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幽暗奇譚――死神遣いのノクターン――  作者: たけのこ
五章 愛玩のカルマ
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5―11 冥獄聚合怨獣――犬神――③

 地上に降り立った美鈴の装いはいつもの黒道着。


「どうして美鈴がここに」

「こんなあからさまな霊力を放っている奴がいたら駆けつけるのは当然でしょ」

「まあそれもそうか。でも美鈴一人か」

「ええ、一夜も私の部下も必要ないと思って追い返してきたよ。他にやることが色々とあるしね」

「そうか」


 俺が納得すると、美鈴は俺の手を掴んだまま座り込んでいるヘレナに視線を向けた。


「また会ったね、シフォンティーヌ。……あらあら、死神なのにこんなに霊力が減っちゃって……今のあなたなら低級の悪霊にも負けちゃうんじゃない~?」


 分かりやすく口に手をあてておちょくる美鈴にまんまと乗っかったヘレナは歯向かうように否定する。


「ふざけたこと言わないでもらえるかしらっ! あんなデカブツ、私一人でやれるわよ」

「へえ~、だったら私はいらないかー」


 唇を噛みしめたヘレナの顔に悔しさと屈辱感が滲んでゆく。その様子を見た美鈴が「あれれ~、どうしちゃったの?」とさらにからかった後「まあ、もしあなたが心の底から私にお願いしてくれたら考えなくもないけど、ね」と意味ありげな言葉を吹っかけた。


「っ」


 依然として俺の腕を掴んでいるヘレナの手に力が入る。「痛っ」ミシミシと腕の骨が軋む音がして俺は顔をしかめた。


「あっ、ごめんなさい」


 はっ、と我に返ったかのように俺の苦悶の声に気付いたヘレナは手を離した。


「琉倭、大丈夫?」


 労わるように俺の左手をさするヘレナは何とも言えない表情を浮かべていて、そこには俺の心配よりも美鈴に願いを乞うことに対する抵抗感の方が強い気がした。それほどまでに死神が霊媒師に頼み事をすることがどれほどの屈辱か伝わってくる。俺としては別にヘレナが苦悶の表情を浮かべている姿はずっと見ていられるし、彼女が美鈴の前で首を垂れて惨めに懇願する姿も見てみたいと思った。でもそれ以上に第三者の手によって彼女が惨めな思いをするくらいなら、自分がそうさせたいと強く思った。


「美鈴、お願いしたいのは俺の方なんだ。これ以上、ヘレナの顔に泥を塗るようなことは止してくれ」

「あら、らしくない。随分とシフォンティーヌに思い入れがあるみたいね……ってあぁ、そういう感じか」


 俺の気持ちを詮索するような間があった後、人体を溶解させるほどの死の熱波が押し寄せる。それを片手で振り払った美鈴は続けて言う。


「うん、分かったよ。夜月くんの頼みなら仕方ないね。シフォンティーヌもごめんね、おいたが過ぎたみたい」


 美鈴が振り返ると同時に灼熱の炎光を纏った異形の戌が口から轟々と燃える火の光線を放射した。だが、その炎も美鈴の前では粉塵となって霧散する。


「さてと、神にまで至った愛玩のカルマ、どれほどのものか、私にも体感させて」


 蒼い瞳を輝かせながら絶対的強者の風格を放つ笑みに焚きつけられたかのように、犬神は体内に生成した炎を砲弾のように解き放つ。迫りくる炎はすべてを破壊尽くさんとする炎弾。単純な破壊の熱量は犬神の怒りを体現したかのように激しく、犬神の口から次々と繰り出される炎は容赦なく美鈴に炸裂した。


 深い闇の中に火柱が立つ。美鈴が立っていた地点に火焔の弾が着弾する度に新たな火柱が立ち昇る。まともに食らえば、火だるまになっているはずだが、炸裂した炎弾は音もなく、まるでくす玉が割れて散る紙吹雪のように火の粉となって空中に舞い散っていく。やがて無数の白煙はしだれ柳のように周囲に広がる。その真ん中には美鈴が何事もなかったかのように立っていて、彼女の八方にはカーテンみたいに薄い膜のような黒い障壁が展開されていた。


「イデア」


 俺の隣に座っていたヘレナが立ち上がり言った。彼女の瞳は鮮やかな赤に色付いていて、美鈴が操るイデアを観察するように見つめていた。


「あれが何なのか分かるのか」

「琉倭にも視えているでしょ?」

「ああ、でもあれがどういうものなのか、よく分からない」

「……簡単に言えば、世界も人間も物質も、すべてのモノには理想の姿、完全なる真の姿というものがあるの。それがイデア。だから現実世界にあるモノはすべて見かけに過ぎず、永遠不変の本質に基づいて存在しているイデアという本物に贋物は敵わないってこと。けど、それは彼女の代物ではないわ」

「どういうことだ」

「イデアという概念的物質はボーグの娘が遺した負の産物。あの女は自身を呪いの受け皿にして、それを現実世界に発現させているのよ。あくまで彼女の能力は見たり触れたりできないものに関与し、自由自在に操る能力よ」


 だからこの地球という現実世界を土俵にしている時点で犬神に勝ち目はないということか。事実、犬神の肉片は至る所に飛び散っていて、肉体を再生させることも叶わないほどに疲弊していた。


「あら、もうおしまい? 私の攻撃も視えていて、傷も癒せるんだから、もっと手こずるかと思ったんだけど……、ねえ、あなたたちの怨念ってその程度のモノなの?」

「ぎ、ザマ……っ!」


 怒り狂った犬神が燃え盛る腕を振り下ろした。美鈴がその腕を黒のイデアで切断しようとした時、彼女が形成させたイデアが割れた。


「ふーん」


 異変を感じ取った美鈴は至近距離で振りかざれた爪を躱し、再び手から黒のイデアを発現させるが、犬神の薙ぎ払いによって後方へ弾き飛ばされた。


「守護と報復。自らの魂を削って私の攻撃に耐え抜くか」


 地面に着地した美鈴は犬神の魂が一つ消失したことを冷静に見抜いた上で残念そうにため息をつく。


「はぁ、がっかり。ねえ、あなた本当に神さま? 神さまならさ、そんな人間みたいに何かを犠牲にして勝とうだなんて頑張り見せないでよ」

「なんだ、と」

「……あぁ、でももしあなたが神さまじゃなくて、神さま風情だったならその犠牲は尊いものなのかな……」

「おのれぇ……この犬神をどこまで愚弄すれば、気が済むか……っ!」

「えぇ? だってそうでしょ、神さまでも何でもない私にあなたは負けるんだから、さ」


 犬神の敗北を宣告した美鈴の爪の間から黒い水滴が溢れ出す。彼女が自在に操る黒のイデアには段階があった。その色の濃さの段階がどれくらいあるのかそれは彼女しか知り得ないことだが、その黒は表現し難いほどに漆黒で今まで見たどの黒よりも禍々しく視えた。

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