連続通り魔事件も、口無音があんなにも生と死の狭間で揺れ動いていたのもおそらくはそいつのせい」

「そいつって誰だよ」

「シャーデンフロイデ。悪感情を沸かせる死魔よ」

「じゃあ、街で人間同士の殺し合いが勃発したのも」

「ええ、そいつが原因でしょうね」

「じゃあそいつを倒せば街で起きている事件は解決するって話か」

「表面化している事件はね。けど根本的な原因はそこじゃない。元凶はもっと根深い場所にいて、瑠璃色の死神……ライツァリッヒ・レヴェナドックスを倒さない限り、何も変わらない」

「何だ、そいつ」

「死魔を生み出している死神の名よ。そして私が倒さなくちゃならない相手」


……


 深夜零時の街の中。電柱には行方不明者のポスターに薬物防止の看板。路地には酔っ払いが吐いた吐瀉物が落ちていて、街から少し離れた団地には確か、老人と生活受給者が半数を占めている。


「……なんにも、変わってないな」


 緩やかな時が流れるメロウな夜はここにはない。夜はいつも誰かが泣いていて、いつも誰かの怒鳴り声で満ちている。でもこれがいつもの光景で、普通のことだから、たとえ人が死んでいようがここの住人は気にもしないだろう。いや、普通じゃない人種は面白がって死体を間近で見に行くはずだ。いいや、それこそが人の本質。どこぞの死魔が人の悪意を触発させて住民全員が狂乱しようとも、人の本質に悪意が宿る限り、いずれ人間は殺し合う運命さだめ。見限りはあの時からもうついている。

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