5―9 冥獄聚合怨獣――犬神――①
旧校舎の校内から動物の泣き叫ぶ声が響いている。校庭を渡って急いで校内に立ち入った時、足は止まった。
神使としての象徴だろうか、朱い前掛けをした狛犬が二階につながる階段の前で鎮座している。金の瞳をぎらつかせながら、渦模様の白い獣毛をたなびかせる。角の生えた頭と威風堂々とした容姿は犬というよりは獅子で、そこらの霊とは別格の霊獣であった。凄まじい霊力の波動。この上ないほどの威圧感に死のニオイと殺気……だが、この眼だけが違和感を呈していた。
「? ヘレナ、こいつ本当に神使か?」
「いいえ、琉倭の直感は正しいわ。この者は神使の成り損ない。神使は決して私利私欲に堕落したりはしない。十二神使のうちの一柱、『戌』の名を与えられた神獣は私が思っている以上に思慮深い」
「じゃあこいつは何だ」
「我が名は神の名を持つ怨霊――犬神。使鬼神法の果てに産まれた犬の怪異である」
厳かな青銅の声が耳鳴りとなって脳内に響いた。
犬神と聞いて人は何を想像するだろうか。
時は平安まで遡る。
当時民間に広がった呪術に『蠱毒』というものがあった。蠱毒とはヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いをさせ、最終的に勝ち残ったものを神霊と見なし、この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、福を得たりする呪術のことだ。そこから派生して対象となった犬の霊を犬神と呼ぶようになったと言う。
まさしく今目の前に立つ犬の神は生前人の手によって酷い殺され方をした犬の怨念が形となったものなんだろう。
今も昔も犬の扱われ方はあまり変わらず、昔から人間の手によって使役される動物が犬だった。犬神となるための元となった犬。
犬神を使役させる工程ははっきり言って惨い。犬を生きたまま首だけ出した状態で地面に埋めた後、目の前に餌を置いたまま飢えさせるといったやり方だ。そして餓死状態の犬に対して魂と肉の等価交換を受理させ、その首を刎ねた後、焼いて残った骨を箱に入れ、終いにはその箱を四つ辻に埋めるのだ。四つ辻は人で行き交う場所だ。きっとその犬の首は死んでなお何度も何度も人間に踏みつけられたことだろう。そう、餓死の中で無惨に首を刎ねられ死んでいった犬の恨みを増幅させるあくどい手法によって生まれる呪法こそが『犬神』だったのだ。
犬神が持つ力は術者の望みを叶えるべく、術者が望んだモノを持っている者に憑りつくというものだった。ただし現代、飼い主によって飼われている犬と違うところは術者によって使役された犬神は決して従順なわけではなく、犬神によって祟られた術者は数多くいる。犬の魂魄を操る禁術、命を犠牲にして成り立つ呪いは強力であるが故に、生贄となった犬の怨念は凄まじいものだったに違いない。言葉通り人間を恨みながら成仏することなく神になった存在なのだから。
「惨い死を遂げた同胞の恨みをむざむざ宥めようとする頭蓋こそ理解できぬ。何より、身勝手な理由で我が同胞を殺した人間を我は赦さぬ」
憎悪に満ちた金の双眸が光る。四足歩行は直立となって、半身半獣の怪物になった。波立つ白の獣毛は一瞬にして業火の帯となり、何の素振りもなしに、校内は異様な光景に変貌を遂げた。ヘレナが作り出した異界の侵食に近しい。辺り一面、動物の眼があった。眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼眼。どこを見渡しても何百、何千もの眼に取り囲まれている。
その眼がぼとりぼとりと床に落ちて、一つの目玉から犬とも狐とも言い難い四足歩行の魑魅魍魎が跋扈した。とてもじゃないが、捌き切れる数ではない。
「この数を前にして戦意を失くさないのは誉めてやろう」
「使鬼神法……多勢に無勢とは神のくせしてやっていることはそこらの低級と変わらないな」
「最上級の眼を持ち得ようともその所持者が低能であればその眼は節穴になる」
「どういうことだ」
「簡素な話。我が同族が抱いた数えきれないほどの呪いや恨みを引き受けたまで」
「琉倭っ! 気をつけなさい! 狙いはあなたよ」
千を優に超える数の化け犬が一斉に襲い掛かるが、その活動生命はヘレナの瞬き一つで完全に停止した。だが犬神にとってそれは想定内。初めからヘレナの足止めのために呼び出した犬の亡霊。冥界を展開させることに手一杯なヘレナを差し置いて、犬神が目にも留まらぬ速さで俺に接近する。
死を司る存在はヘレナの冥界下でも難なく行動し、俺を殺しにかかる。だが僅かながらに動きは鈍かった。眼で追えないほどの動きではない。とは言え、ヘレナにも限界がある。彼女の冥界の顕在化が崩れる前に決着をつける。犬神を倒さない以上、周囲に群がる犬霊も消失することはないだろう。
とはいえ、倒すには難儀な敵だ。
たなびく白の獣毛はうねり狂う炎。身体全身を纏う炎はそれ自体に意志があるようにしなり、鞭のような動きで俺の身体を捕らえようとする。生き物のような炎の帯が頬を掠める。皮膚が焼けるような臭いと痛み。だが怯むことなく炎の帯を掻い潜り、退魔の剣を振り下ろした。
「っ――」
炎の獣毛で守られた獣の皮膚はセメント、いや冷えて固まった溶岩みたいだ。見かけ以上に堅固で、振り下ろした退魔の剣は弾かれる。
「痒い、のォ」
鼻につく陽気な声が耳に届くよりも前に俺の腹部には凄まじい衝撃があった。点滅する視界に残るは赤い残像。燃え盛る肉の管。目を覚ますと俺の体は校庭に臥していた。どうやら吹っ飛ばされて意識を失っていたらしい。腹部を見れば服が焼けて、爛れた皮膚が見えた。酷い蚯蚓腫れのような痕。炎の帯と化した獣毛でからめとられたみたいだ。だが気が立っているせいか、痛みはなく、平然と立ちあがる。つぅーと口の端から血が垂れた。
「舌が切れたか。けど内臓も骨も問題ない」
口の中に溜まった血を吐き捨てて、対峙する獣の怪物を視界に収める。正直言って今まで相手にしてきた奴とは比べ物にならないほど、強い。数百年、いや下手したら千年近く続く積年の恨みは伊達じゃないということだろう。けれど決して奴の八つ当たりじみた行為に理不尽さは覚えなかった。
それは普段の人間が常日頃からやっていることに近しいからだ。普段優しい親が垣間見せる子への虐待。何の関係もない弱いクラスメイトをストレスの捌け口にする同級生。むしゃくしゃしてつい魔が差して人を殺した犯罪者。そんな犯罪者にはなれずに地面に群がる蟻をひたすらに踏み潰すことしかできない一種のカタルシス。共通として言えることは自分よりも弱い相手にしかできないってことだ。
「勘違いの俗物が。お前は神なんかじゃねえ。そこらの弱い者いじめしかできねえ低俗共と同類だ。生前お前らに愚行を呈した術者とやっていることは変わらない」
「ぬかすなよ、小僧。弱ければ虐げられ、強ければ悪だと疎まれる。お前のその発言は弱者であることを肯定し、強者を悪とする、弱者が弱者であることを良しとする弱者の歪んだ価値基準だ」
「自惚れるなよ、犬コロが。いつからお前は俺よりも勝っていると思い上がっていた。本当は怖いんだろ? 俺に負けて弱者に逆戻りするのが。……だから強がって犬の後ろに神を付けたがる。なんせ、犬そのものが弱者になるべくしてなった責任だもんなァ――」
俺の発言に分かりやすく、金眼が大きく見開いた。強まる殺意を向けられて、俺の殺意も昂っていくのを感じた。
「弱者如きが、強がりおって――っ!」
激昂した人型の赤い獣が炎の右腕を薙いだ。風と音も感じる間もなくうねり狂う何本もの炎の束が俺に差し迫る。ゲヘナの炎を帯びた薙ぎ払い。さっきのモノとは違う。直撃すれば、俺の身体は一瞬にして灼け果て、血肉は蒸発しながら飛散するだろう。それを覚悟の上で俺は憎悪に満ちた業火を真横に振り払った。
「なに――」
たなびく煙の中を突っ切りながら犬神の間合いに入り込む。驚嘆と憎悪に血走った金眼。炎の獣毛を逆立てた犬神が俺に喰らいつこうとした刹那、白刃の閃光が蛇のように伸びる肉舌を斬り飛ばした。退魔の剣でさえ切れなかった己の肉体が意図も容易く切断されたことに犬神は苛立ちと不快感を露にする。地面に落ちた肉舌の先端部が蚯蚓のように跳ね回わるのを尻目に立て続けに刃を振り下ろす。その攻撃を跳び退いて躱した犬神は躊躇いなく自身の舌を根元から引っこ抜くと、すぐさま生え変わるように長い舌を復元させた。